春の風物詩

春の風物詩 -1-

 春だなぁ、と酒焼けした声と煙草の煙が宙に放たれた。結城智弘ユウキトモヒロはその声の先を追って視線を下げる。

 繁華街から外れた、お世辞にも綺麗とは言えない雑居ビルにも春は訪れる。非常階段の踊り場に置かれた灰皿は年中同じ装いだが、そのすぐ横に座り込んでいる同僚の髪の色はピンク色に染まっていた。


「何か言った?」

「春だな、って言ったんだよ」


 二日前には「桜色にしてみた。すごくない?」と意味不明なことを言っていたが、綺麗な色を保っていたのは僅か一日のことだった。脱色と染色を何度も繰り返している髪は、キューティクルのキの字もない。

 薄汚いピンク色の髪を持て余すかのように、麻木真アサギ マコトは首を前から後ろに大きく回す。


「こういう時に昼寝すると、めっちゃ気分よく寝れるん」

「だろうね」


 気温は二十度。風はなく日差しが穏やかなために、動くと少々汗ばむほどである。四月に入ったばかりで、そろそろ東京の桜も咲くと今朝のニュースで言っていた。


「結城、今日何時まで?」

「六時」

「ほーん」


 聞いたくせに興味もなさそうに真は返事をした。それが癪に障った智弘は、ピンク色の中心を平手で叩く。年齢は相手の方が上だが、そんなことは関係がない。

 真にしても見た目はとにかく気性は優しいので、智弘はこの男が怒ったところを見たことがなかった。


「そっちは」

「俺は十二時で、スギノンと交代」

「店長は?」

「今日は来ないって」

「へー」


 この店のシフトはかなり変則的である。しかも労働基準法なんて知りませんとばかりに十三時間勤務を二連続なんてことも珍しくない。アルバイトの労基などあって無いようなものであるし、稼ぎたい人間にとってはありがたいことかもしれないが、それでも愚痴っぽくなるのは人間の性である。


「まぁ今日はあまり客も来なそうだし、廊下の掃除でもするかー」


 真はそう言いながら立ち上がって、煙草の火を灰皿で揉み消した。智弘はそれに同意しながら、しかしすぐに仕事に取り掛かるのが面倒で二本目に火をつけた。

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