第64話 患者もいろいろ-虫垂炎じゃない

 医者の常識は、一般常識とは大違い。


 その代表格が、「疑わしきは罰せよ」。最悪のシナリオを考えて診療せよということです。


 もう1つは、「他人を信じるな」というものです。


 他人とはもちろん、他の医師をいっています。


 自分の目で確かめるまでは、他の医師の診断をうのみにするな、という意味なのです。


 うのみにして失敗した例を紹介します。(←(^ω^)この人、失敗多くない?)


 夜中に、当直外科医から電話がありました。


「虫垂炎の手術をしたいので応援ください」


「じゃあ準備しておいてください」


 病院に着くと、すでに手術の準備がしてありました。


 腰椎麻酔を受けた患者は、手術用の滅菌シ-ツでおおわれていたのです。


「よろしくお願いします」


 外科医は、右ソケイ部の皮膚にメスを入れました。


 筋膜を開いて腹膜に達すると、それを切開しました。すると、赤黒い血が吹き出して来たのです。


「この血はなんだ!」


 予期しないことが起きて、二人は声を上げました。


 血液が噴出することは、虫垂炎ではありえません。


 虫垂が破れて腹膜炎を起こすと、混濁した腹水が溢れ出ることはよくあることですが、血液が出ることはないのです。


「交代しようか」


「お願いします」


 執刀医を交代しました。


 筋鉤(⇒豆知識)で切開創を広げて虫垂を診ましたが、特に異常はないのです。虫垂炎ではありません。


 子宮や卵巣も診ましたが、そこにも異常はないのです。


「おかしいなあ。出血はどこからだ!」


 出血があって腹腔内に異常が無い、ということはありえませんから、上腹部を診る必要があります。


 虫垂炎の場合、手術創は大きくて10cmです。この小さな創から腹腔全体を診ることは不可能で、上腹部を切開する必要があります。


 それは腰椎麻酔では無理なのです。


「もう1人、応援頼んで!」


 もう1人の医者に麻酔を担当してもらい、全身麻酔に切り変えました。


 上腹部切開を加えて、上腹部を中心に出血源を探ります。


 肝臓、胆嚢に異常はありません。さらに胃を調ベます。異常ありません。


 胃を頭側に少しずらすと、大網(⇒豆知識)が赤味をおびています。その後ろにある膵臓あたりに、凝血が付着しているのです。


「なんで、膵臓に血が付いてるんだ!?患者は何かいってなかった?」


「......」


 外科医は、はてと首をかしげます。


「こんなこと普通は無いけどなあ」


 そういいながら、胃腸の穿孔(せんこう:穴が空くこと)がないか、順に胃腸をたぐって調べます。


「穿孔なし。アクティブな出血は無いのでオペ(手術)は終了しよう」


 腹腔全体と膵臓周囲に活動性の出血はないので、膵臓周囲にドレーン(⇒豆知識)を挿入して緊急手術を終えたのです。


 何事も無く夜が明けました。


 患者は麻酔から醒め、意識はしっかりしています。全身状態も安定し、ドレーンからはきれいな漿液性の腹水が、わずかに見られる程度です。


 記憶もはっきりしていましたから、入院前のことを本人に聞いてみました。


「入院する前に、何か変わったことなかった?」


「自転車で転んでお腹を打ったの......」


 自転車に乗っていて転倒し、ハンドルでお腹を打ったというのです。


(ええっ! これ、腹部外傷じゃないか!)


「それ、外来でいわなかったの?」


「聞かれなかったので......」


 当直外科医は、病歴をくわしく聞かなかったのです。


 いわなかった患者も患者なら、聞かなかった医者も医者ですね。


 外科医のいうことをうのみにして手術に入ってしまった私が、一番罪深いのです。(←(^ω^)そうだ、そうだ)


「他の医師の診断をうのみにせず、自分の目で確かめよ」


 昔からいわれていた格言を忘れたのです。


 ちなみに、2週間ほどして腹部CTを撮ると、膵臓に直径約6センチの嚢胞(外傷性膵仮性嚢胞)ができていました。(⇒豆知識)


 エコー下に穿刺排液して1週間様子を見ましたが、再発しました。自然消退は難しいと判断して、胃と膵嚢胞を吻合する手術をしたのです。


 手術はうまくいって、1カ月後患者は退院しました。


 命を助けたといっても、若い娘さんのお腹に2条の大きな傷を作ってしまい、いまいち達成感はありませんでした。


 病歴をしっかり取っていれば、事前におおよその診断がついたのですが、それを怠ったためにこんな目にあわせてしまったのです。


「自分の目で見て自分の手で触って確認せよ」


 この格言の大切さを、再認識させられた1例でした。


*豆知識


①鉤(こう):先がカギ状に曲がっている器具。組織を引っかけて牽引するのに用いられます。筋鉤、神経鉤、腹壁鉤などがあります。


②大網(だいもう):胃の下側(大弯)から下方へエプロンのように腸の前に垂れ下がった腹膜を大網といいます。大網は移動性が豊かであるので、炎症の原因となる個所を包んで腹腔内全体への波及を防いでいます。大網は脂肪の貯蔵にも関係しています。


③膵嚢胞(すいのうほう):膵臓に液体がたまった袋ができたもので、 内腔が上皮細胞で覆われているものを真性嚢胞といい、覆われていないものを仮性嚢胞といいます。仮性嚢胞は、膵嚢胞全体の80~90%を占めています。


 仮性嚢胞は膵炎や外傷性膵管損傷でできることが多いといわれています。


 保存的療法で良くならない時は、手術を行います。


④ドレーン:体内に溜まった体液などの排出に使用する管。


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