辺りは少しずつ暗くなってきていて、夜がすぐそこまで来ているようだった。縁日の入り口付近には、綿あめ屋と、光るおもちゃを売っている店が並んでいた。

 綿あめというと決まって、思い出すことがある。

 あれは僕が10歳頃、このお祭りに家族で来た時のことだ。やはり入り口付近には綿あめ屋があって、そこにあった青い袋の綿あめが欲しいなとふと思った。しかしその時は咽に何かが詰まってしまったかのように何も言えなかった。中をぐるりと回っているときも綿あめ屋を探しては商品を確認したが、なぜか青い綿あめは見当たらなかった。妹がおねだりして買ってもらった林檎飴を僕も一緒に買ってもらって食べたが、その時でさえも青い綿あめのことばかり考えていた。

 いよいよ帰るという段になった。出口の綿あめ屋に近づくにつれて、僕の心臓はどんどんと脈打っていった。幼い僕でさえわかるくらいに疑う余地もなく、欲しい、と切望していた。それなのに僕は、いかにも興味ありませんとでもいうように俯き加減で通り過ぎてしまったのだ。しかし30メートルほど通り過ぎてから、僕は突然癇癪でも起こしたかのように、「綿あめが欲しい」と言い出したのだった。きっかけは分からないし、なぜだか泣き出してしまいそうだった。

 僕の突然の主張に、母は目をぱちくりさせていた。そして優しく僕の手を取り、来た道を引き返した。

 数分後には無事に、当時流行っていた戦隊ものが描かれた綿あめの袋を両腕で抱えていた。半透明の水色から、中の白い綿あめが透けて見える。ぱんぱんに膨らんだビニールが手に心地よく、時々、きゅっと押してみてはその感触を楽しんだ。

 帰宅してから、綿あめは食べずに、リビングのテーブルの上に置いた。綿あめの輪ゴムを取るのがもったいなかったのだ。両親に早く食べるように勧められても頑なに断り、なんとも満たされた気持ちで床に就いた。しかし次の日には、綿あめはすっかりしぼんでしまっていた。

 母にそのことを報告すると、「だから早く食べなさいっていったでしょう」と困ったように笑った。昨日のうちにそう言ってくれれば、昨日食べたのに。僕は今まで、目の前にあらわれた幸せを、どれだけ受け入れることができただろうか。


「綿あめ、どれが欲しい?」

 彼女にそう聞かれて、僕は左上から右へと順々に視線を移してみる。髪がカラフルな少女たちや、デザインがかっこいいモンスターや、自分がかつて好きだった5色の戦隊ものもあった。しかしよく見てみると自分のころとはデザインが微妙に違っているうえに、緑じゃなくて黒色がいる。自分にはもうどれがどう違うのか、見分けがつかない。

 そうして右端に、自分が子どもの頃に見ていたアニメのヒーローを見つける。険しい顔をした主人公と、不敵な顔で笑う敵。その周りを多様なキャラが飛び出すような形で描かれている。何曜日の何時かはわからないが、多分今も放送しているはずだ。

「これかな」

 僕がそれを指差すと、彼女は少し予想外だったらしく不思議そうに僕の顔を見上げる。

「この、5色のレンジャーじゃなくていいの?」

「うん。これなら、女の子も好きだからね」

 彼女は目をくりんと見開いて、「優しいね」とふうわり笑う。

 帰りに買ってかえろうか、と提案する。そうだね、と彼女が穏やかに、笑った。


 夜が少しずつ深みを増していく。祭りは仄暗い鮮やかさを保つ。暗い怖い闇から生まれた、ひっそりとした、切り取られた場所と時間。

 少女は金魚掬いの出店の前にしゃがみこんで、水槽をじいと観察している。僕はそのすぐ後ろにしゃがみこんで、少女を観察していた。四角く平たい水槽を、赤い金魚が思いおもいに蠢く。紅と黒が、透明を滑る。

 僕は、ペットというものを飼ったことがない。父はそういったことに興味がなかったし、むしろペットなんてくだらないと、嫌悪さえしているように見受けられた。

 しかし子どもにとっては、ペットは憧れの対象だった。近所にいる人懐こい飼い犬や、学校で飼育していた兎、同級生が飼っていた十姉妹……動物に触れられる機会があれば、僕は積極的に参加した。僕の三つ下の妹もついてくることが多かった。

 僕が小学校6年生の頃、部屋で宿題をしていたら、遊びに行っていた妹が慌てた様子で家に帰ってきた。真っ先に階段を駆け上がり、部屋の扉を開ける。花柄のワンピースを着ていたから、季節は初夏だったように思う。

「お兄ちゃん、大変。ジンが」

 上がる息の合間にそう言う妹の言葉は、そこで一瞬止まったように感じた。しかし実際に止まっていたのは、漢字の書き取りをしていた僕の手の動きのほうだった。

 神社によくいるトラ猫は、ふてぶてしくて、どっしりしていて、それでいて人間に対して怯えもしないし、攻撃してもこない。子どもたちが撫でれば撫でられるままだし、そのくせ猫じゃらしを揺らしても寄ってこない。誰が呼び始めたのかはわからないが、ジンと呼ばれていた。

 そのジンが、ここ最近姿を見せていなかったのだ。どうしたのかな、とふとした時――浴槽につかって100まで数えている時だったり、駄菓子屋の軒先でハズレくじの景品のガムを口に放りこんだ時だったり――に思った。恐らく、ジンを知っている子どもたちの大半は同じ状態だっただろう。しかし、誰もそれを口にすることはなかった。何かしら、不穏な雰囲気を感じていたのかもしれない。

 僕が上半身を捻らせて妹の方を見たのと、その言葉が放たれたのはほぼ同時だった。

「子猫産んでた!」

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