第67話 患者もいろいろ-治して悪かった?!

 大学病院から、70代の胃癌の患者さんが紹介されてきました。肝転移もあり、食事が全然とれなくなったといいます。大学の外来通院で点滴するのは大変なので、近所の病院でやってもらうようにいわれて来たのです。


 付き添って来た娘さんは、


「大学に捨てられた……」


 落胆の表情を浮かべていました。


 患者さんは、まさにヒポクラテス顔貌(⇒豆知識①)という、やせ細った末期の顔付きをしていました。


「入院して点滴しましょう」


 ホスピス経験のある私は、末期患者さんでも一時的には元気にしてあげる自信がありました。(⇒豆知識②)


 腕から点滴を始めると、


「大学では高カロリー輸液をやってくれたのですが、ここではできないのですか」(⇒豆知識③)


 不満げな顔をして娘さんはいって来ました。もっと栄養をつけて元気にしてほしいというのです。


「高カロリー輸液イコール、体にいいわけではありません。特に、末期の患者さんには、注意しないと癌の方が元気になってしまいます」


 私は長期戦になると最初から分かっている場合ならともかく、すぐ食べられるようになると思われる患者には、高カロリー輸液はしない主義です。


 そう説明すると、末梢からの点滴を続けました。


「予後はあと1カ月くらいです」


 その時私は、はっきりそう告げたのです。


 娘さんは初めて聞いたかのように驚き、泣きだしました。肝臓の半分が癌で侵されているのに、大学では予後の事を説明していなかったのかと、逆に私は驚いたのです。


 患者さんにステロイドという特効薬(リンデロン2mg)を加えた点滴をスタートしました。


 数日すると、食欲が出てきました。そして一週間後には、病院の食事をほとんど全量食べられるようになって、廊下も歩けるようになったのです。


 ステロイドが劇的に効いたのです。


 私は、今こそ家に帰すチャンス、これを逃してなるものかと、勇んで娘さんに退院を告げました。


 娘さんの喜ぶ顔が見られるかと思いきや、


「ええ!もう退院ですか~」


 うかない表情です。


 話をよく聞いてみると、彼女は患者さんの在宅介護に疲れきってしまっていたのです。


 やっと介護から解放されたと思ったら、すぐに退院ときたものですから、彼女はガックリとしてしまったのです。


 初対面のとき、すぐにでも家に連れて帰りたいというので、私としては急いで良くしたつもりでした。


「早く良くして悪かったかなあ?!」


 元気にしたのに、悪いことをしたような妙な気持ちです。


 ひとまず娘さんの家に、試験外泊してみることにしました。


 残念ながらそれはうまくいかず、結局、患者さんは退院することなく、ホスピス病棟に移り、2カ月後に亡くなったのでした。


 この患者さんのように、いったん病院に入院すると、家に帰れなくなることはよくあることです。


 特に高齢患者さんの場合、入院すると、昼夜逆転や認知障害がでてきてしまい、病気はたいしたこともないのに、帰れなくなってしまうことがあるのです。


 さらに、介護から解放された生活をいったん味わうと、家族は再び患者を家に連れて帰ろうとしなくなることが往々にしてあります。


 病院がいわば「うば捨て山」のようになってしまうことも、時にはあるのです。


 私は、そういう高齢患者が入院した場合は、なるべく早く食べられるようにして、家に帰すようにしています。


 ところがこの例のように、時には、早く良くしてしまったために家族に恨まれることもあるのです。


 こんな場合、治した方がいいのか、治さない方がいいのか、悩むところです。まさか、家族に、


「どちらにしますか?」


と尋ねるわけにもいきませんしね。


〈つづく〉


*豆知識)


①ヒポクラテス顔貌


 ヒポクラテス(英語: Hippocrates)は、紀元前460年~紀元前370年ごろに活躍した古代ギリシアの医師の名前です。


 ヒポクラテス顔貌とは、鼻はとがり、眼やこめかみはくぼみ、耳は冷たく、収縮し、耳たぶは突き出ている。額の皮膚は硬くてつやがなく、顔色は黄色か黒ずんでいるか、あるいは青白いかないしは鉛色になっている顔貌をいいます。


 ヒポクラテスがその症状を最初に記したことからそう呼ばれています。


参照:meddic.jp


②ターミナルケアの治療手技


 ターミナルケアの治療目標は、症状コントロールにあります。具体的な手技には、栄養補給、薬や酸素の投与、胸腹水の排液、喀痰吸引などがあります。


 全く経口摂取が出来なくなった時、一日500mlの補液が、浮腫を生じることなく倦怠感を軽減するといわれています。


 苦痛や倦怠感には、モルヒネなどの鎮痛剤とステロイド剤をじょうずに使うことが大切です。


 モルヒネの三大副作用は、眠気、吐き気、便秘です。モルヒネ投与の際は、同時にこの副作用を軽減する薬を投与します。(眠気にはリタリン、吐き気にはノバミン、便秘にはプルゼニドなど)


参照:みんなのホスピス http://www.asahi-net.or.jp/~hs9m-tkn/index.htm


③高カロリー輸液


 高カロリー輸液(Total Parenteral Nutrition、TPN)は輸液方法の一種です。(IVHと呼ぶこともあります)


 通常の末梢血管への輸液では、高濃度ブドウ糖の使用によって血管炎を引き起こすリスクがあるため、生命維持に必要なだけのエネルギーを供給することが困難でした。


 そこで、太い静脈(鎖骨下静脈、内頸静脈、大腿静脈など)を輸液経路として使用することで、血液による希釈が起き、血管炎を起こさずに高濃度のブドウ糖を患者へ投与することが可能になったのです。


 この新技術により、時には1年以上にもわたり、患者を経口の栄養摂取なしで生存させることができるようになりました。


 輸液の内容は、栄養の3大要素である糖質・アミノ酸をバランス良く含み、ビタミンや微量元素を加えた物です。さらに脂質を配合した製剤も出ています。


参照:Wikipedia

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