夏祭り

蒼野あかり

 僕はようやく帰ってきた。ここで過ごした時間の割合はどんどん減っていくけれど、それでもこの家が、僕の帰ってくる場所だった。

 荷物を置いて一息入れたが、どうやら明日までやるべきことは特にないらしい。時間を持て余した僕は、散歩をすることにした。帰ってきたばかりで、僕はまだ実家の空気感にいまひとつ馴染めていなかったのだ。

 なんとなく足が向かったのは、かつて毎日歩いていた小学校の通学路だった。子どもの頃はずいぶん距離があったと思っていたが、感慨にふける間もなく小学校に着いてしまった。僕の世界が大きくなってしまったのか、小さくなってしまったのか。或いは、時間が圧縮されてしまったのかもしれない。


 僕の通っていた小学校には鎖の長い鉄製のブランコがあって、校庭の象徴と言える存在だった。校庭に沿って歩いてみると、ブランコは今も健在のようだった。近づいて見てみると、整備されたのか素材が新しくなってピカピカしていた。昔はブランコが揺れるたびに、油の足りない鈍い音が遥か頭上の結束部からギイギイと降ってきたものだったが。無駄なものは排除されて、どんどんと単純になっていく。

 当たりを見回しても、人影はなかったので、そっと校庭に入り込みブランコに向かう。一番端のブランコの鎖を掴んで少し揺らす。冷たく硬い感触が気持ち良い。腰を無理やり鎖と鎖の間にねじ込むと、地面からの高さが低いため、不自然な格好で膝を折り曲げる格好になった。とんと地面を蹴ってみると、体が前後に揺れる。最初は地面に足が着いてしまいそうで漕ぎづらかったが、少しずつ要領を掴んで、揺れを大きくしていった。

 ただそれだけのことなのに、今も楽しいと感じている自分がいた。幼い頃、夢中でいつまでも飽きずに近所の公園でブランコを漕いでいた。あれは確かに、僕だったのだ。

 鎖を握りながら、うんと体を後ろに傾けてみる。スローモーションに揺れる空が、そこにはあった。お世辞にも快晴とは言えない、どんよりと朱い雲が、迫ったり遠ざかったりする。慣れない景色を見たからか、三半規管が少し異常を感じたようで少しめまいがして、僕はゆっくりスピードを落とした。


 ふと、右手にある丘に目をやる。何かの気配を感じたわけでもないし、第六感が働いたわけでもない。ただ、視界を動かしただけだ。

 女の子が、しゃがんでいた。

 髪は真っ黒で、毛先は厚く重そうに綺麗に揃っている。白地に赤いが散らばった浴衣を着ていて、帯は紅くヒラヒラしたものだ。おそらく、小学生低学年くらい。

 僕が観察を終えたのを見計らったかのようなタイミングで彼女は立ち上がると、ぺたんぺたんと白いサンダルを鳴らしながら、こちらに歩いてきた。近づいてきてわかったのだが、浴衣の赤い模様は金魚だった。

 彼女は、ブランコの周りに設置されている小さな鉄柵のところで立ち止まった。目が合ったので、僕も目をそらさずに、じっと見つめる。


「こんにちは」

「こんにちは」


 彼女は、柵に両手をかけて乗り出すようにして、僕の顔を見る。何が楽しいのか、たまらない、という風ににこにこと笑みを零している。何でそんなに笑顔になれるのか、僕にはまだわからない。でも、彼女の右頬にできたえくぼを見て、僕は静かに受け入れた。


「お祭りにでも、行こうか」

 そう言うと僕は少し体をねじらせて、ブランコから抜け出した。目をまん丸にして驚いている彼女を尻目に、ひょいと鉄柵を超える。

「連れてってあげるよ」

 彼女は頷くでもなく、少し顔を伏せて、目を閉じて、照れ臭そうにはにかんだ。

 ゆっくり歩きだしてみる、しばらく歩いていると、彼女が駆け足で僕の隣に並んだ。僕の腰より少し高い程度しか身長がない。なんて小さいんだろう。

「歩くの、ゆっくりだね」

「……僕だって、女の子を労いながら歩くくらいにはもう、大人ですから」

 冗談めかしてそう言うと、何が面白かったのか、「大人だねー」と嬉しそうに言いながら、両の掌を顎の前で合わせてくすくすと笑った。

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