第2話
「……痛っ……たたっ……たー……」
たったたーと続けてしまえばレベルアップしそうな声をあげて悠人は目覚めた。シャワーを浴びずに、しかも着替えずに寝たため、疲れが抜けず体が強張っていたらしい。
壁にかかっている時計を見ると午前十時。
せっかく大学もバイトもない休みの日なのに寝すぎた感は否めないが、目覚めることなく寝続けたということは、体が必要としていたのだろう。
隣の部屋を見ると、悠人より早く起き出していたのだろうか、エルネスタの姿はなかった。
「……もしかして、これだから寝れなかった……?」
仲良く隣り合ったベッドを見て、悠人は冷や汗をかいた。昨夜、あまりにも疲れていて気づかずに寝てしまったが、これはまずいだろう。
付き合ってもいない男女がベッドをくっつけて眠るなんて普通ではない。それなのに平然とそこで眠る自分を見て、「うわ、こいつちゃっかり隣で寝ようとしてる。キモッ」と、エルネスタはきっとドン引きしたのだろう――そう思って、悠人は気持ちが落ち着かなくなった。
今すぐに弁明したい。下心なんてなかったのだと!
だが、その相手は今いないし、そんなことをしても状況が変わるわけではないので、悠人は問題解決のために行動することにした。
「高っ! それなりに値段するもんなんだなぁ」
スマホを片手に、悠人は昨日のコンソメスープの残りとトーストで朝食を済ませた。衝立、スクリーン、パーテーションと様々な言葉で、空間を区切るためのものを検索したが、きちんとしたものを買おうとすればどれもそれなりに値段がした。
この際、保健室のベッドとベッドを仕切るポールに布が貼られたようなものでもいいかという気がしてくる。それなら、ホームセンターに行けば手頃なものが見つかるだろう。
本当ならベッドの位置をずらすのが一番なのだろうが、自分の部屋もエルネスタの部屋もそんな余裕がない作りのため、寝ているときにお互いの姿が見えなくなるようにするしかない。
「チェンジってねぇ……俺にだって選ぶ権利はあるっつーの」
シャワーを浴びながら、昨夜のことを思い出して悠人は独り言ちる。なかなか可愛らしい顔をしたエルネスタの姿を思い出して、悪くはないんだけどなぁと思ったが、チクリと胸を刺すような痛みが、すぐにその考えを打ち消してしまった。
もうしばらく女はいい――そんなことを疲れた心で思いながらガシガシとタオルで髪を拭いていると、スマホが誰かからの着信を告げる。画面に表示された名前を見て、悠人は気怠げに受話ボタンを押した。
「もしもし」
「おはよう悠人! 翔太だにゃー」
「……切るぞ?」
電話は大学の友人からで、そのふざけた調子に起きてまださほど時間の経っていない悠人はついていけない。
「待った待った! 朝から沸点低いなー。今日お前、久々にバイト休みって言ってたからさー、暇してないかと思って電話したんだよー」
「……お前は俺の何なんだよ」
「親友だにゃん」
「……切るぞ?」
「待った待ったー! メシ行こうって言おうと思ってたのー! お願いだから本題聞く前に電話切ろうとするのやめてくれる?」
少し暗くなっていたときだっため、馬鹿またいに明るい友人の声が妙に癪に触った。だが、メシという言葉に気を取り直した。
「あのさ、行きでも帰りでもいいからホームセンターに寄ってくれん?」
悠人は、電話の向こうの友人が車を持っていたことを思い出した。こいつと食事に行くときは、大抵車で学生街から少し離れたところへ行くのだ。
「いいよ。何買うんだ?」
「ポールと布」
「なになに? 新しい彼女ができて『あなたのためにポールダンスを踊るからポールを買ってきて!』とか言われたのか?」
「馬鹿か。どんなに惚れ込んで付き合った子でも自宅でポールダンスしたがる段階でお帰りいただくわ! 文化の違いに苦しむわ。それに、女はしばらくいらんって」
「なんだよー。まだそんなこと言ってんのかよー。元気出せよー」
「いや、別に元気だけど」
「俺の声聞いたら元気出た?」
「……」
「嘘だってー」
叫ぶ翔太に悠人は何も返さなかったが、この友人の電話に救われたのは確かだった。翔太からの電話がなければ、あやうく鬱々とした思考に捕らわれて時間を浪費してしまうところだった。
おそらく、翔太としても悠人のそういった状態がわかった上での誘いの電話だったのだろう。こういう気遣いができる男だから、翔太はよくモテる。
「おい悠人! 俺とメシ行くだけだからって、その格好はやる気なさすぎだろ」
着替えを済ませてマンションの下に降りると、すでに到着していた翔太が悠人を見て言った。
清潔であれば構わないというような気持ちで、悠人は取り込んだまま床に放っておいたネルシャツとジーンズを身につけていた。それにに対して、翔太はデニム地のライダースジャケットとゆったりとしたカーゴパンツで決めていた。そういった少し厳つい服装をしてもキツくなりすぎないくらい甘めの顔立ちをしているというのも、憎らしいところだ。
「神様って不公平だな」
顔が良くオシャレで友人も多く、おまけに家が金持ちという翔太を目の前にして、悠人は普段は全く意識しない神に恨み言を言ってみる。悠人が翔太に優っているのはせいぜい身長くらいだ。そうはいっても身長を最優先に恋人を探す人はなかなかいないため、何の慰めにもならない。
(でも、翔太はちょっとウザいからな)
友人の欠点を何とか見つけ出し、悠人は少し溜飲を下げた。
「先にホームセンターに寄るなー」
悠人が自分に失礼なことを思っていることなぞ露知らず、翔太はにこやかに車を発進させた。
「何買うんだったっけ?」
「パーテーションっていうのかな。保健室のベッドを区切ってるようなのあるじゃん? ああいうのをちょちょっと作ろうかと思って」
「あの狭い部屋を区切ろうっての? 何? ルームシェアでも始めんのか?」
「……」
「冗談だってー。怒るなよー」
図星だったから何も返せなかっただけなのだが、翔太はそれを悠人の地雷を踏んだと思って慌てた。
ここ最近、悠人はこうやって腫れもののように扱われることが増えていた。触れて欲しくないと思っていることも確かにあったが、周りが過剰に気を使うのが辛くもあった。
「……女の子って、ひどいのばっかりじゃないからなー」
ハンドルを握り前を向いたまま翔太は言う。にやけてはいるが、本当に気遣ってくれていることを悠人はわかっていた。
「……わかってる。自分がとんでもない女に引っかかっただけだって。見る目がなかっただけだって。でも……」
「あー、夢から覚めても、好きだった気持ちとか楽しかった記憶がなくなるわけじゃないからなー……」
「……うん」
それ以上は、二人とも言葉が続かなかった。
この話題は、悠人にとってはまだ傷口から血を噴き続けるような痛みを伴うものだったし、翔太もそのことを知っていたからだ。
入学したての頃からの仲で、別段沈黙は苦にならなかったが、翔太は悠人の心がふっと暗闇に落ち込まないようにと、信号待ちの隙にラジオをつけた。
ラジオからは気の早いクリスマスソングが流れていたが、クリスマスに特別な思い出はないため、悠人の傷は疼かなかった。
早回しで通り過ぎる景色を横目に、悠人はクリスマスを迎えずに終わってしまった恋のことを考えていた。
なんてことはない恋だった。
たまたま同じ講義をとっていた子が、試験直前になって「レジュメをコピーさせて」と声をかけてきて、断る理由もなかったからファイルごと貸してやり、それがきっかけて親しくなって付き合うようになったという、大学生カップルたちが散々やりつくしたパターンのひとつにすぎない、ありきたりな出会いだった。
付き合いはじめてからも特筆するような出来事はなく、その年頃のカップルがやるようにデートをして、くだらない喧嘩をして、仲直りして、ささやかな記念日をしょっちゅう祝う日々を重ねていったのだった。
付き合いはじめて半年が経とうとする頃、悠人はその彼女におねだりをされる。「お誕生日にバッグが欲しいな」という、これまたありきたりといえばありきたりなおねだりだった。
ただ、そのバッグの金額がありきたりではなかったのだが、はじめての彼女で浮かれきっていた悠人はそのことを知らなかった。
二ヶ月後の誕生日に間に合わせるべく、悠人は掛け持ちもしてがむしゃらにバイトをした。夏休みに入っても遊ぶことより働くことを優先した。彼女には淋しい思いをさせてしまうが、プレゼントのために少しの間だけと思って我慢をしてもらった。
そうして夏が終わり後期の授業が再開される頃には、新入社員の初ボーナスに軽く届くほどのお金を貯め、悠人は彼女が欲しがっていたバッグをプレゼントしたのだった。
だが、その後彼女の浮気が発覚する。
「……何も二段のオチをつけなくてもいいじゃんって感じだよなぁ」
悠人は、別れるまでのあれこれを思い出して呟く。
ある日、突然最後のコマが休講になって、バイトも休みで、彼女に連絡がつかなかったから翔太と遊ぶことになり待ち合わせ場所に向かっていたときのことだ。悠人は人混みの中に彼女を見つけ、声をかけようと距離をつめた。だが、悠人より一歩早く彼女に駆け寄る男がいて、そのまま二人は仲良く腕を組んでまた人混みに消えていった。見間違いではなかった。彼女は悠人がプレゼントした、馬鹿高いカバンを持っていたのだから。
その次の日、悠人は彼女を呼び出して事実を確認した。誤魔化すことなく「バイトが忙しくてなかなか会えないのが寂しかった」と涙ながらに告白した彼女を、迷った末に悠人は許した。
だが、翔太の女友達から衝撃の事実を聞かされ、それがきっかけで悠人は別れを決意する。
なんてことはない。
悠人は浮気されたわけではなく、浮気相手だったのだ。人混みの中に消えていった男と彼女は、一年以上前から付き合っていたらしい。
「三段オチじゃねぇ?」
翔太が哀れむ目をして悠人の呟きに答える。
そう、オチはさらにあった。
彼女の誕生日は十月ではなかったのだ。
「ビーフシチュー食いてーなー」
「トンカツ屋に入って言うことじゃねぇだろ。今度作ってやろうか?」
「ううん。可愛い女の子に作ってもらいたい」
「……お前、まさか」
「そう。俺も別れたんだー。というかいつものパターン」
ホームセンターで無事パーテーションの材料を買ったあと、同じ敷地内にあるトンカツ屋に二人は入った。大学生になって良かったと思うのは友達と食事に行くときでも高校生のときまでなかなか入れなかった店に入れることだよな、などと言いながら。家が金持ちでも遊ぶ金は自分で稼ぐという姿勢のため、悠人は特に翔太といるとき金銭感覚の違いに困ることはなかった。
「いつものパターンって、あれ? しっくり来ないってやつ?」
「そう、それ」
「今回はどっちが言ったん?」
「むこう」
「お前的にはどうだったんよ?」
「んー言われてみればねぇ、違ったかもねぇ」
「そういうもんかねぇ……」
オシャレで顔も性格も良い翔太は、女には確かにモテるが、どの子と付き合っても大して長続きしなかった。どこの夢見る乙女だよと言いたくなるが、「運命の人」なるものを探しているらしい。だから当然相手もそのノリで付き合い始めるから、そうじゃなかったとどちらかが気づいたときは意外にもあっさり別れてしまう。
「いや、大事よ? 違和感に気づいてもズルズルいくのはよくないんだって!」
「まぁ、そこには同意だけどさ。運命云々ってのはさ、長く付き合ってく中で『そうかも』ってジワジワ来るもんなんじゃないの?」
「お前、テキトー言うなよ!」
「……」
「ご、ごめん!」
「いや、いいんだ。……俺、そんなもんがジワジワ来る前に終わったし」
確かに知りもしないことを言うもんじゃないと自虐的に思って、悠人はトンカツに集中することにした。
運命だとかそんなこと思わずに付き合い始めて、よくわからないまま終わってしまった恋だった。
できることなら、お互いの存在が日常の中に溶け込むくらい長く付き合って、そういったゆったりとした時間の中で“運命”なんてものについて考えてみたかった。
だが、別れた彼女にとって悠人は、そもそもそんな相手ですらなかったのだ。
そのことが、何より悠人を傷つけた。
「俺さー、やっぱり平凡な出会いよりびっくりするような出会い方するほうが運命っぽさが増すと思うんだよな」
味噌汁を啜りながら翔太はそんなことを言う。カッコイイのにこういうことを言うのがいかんと、悠人は半ば呆れる。
「何それ。空から降ってくる系ヒロインとかご所望なん?」
「あ! いいよな、そういうのだよ! 何か訳ありの女の子と出会って、守ってやりたいんだよー」
「……お前の頭の中、楽しいな」
言いながら、悠人は突然部屋に現れる系の女の子について考えていた。
エルネスタは、翔太の部屋に現れたらちょうどよかったのかもしれない。エルネスタはお金持ちなイケメンの殿方と出会いたいだなんて言っていたし、翔太は非日常な出会いを求めている。
こんなに近くでマッチングしそうな男女がいるのに、“運命”ってものはなかなか難しいものらしい。
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