第26話 医療訴訟 その2

【事例その1】


 訴訟とまではいかないまでも、文句を言うのが趣味のような人もいます。


 中年の男性が糖尿病で入院しました。インシュリンの注射で治療し、3週間ほどで血糖のコントロールはうまくついて、退院の運びとなりました。


 この人はクレーマー(常習的苦情屋)歴があるので、私どもも細心の注意を払っていたはずですが、思わぬところに落とし穴がありました。


 退院後、患者から電話がありました。退院の時もらったインシュリンの使用期限が切れているというのです。インシュリンの注射ボトルは、打つ量にもよりますが、だいたい長期間の使用になります。例えば、300単位入っているボトルであれば、1日10単位ずつ打って、1カ月間もちます。


 ボトルの封を切ったときは使用期限は大丈夫だったのですが、退院時に、その使用中ボトルを新品のものといっしょに手渡した時には、期限が切れてしまっていたのです。それを患者から追及されたのです。


 インシュリンの製造会社に問い合わせたところ、その程度なら有効性には全く支障はないので心配いりませんという返事でした。


 それをいくら患者に説明しても、納得いかないと訴訟も辞さない口ぶりでした。使用期限が切れているものを渡したこと自体は問題ですが、こういう手違いは時には起こることです。医療ミスとまではいえません。


 製薬会社の見解を交えていくら説明しても、電話でしつこく責め立てるので、どうすべきか悩み、知り合いの弁護士に相談しました。


「そういう内容なら毅然とした態度で対応してください。もしそれでもらちが明かないようなら、私から言いましょう」


というアドバイスをもらいました。


 弁護士のその言葉を患者に告げましたら、「弁護士」という肩書きがモノをいったようで、患者のクレームはいっさい無くなりました。


 クレーマーのような人は、弁護士とか警察とかいう権威には弱いようです。


【事例その2】


 ある夜中に病院の当直医から電話がありました。時間外に来た患者が、外来で待たせ過ぎだと文句を言って騒いでいるというのです。30分ほど待たせたようです。


 夜のことですから、外来専門のスタッフがいるわけではないので、病棟が忙しい時はそれぐらいは仕方のないことです。しかしそれをしつこく追及して、


「自分は厚労省の人間だ。お前の医籍番号は何番だ。免許を取り消してやる」


と息巻いて脅してきたというのです。


 いくらおわびしても取り合ってくれないので、当直医から私の自宅に相談の電話が来たのです。


「酔っぱらいではないですが、どうも変な人なので警察に連絡しようと思いますがいいでしょうか」


「どうぞ。何かあったらまた電話をください」


 私はそう答えました。


 その後1時間ほどしてまた電話がありました。


「警察に来てもらいます」


とひとことその男性に言ったとたん、男性は顔色を変えて、


「それはまずい、待ってくれ」


と言うが早いか、診察も受けずにあわてて出て行ってしまったそうです。


 おそらく、警察に来られては困るような人だったに違いありません。


【事例その3】


 やくざとまではいかないまでも、それに似たり寄ったりの人もいます。


 子供を連れたおじさんが夜間に来院しました。子供が転んで腕を強打したというのです。


 夜間ですから専門的な検査はできず、私がレントゲン機械の電源を入れて透視下で骨を見ましたが、はっきりした骨折はありません。透視だけでは画像が不鮮明なため、骨折線が見えないこともあります。


 痛みの訴えからして骨折も否定出来ないので、シーネ固定をしてまた翌朝来院するように告げました。翌日レントゲン写真を撮ったところ、骨折が見つかり、整形の専門病院に紹介したのです。


 それから半年ほど経って、突然、そのおじさんから長々とした手紙が来ました。手紙は留置場から出されたものです。


「お前が夜中に骨折を見逃したのが原因で、息子の腕がおかしいんだ」


と文句が書きつらねてありました。


 留置場にいるのは、彼が刃物を持って、息子を治療した整形専門病院の医者を恐喝し、警察に捕まったからだというのです。「慰謝料を払わないとお前も危ないぞ」という脅迫状だったのです。


 事務長と相談し様子を見ていましたが、何事もありませんでした。やれやれです。


【事例その4】


 私ども医療者には、「女性を見たら妊娠と思え」という格言があります。それは、妊娠している女性に対して下手に医療行為を行えば、胎児に影響してしまうからです。医療行為を行う前に、妊娠の有無について必ず確認しておくのが鉄則です。


 私は、妊娠した女性にレントゲンをかけたためにトラブった例を、2例経験しています。


 その苦い経験がありますから、今ではどんな年配の女性でも、最初に必ず妊娠について聞いておきます。50歳を越えた女性たちは、


「や~だ先生、そんな歳じゃありませんわ。ホホホホ」


 いつも照れ笑いしながら答えます。


 70歳ぐらいのおばあさんにもそれを聞くので、看護師さんが「先生、やめてよ~」と恥ずかしがっています。しかし、よほどのことがない限り、必ず尋ねることにしています。年齢に応じていると、忙しい時などは、ついつい聞きそびれてしまうことがあるからです。


 そのトラブった1例は、私が主治医ではなかったのですが、吐き気をもよおして外来に来た20代の女性です。すぐ胃透視をしましたが、胃は何ともありませんでした。その後に妊娠していることが分かったのですが、主治医は妊娠について聞くことを忘れたのです。


 旦那さんが文句を言いに来ました。主治医とともに話を聞きましたが、その旦那さんは威勢をつけるために大酒をくらって、真っ赤な顔をして息巻いています。


「レントゲンの胎児への影響は、胃透視の場合はほとんどありません」


と、レントゲン技師といっしょにいくら説明してもらちがあきません。


 挙げ句の果てには、


「もし奇形の子供が生まれたら、お前らを刺して俺も死ぬ」


と言って脅迫してきました。


「その時はその時でまた考えましょう」


ということで、その場は終えました。


 それから10カ月ほどして、幸いにも生まれた子供は正常な子でした。


「ああ良かった。刺されずにすんだ」


 2人で胸を撫で下ろしたのでした。


 とにもかくにも、病院はいろんな人が、いろんな病気や事情を抱えてやって来る場所なのです。

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