第3話

 水路の中は、暗かった。

 速く着実な水流は、その先に待つ海に向かって、一気に流れ込んでいた。

 離宮は岬に建っている。水路はわずかに傾斜していた。勢いづく流れは、泳ぐヘンリックの体を、思うより速く運んでいた。

 戻れんのかなと、ヘンリックは泳ぎながら、漠然と考えた。

 目を開いていても、視界は暗く、石壁がかすかに見える程度だった。

 思い切って、目を閉じ、耳を澄ますと、石壁を打って囂々と流れる水の気配と、その先に続く水路の形が、ばくぜんと感じ取れた。

 海エルフの血筋に備わった、水中で動くための力だ。平素はまったく感じないその血の利点を、ヘンリックは感じ取った。

 どこかから、自分を呼ぶような気配がしたからだ。それは声ではなく、気配としか言いようのないものだった。

 イルスに違いないと、ヘンリックは思った。か細いような震える気配が、流れる水の先から、ヘンリックを呼び寄せていた。まるで海の底にいる魔物のように。

 なあんだ死んでなかったのかと、ヘンリックは思った。

 水を掻いて進む脳裏に、ふと産屋のことが思い出されてくる。

 イルスは難産でヘレンを苦しめた。臍の緒がひっかかっているとかで、なかなか生まれてこなかった。

 場合によっては、赤子が母親までも殺すかもしれないので、その場合はヘレンを救うために、赤子をばらして取り出すと、産婆が許可を求めてきた。ヘンリックは迷わず許した。

 そのときは、子供を殺していい。もしも迷って、手遅れになったら、その時はお前の命もないと思え。

 そう言い渡されて、戻っていく産婆の弟子は、咎める目をしていた。女だったからだろう。

 それから何時間か、果てしなく思える時が流れ、産声が聞こえた。

 ほっとしたのも束の間、お次の難題は竜の涙だ。ヘレンは出産の苦痛のあとで、血を失って蒼白な顔をしていた。疲れて生まれた赤ん坊は、どこか弱々しい産声を聞かせ、ヘンリックのアルマを終息させた。

 この息子は始末しなければならない。族長である自分に、こんな呪われた子がいてはまずいから。難産だったので、死んで生まれたと言えば、誰もお前の恥とは見なさないだろう。

 ヘレンにそう話すと、女(ウエラ)は烈火のごとく怒り、まだ名前のなかった赤ん坊を抱いて泣き崩れた。そして叫んだ。この子の名前はイルスにするわ、強い子に育つように、と。

 名前をつけたのは、まずいなあと、産屋に来ていたリューズが言った。ヘンリックは、その時を狙い澄まして海辺に現れた同盟者の顔を、暗い水の中に思い返した。

 あいつはジンが生まれるときにも、死体を狙う禿鷹のように、サウザスに現れた。

 ヘレンが竜の涙だと知っていたので、その子にも、石の呪いがかかっているものと、あいつは期待していたのだろう。一度目は不発だったその期待が、二度目には無事に果たされて、リューズはどこか満足げだった。

 彼の治める宮廷には、竜の涙を持ったものを集めて、魔法戦士として育てる習わしがあるとのことで、なんなら、預かってやってもよいがと、恩着せがましくリューズは言った。殺すのが惜しければ、俺がこっそり育ててやってもいいが。

 餓鬼の遣いのように、リューズが言ったその話を産屋に持ってきたヘンリックを、ヘレンはただ一喝した。あんたがイルスを捨てたら、あたしはあんたを捨てるから。

 それを言われたら、考えるまでもなく、もう破談だった。

 あとから冷静に考えてみれば、自分の血筋を与えた息子をリューズにくれてやるなど、狂喜の沙汰だった。あとからどんな用途に使われるか、わかったものじゃない。あいつは小綺麗な友達面で現れるが、その化けの皮を一枚剥げば、計算ずくの砂漠の蛇だった。いつもなら引っかからない俺が、産屋で弱ったところなら、罠にかかるのではないかと、狙ってやってきただけだ。

 子煩悩なあいつは、俺が子殺しにびびると思っていたのだろう。

 そんなわけはない。

 ヤワなあいつと違って、俺には赤ん坊のひとりくらい、始末するのは簡単なことだった。

 問題はヘレンが泣くのに耐えられないことのほうだ。

 イルスが死んだら、ヘレンは泣くだろう。あのときも、今も、それは何ら変わらないだろう。

 ヘンリックは暗い水の奥から自分を呼ぶ気配を、いつしか必死に辿っている自分を感じた。待っていろ、今行くからと呼びかけるように探すと、それは答えた。もう、間近だった。

 水路は重々しい鉄の格子で果てていた。それに取り付き、押し流されてくる水圧に耐えながら、ヘンリックは自分を呼ぶものがいるほうを手探りした。

 指がなにか、やわらかいものに触れた。

 絹の肌着を着た、まだ小さな子供の体だった。その首根っこらしいところを、ヘンリックは掴んだ。

 イルスと呼びかけ、顔を見ようと引き寄せたが、暗くてなにも見えはしなかった。

 しかし子供は確かに生きている腕で、がっちりとこちらの腕に抱きついてきた。

 もはや梃子でも動きもしない、ちっぽけな体を抱え、ヘンリックは戻ることにした。

 それには思った以上の力が必要だった。水は自分たちを押し流そうとしていた。

 自分ひとりが泳いで戻るのであれば、らくらくとは言えないまでも、何とかなったことだろう。しかし子供ひとりを抱えて泳ぐのは、想像もしなかった難題だった。

 息が続くかと、気ばかり焦って、自分がうまく泳いでいないような怖れを、ヘンリックは感じた。

 イルスはなにを考えているのか、微動だにしなかった。しがみつけるのだから、生きているのだろうが、じっと抱きつき、おとなしくしていた。

 そのほうがいい、まだしも泳ぎやすいから。しかしこいつは、こんな子だったか。陸(おか)ではぴいぴい泣いてばかりで、根性無しだと思っていたが、こんな目にあって、恐慌もせず、ただじっと水圧に耐えている。

 案外、強いやつなのか。こいつもヘレンの子だからな。

 自分よりも、彼女に似た顔をして生まれた息子を、ヘンリックは抱きしめた。今さらまた流されたら、拾いに戻る気になれそうにない。とにかくしっかり抱いて、連れて戻らなければ。

 ほの明るくなってきた水の色に、ヘンリックは安堵した。あと僅かの距離を、生き延びさせればいいだけだった。

 そう思った矢先、薄明かりに見えたイルスの顔が、がぼっと泡を吐いたので、ヘンリックは驚いて、自分も息を吐きそうになった。

 とにかく口を覆って、ヘンリックはイルスを水面に押し上げた。

 突然戻ってきた父親と弟に、泉のほとりで待っていたジンが腰を抜かしたようだった。

 座り込んでいる息子に、ヘンリックはイルスを押しつけた。

 猛烈に疲れ、這い上がる気もしなかった。

「息してない、ヘンリック、イルスが息をしてない」

 水に落ちたほうより、よっぽど恐慌した声で、ジンが喚いた。

 驚いて、びしょぬれでぐったりとしているイルスの顎を掴むと、確かに堅く口を閉ざして縮こまっていた。

 ヘンリックはイルスの頬を叩いた。

「息をしろ、もう水から出た」

 何度かそう、叫ぶように呼びかけると、幼い息子は、突然ふはあと息をした。

 そのまま、ぜえぜえと荒く息をつく子供の横で、ヘンリックはくたびれて脱力し、泉の岸に引っかかっていた。

 よかったな、よかったなと、ジンが何度も弟に話しかけている。

 その声は、深い安堵感とともに、ヘンリックの腹によく響いてきた。

 何が良かったなだと、ヘンリックは悪態をついた。お前らなんで水に入ったんだ。馬鹿野郎。

 するとイルスが、小さな手で、こちらに何かを差しだしてきた。

 貝だった。二枚貝の片割れ。

 それはつややかな白いエナメルで塗られ、真珠で飾られていた。

 いつもヘレンの枕元にあったものだ。

「落としたから」

 まだ掠れている声で、イルスがそう説明した。ヘレンとそっくりな青い目で、イルスはこちらを真顔で見つめていた。怒られるんではないかという、どこか怯えた顔だった。

 その一言を聞いたジンが、気まずいというふうに顔をしかめた。

「ジン。お前、知ってたな。俺に言い訳をしろ」

 叱りつけるように命じると、ジンはイルスを膝に抱いたまま、がっくりと項垂れた。

「イルスが……母上が可哀想だというから」

「可哀想だと? ヘレンのどこが可哀想だっていうんだ」

 腹立ちを隠さず、ヘンリックはジンを急かした。

 ヘレンにどんな、可哀想なところがあるというのか。今や族長の女(ウエラ)で、どんな望みも思いのままのはずだ。欲しがっていた子供も二人も与えたし、平民の女のように、水仕事や育児で手を荒らしたいというから、それだって自由にさせてきた。

 何が不満だ。正妃じゃないということか。王宮でなく、この離宮に住ませているからか。俺が一時来るだけで、ここで眠らず、飯を食ったら帰ることがか。

 情けなくなって、ヘンリックは顔を流れる水を拭った。

「赤ん坊かできてから、母上はずっと具合が悪いだろ。だからイルスが心配して、母上は病気なのかって、毎日何回も俺に聞くんだ」

 自分も弱っているのだという口調で、ジンは早口に説明してきた。

「違うって、母上は孕んでるだけだって、教えてやったら、どうしてそんなことになったのかって」

 泣きそうなように言うジンの顔を、ヘンリックはぎょっとして見上げた。息子は、たぶん自分以上に、今、ほとほと情けないという顔をしていた。

「だから俺、貝があるせいだって、言ったんだ、こいつに」

 じっと兄の話を聞いているイルスの手には、装飾を施した貝殻が、まだしっかりと握られていた。

 それは部族の男が自分の女(ウエラ)に贈る伝統的な品で、もとはちゃんと合わさった二枚貝の形をしている。それを二人で断ち割って、片方ずつ持ち、このアルマが去って次の潮がやってきたとき、再びお互いを選ぶという約束のために、取り交わすものだった。

 ジンを生んだあと、ヘレンがどこか不安げにしていたので、気の利いた贈り物のつもりで、買い与えた。

 受け取ったヘレンは、強面(こわもて)のあの性格に似合わず、なぜかめそめそ泣いた。ヘンリックには、政略のために娶った大貴族の女が正妃としていて、あちらにも一人目の息子が、ほぼ時期を同じくして生まれていたからだ。

 ヘレンは最初からそれを知っていたが、どうして今さら泣くのか、ヘンリックには良く分からなかった。

 あの女は役に立つから抱いただけで、愛しているのはお前だけだからと、彼女に正直に話した。でもそれも、女の耳には言い訳めいて聞こえるらしかった。

 それとも、本当に、ずるい男の言い訳なのか。

 ヘレンは、不安だったのだ。夜離(が)れが。俺がやってこなくなることが。

 以来、その貝はヘレンの枕元にあり、その事実はいつもヘンリックの心を満たした。この女は俺を必要としている。俺が来るのを、待っている。どんな憎まれ口をきいても。俺を愛している。

「母上は、大丈夫かな、ヘンリック。赤ん坊が、母上を、死なせたりしないかな。イルスはそれが心配なんだ」

 そう話すジンの顔は、まだ男の面構えとは言えなかった。不安げで、いまにも泣きそうな気弱なチビだった。

「心配なのは、お前なんだろ。俺のせいで、ヘレンが死ぬんじゃねえかって、腹の底で恨んでんだろ」

「だってそうだろ、ヘンリック。イルスが要らねえなら、なんで母上のところに来たんだよ。新しい赤ん坊だってそうだろ。俺はもう兄弟なんかいらねえよ、イルスがいるもん。いやなら来なきゃいいじゃねえかよ!」

 噛みつくように吠えて、ジンは守るようにイルスを抱いていた。イルスは大人しく兄貴の膝に座っている。しかし貝を握ってじっとこちらを見つめる目は、兄のそれより、しっかりとしていた。訳が分かっていないせいか、兄貴の怒鳴る話の意味が、まったく分からないからか。

「族長なんか、やめてよ。俺はべつに、額冠(ティアラ)なんかいらねえし。みんなで、どっか遠くにいって、暮らそうよ、ヘンリック。そしたら夜も、王宮に帰んなくて、いいだろ」

 預けた族長冠を、排水溝に投げ込む素振りをするジンを、ヘンリックはただ横目に眺めた。

 こいつはほんとに、駆け引きを知っているやつだ。勘が良くて、心弱くて、ずるい。紛れもなく、俺の子だ。

「てめえは誰のおかげで飯を食ってるつもりだ。何の取り柄もねえくせに、ここを出て、どうやって食っていく気だ」

 半ば本気で怒って、ヘンリックはジンに問いかけた。

 俺とそっくりなツラで、何の苦労も知らずに育っているこいつが、俺は時々猛烈に憎い。

「なんとかなるって、母上が言ってた。家族がいれば、なんとかなるって。……だから、そうしようよ」

 消え入るような小声で、ジンがかき口説いてきた。本気なのだなと思って、ヘンリックは答える言葉もなかった。

 なんとかなると、そんなことを、十にもならない餓鬼が、思いつくはずがない。この離宮の外にも世界があるとは、思いつきもしないような、まだほんの小さな息子たちなのだ。だから、その話をこいつにしたのは、ヘレンなのだと、考えなくても分かる。

 腕を伸ばして、ヘンリックが族長冠を掴むと、ジンはびくりと体を震わせた。

 一瞬、息子が抵抗して暴れるのではないかと、ヘンリックは思った。しかしジンは、ほんのわずか、引き留める力をかけただけで、おとなしくそれを返した。

「どうして、だめなの」

 訊ねてくる息子の声は微かだった。

「ジン、お前も男なら、覚悟を決めろ。お前もその輪っかを被せられたからには、この道から逸れたら、負けなんだ。死ぬ以外の方法で、ここから逃げられやしねえんだよ」

「どうして。何でそんなことになったんだよ。俺は別に、こんなのいらねえのに」

 何がそこまでうとましいのか、ジンは自分の額冠(ティアラ)を外して、こちらに突きつけてきた。それは自分がジンに与えた血筋の証であり、何よりの恵まれた境遇のはずだった。

「がたがた言うな。しょうがねえだろ、お前は俺の息子なんだから」

 諦めて教えると、ジンはきゅうに、怒ったのか、泣きたいのか、よくわからない顔をした。

「だったらさ、ヘンリック。だったらお前も、親父らしいことをしろよ」

 そう言うジンと、ヘンリックはしばし、ただ黙って見つめ合った。

 ジンは泣きそうな顔をしていたが、すでにもう、ぴいぴい泣きわめくような、小さい餓鬼ではなかった。ただじっと、額冠(ティアラ)を握って、何かを堪えている息子を、ヘンリックは見つめた。

 ジンがなにをしろと言っているのか、実のところ、ヘンリックはまったく思いつかなかった。たぶん何かを要求されているのだろうが、それが何か、見当もつかない。

 もしここに、ヘレンがいれば、自分がいま何をすればいいか、教えてくれたかもしれなかった。しかし彼女は寝室で悪阻(つわり)にふせっていて、自分が孕ませた新しい赤ん坊に、うんうん唸らされている。

 どうしてほしいか、言わなきゃわからねえよ。そういう目でヘンリックはジンを見たが、向こうは頑固に押し黙っていた。察しをつけないのなら、絶対に許さないという顔で。

「これ」

 唐突にイルスが喋ったので、ヘンリックはぎょっとした。そういえば、こいつもいたんだった。

 白く塗られた貝のお守りを差しだして、イルスは鼻をすすった。そういえばこいつは冷たい水にずぶ濡れで、寒いのではないかと、ヘンリックはやっと気付いた。自分も寒かったからだった。

「これ、かえす。やっぱり」

 そう断言するイルスを、ヘンリックは見た。やはり寒いのか、イルスは小さくなっていたが、その顔はいかにも平気そうだった。

「いいのかよ。貝があったら、お前の母上はこの先もずっと、孕んでげえげえ吐くんだぞ」

 年の割に言葉数の少ない息子に、ヘンリックはあえて早口に話しかけた。得たいの知れないイルスが、ヘンリックにはうとましかった。竜の涙を持っていると、性格や能力の点で、どこか常人より劣ることもあると、リューズは警告していった。こいつの口が重いのも、そのせいじゃないのか。

 イルスはヘンリックが貝を受け取らないので、困ったらしかった。

 しばらくそれを持てあましていたが、兄に渡そうとしても、受け取ってもらえず、イルスは弱ったふうに立ち上がった。

 そしておもむろに、幼い手で、まだ泉のふちに捕まったままでいたヘンリックの腕を掴み、引っ張り上げようとした。もちろんそんなものは、何の足しにもならず、ヘンリックは自分を助けようとしているらしいイルスを、あっけにとられて眺めた。

「父上」

 あんまり熱心に引っ張られるので、ヘンリックはやむをえず自力で泉からあがった。濡れそぼった肌着から、水が滴り落ち、ただでさえ濡れ鼠のイルスに、激しく降りかかった。

 よけろよと思いながら、まとわりつこうとするイルスを振り払ったが、意外なしつこさで、イルスは脚にとりついてきた。日頃は自分を遠巻きにしているイルスが、こうまで食らいついてくるのは、異様に思え、ヘンリックは意地になって、小さな手から逃れようとした。

 しかしイルスは諦めなかった。ねばり強く争って、とうとう根負けしたヘンリックの足に、がっちりと抱きつき、そして言った。

「ごめんなさい」

 イルスがなんのことを詫びているのか、ヘンリックには一瞬分からなかった。

 脳裏になぜか、産屋でヘレンに抱かれていた赤ん坊のころのイルスのことがよぎった。

 あの時、呪われて生まれてきたこの息子が、許せない気がして、このやろうと内心思った。お前のせいで、なにもかも滅茶苦茶だ。ヘレンと、ジンと、三人で、そこそこ上手くやっていた。お前が産まれてくるまでは。

 あの時、そういう目で、まだ生まれて何時間もしないイルスを見た。

 なぜか今、息子がそのことを詫びているような錯覚がした。

 しかし、そんなはずはない。たぶん、水に落ちたことを、こいつは言っているのだ。

「もういい」

 くたびれて、ヘンリックは言った。

「兄上と」

 こちらの足を抱いたまま、イルスが顔を見上げてきた。なにを言うのかと、ヘンリックは思った。

「けんかしないで。これ、かえすから」

「なにを言ってるんだよお前は……」

 子供の話す論旨が、ヘンリックには全く理解できなかった。

 しかし、それを聞いていたジンは、低く呻くような短い声をたてた。

 何か知っているらしかった。

 それを隠しておくつもりはないらしく、ジンは暗い声で、弟の話を継いだ。

「俺が捨てたんだ、貝を」

 目を瞬いて、ヘンリックはジンを見た。

「イルスが落としたのを、ほうっておいたんだ。まさか拾いに行くと、思わなかったんだ」

 ジンは、額冠を握りしめたまま、途方に暮れたように座り込んでいた。

「お前なんか、もう来んな。ヘンリック」

 ジンが叫ぶように言うのを聞いて、イルスが驚いたふうにこちらを見上げた。

「うそだから」

 諭すように、イルスは言った。

「うそだから」

 聞こえていないと思ったのか、イルスはもう一度、同じことを言った。

 ヘンリックは、どうにもしかたなく、それに頷いて答えた。

 嘘か。

「嘘じゃねえよ、馬鹿! ヘンリックはなあ、お前がいらねえんだぞ、殺そうとしたんだぞ、それでもいいのかよ」

 ジンが堪えきれないというように、弟に怒鳴った。

 しかしイルスは、それも聞き流し、じっとヘンリックと睨み合っていた。

「うそだから、父上」

 嘘じゃねえよ、馬鹿。その幼い目に、ヘンリックはそう答えようかと思った。

 いつかその話を、イルス本人が知るのではないかと、考えたこともなかった。おそらく、勘も良く、耳ざといジンが、人の口からでも漏れ聞いて、イルスに吹き込んだらしかった。

 何を根拠に、こいつはその兄の話が嘘だと思っているのだろう。実際には、動かしがたい事実なのに。これまでずっと、たぶん自分はこいつを始末する機会を狙ってきた。つい先程も、水の奥でイルスがすでに死んでいる可能性について、ずっと考えていた。

 もしも死体を引き上げて戻ったら、ヘレンは悲しむだろうと思った。しかし、子供ならまた生まれる。こんな厄介な呪われた子ではなく、どこに出しても問題のないようなのが、次には生まれるかもしれない。ジンには何の問題もなかったのだから。

 死ねば忘れるだろう、ヘレンは。こいつがいたことを。自分も、きっと忘れる。

 しかし、見交わしたイルスの目は、一見すれば忘れがたいような青をしていた。ヘレンの目と、同じ色だった。

 その目をたまにはまともに見てみようと思い、ヘンリックはイルスを抱き上げてみた。同じ高さでこちらを睨み、イルスはまた、ぽつりと言った。

「うそだろ」

 イルスは、そうだと言えという口ぶりだった。ヘンリックは黙っていた。嘘をつくのは卑怯に思えたからだ。

「俺、いらないの?」

 顔をしかめて、イルスは訊ねてきた。おそらく、渾身の問いかけなのだろう。幼い言葉にしては。

「いらなかったら助けにいかねえよ。もう水路に入るな」

 その返事は、これといった引っかかりもなく、ヘンリックの口を突いて出た。本気でそんなことを思っているのかと、自分が疑わしく、ヘンリックは己の腹を探ってみたが、そこには嘘の気配はしなかった。

 不思議だと思った。こうして抱きかかえてみると、イルスはなんということもない、ジンと同じような、ただの子供だった。

「嘘だ。嘘つきだ。ヘンリック」

 ねちねちと文句を言うジンのそばに、ヘンリックは歩いていって、裸足の爪先で軽く蹴飛ばしてやった。

「いてえよ!」

 ジンがまだ文句を言っている。

「てめえも嘘をついたんだろ。このやろう」

 イルスを抱きかかえたまま、ヘンリックは厭がるジンをこづき回した。痛がる兄貴の姿が面白いのか、それを見下ろしてイルスがけらけらと笑った。こいつも笑うときは笑うのかと、ヘンリックは感心した。

「なにかもう来んなだ、甘えやがって。俺がお前に会いにきてると思ってんのか、馬鹿」

「やめてよ」

 小突かれる頭をかばって、ジンが泣き言を言った。

「額冠(ティアラ)をしろ。いらねえんなら、そこらの餓鬼にくれてやるから返せ」

「俺のだろ!」

 盗られかけた白銀の輪っかを、ジンは慌てて奪い返し、自分の額に戻した。ヘンリックは薄笑いして、それを見下ろした。

 額冠(ティアラ)をもたもたと直しながら、ジンが抱き上げられているイルスを見上げて、物欲しげな顔をしていた。

 ああ、そうかと、ヘンリックは思い当たった。

 昔、ジンがまだイルスぐらいの年格好だったころ、こいつはよくまとわりついてきて、抱き上げるようにせがんでいた。図体がでかくなったので、面倒になってほうっておいたら、そのうち求めてこなくなったが、中身はひょっとすると、あの時のまんまなのではないか。

 しかし、二人っていうのは、きついなとヘンリックは思った。抱いて抱けなくはないが。骨の折れる話だった。特に海のとば口まで行って、そこへ戻りかけていた息子を返してもらった後では。

 だがもうこの際、一人も二人も同じだ。そう思って、背をかがめ、ヘンリックはジンの腹のあたりを二つ折りにして抱え上げた。

 ジンはそれがよほど予想外だったのか、ぎゃあっという物凄い悲鳴をあげた。

「何するんだよ、おろせ! おろせよ!」

 叫んで暴れるジンを、イルスが面白そうに見下ろし、笑いながら教えてきた。

「うそだから」

 そうなのか。ヘレンと同じ顔が教える話を、ヘンリックは真に受けた。

 イルスを着替えさせなければいけなかったので、ヘレンを起こそうかと、ヘンリックは迷いながら、彼女のいる寝室に向かって歩いた。せっかく寝ているのだし、誰か他のものを呼びつけて子供たちの面倒を見させるほうがいいか。

 しかし、笑っているイルスの額を見ると、その石はまぎれもなく、そこにあった。

 何を言うやら知れない赤の他人に任せるのには、危険すぎる子供だ。せっかく、納得してヘレンの腹から出てきたというのに。

 思えば、あの難産は、生まれるかどうしようかの苦悩のすえ、やっと踏ん切りをつけるまでの、こいつの戦いだったのではないか。あのまま死ぬこともできた。それでも諦めずに、生まれ出てきたのではないのか。

 途中、橋のあたりに落ちていたイルスの額冠(ティアラ)を、ぶら下げていたジンに拾わせ、イルスの額に戻させた。イルスは幼児なりのこだわりがあるのか、兄が無造作にはめたそれを、自分の手で調節したりしていた。

「イルス」

 自分の額を見上げている息子に、ヘンリックは呼びかけた。するとイルスは肩の上から、こちらを見返してきた。

「その輪っかは、いつもつけてろ。お前が、俺の血を引いているという印だから」

「かくすためだよ、父上」

 イルスがけろっとそう言ったので、ヘンリックはその話の出所を察して、抱えたジンの腹を締め上げた。ジンは苦しいらしく、押しひしがれたような呻きをあげた。

「いいや、王族の印だ」

 教えてやると、イルスはふうんと言った。意味がわかっているのかどうか、怪しかった。まだ物心つくかどうかという年頃だから、それも仕方ないのかもしれなかった。ヘンリックは自分の子供時代を思い返してみたが、イルスぐらいの年頃の記憶らしいものは、全く無かった。だからきっと、今話しても、こいつは忘れるだろう。くりかえし言って聞かせないと。ヘレンが教えるように。

「どうしたの、その有様は……」

 寝室を出たところで、ヘレンは華麗な礼服のまま、髪を振り乱し、蒼白の顔で突っ立っていた。たった今、吐いてきたというような顔だった。

「びしょぬれじゃない。何があったの。正直に言いなさい」

 誰にともなく、ヘレンはいきなり説教をする口調だった。黙っておこうかと、ヘンリックは思った。妊娠中の女には刺激の強すぎる話ではないかと。

「イルスが排水溝に吸い込まれたから、ヘンリックが助けにいったんだ」

 そう決めた矢先に、ジンがぺらぺらと話した。それを聞くヘレンの形相が変わった。

 このやろうと思い、ヘンリックはまたジンを締め上げた。息子はひいひい喚いて暴れた。

「イルス」

 腰が抜けそうなのか、ふらふらと近寄ってきて、ヘレンはヘンリックから下の息子を抱き取り、ぎゅっと抱きしめた。イルスは母親が起き出してきたのが嬉しいらしく、大人しくその胸に甘えていた。

 その姿を見て、ジンが微かに呻いた。

 ヘレンはイルスが不憫なのか、どうもジンより甘やかしているらしい。

 ジンはイルスの面倒をよく見る兄貴のようだが、その自分を見捨ててイルスが母親に甘えるのも気にいらなけりゃ、母親が弟のほうを可愛がるのも、むかつくらしかった。悶々とした顔をするジンを見て、ヘンリックは息子のその嫉妬深い姿に苦笑した。

「どうして落ちたの、水路に近寄っちゃだめなのよ、忘れたの?」

 お前はそんな声が出せたのかという甘い声で、ヘレンはイルスに尋ねている。

「これ、落としたから」

 ヘレンに貝殻を見せて、イルスは済まなさそうに答えた。

 それを受け取りながら、ヘレンはやっと、安堵したような息をもらした。

「こんなもの、あんたの命にくらべたら、大事でもなんでもないのよ」

 こんなものかよ。ヘンリックは思わず呻いた。

「どうして、こんなの持っていったの?」

「ジンが、貝のせいで、母上が病気だって。だから捨てるの」

 ヘレンはじろりと、ヘンリックに抱えられているジンを睨め付けた。ついでに自分まで睨まれた気がして、ヘンリックは怯んだ。

「あら、そう。あんたのお兄ちゃんはね、焼き餅焼きなのよ。それにずるいの。誰かに似てね。もう騙されないで。あんたぐらいは、いい子でいてね」

 イルスに頬ずりして、ヘレンはそう言った。イルスはそれに、猫のように甘え、いい子でいると請け合った。

 それを眺め、やっばり殺せばよかったかと、ヘンリックは苦笑した。この分ではこいつに、ヘレンを盗られる。

「ジン」

 いくらか厳しい声で、ヘレンが呼びかけてくると、ジンはじたばたと無様に、ヘンリックの背に隠れようとした。ヘレンが怖いことにかけても、こいつは俺に似たらしいと、ヘンリックは思った。

「赤ちゃんも、あんたの兄弟なのよ。焼き餅焼かないで。あんただって、おんなじように、あたしのお腹にいたんだから。順番でしょ」

「俺の時はらくだったって、母上言ってたじゃん」

 言い訳のように、ジンは答えた。

「そうだったわよ。あんたは悪阻もなくて、産屋でもさらっと済んだわ。だけど生まれた後はあんたが一番大変じゃないの」

 非難される息子がおかしく、ヘンリックは思わず笑った。ジンは悪餓鬼だった。

「弟をけしかけたりして、悪い子ね。反省して」

 怒ったふりをして、ヘレンはジンに言い渡した。しかしヘンリックには、彼女が少しも怒っていないことは、見れば分かった。それが子供には分からないのか、ジンは身をすくめていた。

 苦笑しながら、ヘレンはこちらを見た。ヘレンの青い目と、ヘンリックは見つめ合った。

「ジンを叱ってやって。あたしはイルスを着替えさせるから。それから食事を作るけど……」

 こちらをじっと見つめながら、ヘレンはどことなく不安げな顔をし、それから、それを隠した。

「もう遅いわ。あんたは戻る時間ね」

 自分と向き合って、のんびりと言う女(ウエラ)を、ヘンリックはまだ黙って見つめていた。

 ヘレンはさほど美しい女ではなかった。醜くもなかったが、どうということもない、普通の女だった。これまでヘレンよりも数段にも格段にも美しい女が、自分の周りにいはいたし、現に今、王宮で自分の帰りを待っているはずの、大貴族の箱入り娘だった正妃は、ヘレンよりも美人だった。育ちの良さも、しとやかさも、ヘレンとは比べものにならない、上品な女だ。ヘレンのように、冷たくもない。

 あの女は、俺を愛している。待っている顔を見れば、それは分かる。今宵の夜会の席で、悪阻に青ざめるヘレンを連れて去る俺を見て、あの女は泣きそうな顔をした。その理由を、ヘンリックは知っていた。向こうも孕んでいたからだった。それによって、ヘレンに勝ったと、あの女は思っていたのだ。

 愚かなことこだと、ヘンリックは済まなく思った。自分に愛を求めてくる女の顔は、愛しくないわけではなかった。しかしヘレンの目と見つめ合う時の、他にはない感情を、あの女の顔を見て、感じたことが一度もない。

 この女を守ってやらなければ。たとえ自分は死んでも、ヘレンと、ヘレンが産んだ俺の子を、なんとしても守り抜かなければと、ヘンリックは思った。それは意志ではなく、アルマが与える本能的な感覚だった。今期のアルマも、結局ヘレンを女(ウエラ)に選んだ。

 なぜだろうかと、なにが違うのかと、ヘンリックには不思議だった。

 不都合なことだった。自分にとって、この女を愛し続けるのは。なんの利益もなく、危険があるだけだ。呪われた血を持った女で、呪われた息子を産み落とす小さな海を、腹の中に持っている。

 本当なら、自分にとってこれまで不都合だった者たちにしたように、剣の血糊に変えて、海に帰すべきだった。

 だが、そんなことが、自分にできるわけもなかった。

 できるわけがない。

 ヘレンが死んだら、俺も死ぬ。きっとそうなる。

 離宮を去る刻限をとっくに過ぎた自分を、抱きかかえた初子が、逃がさないというように、固く抱き返してくるのが感じられた。ジンは我が儘な奴で、物心つくやいなや、一時の逢瀬から引き上げようとする自分を、いつも引き留めた。

 口がきけるようになったばかりの頃から、すでにこいつは、帰らないでと言って、俺を苛立たせた。その言葉は、子供の声で話したが、それがヘレンの心を代弁しているのだということは、ずっと分かっていた。

 こいつもヘレンの中からやってきた、彼女の一部で、母親を愛している。ヘレンを守ろうと、いつも必死だ。

「ヘンリック、もういいじゃん。今日は、帰らなくても」

 どこか縋り付くような声で、ジンがそう言った。息子はヘンリックに抱えられたまま、その背にしがみついていた。その様はまるで、船の男を海に引きずり込むという、海の魔物のようで、ジンのまだ小さいはずの体は、ずっしりと重く感じられた。

「飯も食ってねえし。一緒に食っていけよ。母上が飯を作る間、俺に剣を教えてよ。イルスも最近、ちょっとは使うようになったんだぜ。俺が教えたの」

 それを褒めろというように、ジンは話した。そうかと答えるのが、今はやっとだった。

 ジンが誘う話は、ひどく魅力的に、ヘンリックの耳に聞こえていた。

 このまま居残って、このうるせえ餓鬼どもと戯れていようか。

 そしてのんびりヘレンの手料理を食って、酒でも飲んで、ぐったりしてから、一度も泊まったことのない、あの寝室の寝台で、餓鬼に蹴られながらヘレンを抱いて眠ろうか。朝までずっと。

 そうしてほしいと、自分を見つめる女(ウエラ)は望んでいる。その唇は決して、そんな我が儘を言わないが、彼女がそれを求めていることは、ずっと昔から知っていた。よく知ったうえで、知らないふりをしてきた。それがあまりに、不都合だったので。

 彼女は族長の情婦で、神殿の許しを得て正式に結婚した正妃のほうを、ヘンリックは尊重すべきだった。ヘレンは何の地位も後ろ盾もない女で、湾岸に勢力を誇る実家を持つ正妃の力に比べれば、なんの助けにもならない、ただの無力な女だ。

 それが世間の目だ。正妃との婚姻がなければ、ヘンリックはただの貧民出の娼婦の息子で、族長冠をかぶっただけでは、湾岸の貴族たちを動かすだけの力がなかった。

 今までは。

 そうだった。

 ヘンリックはそう考えた。

 しかしもう、俺は力をつけた。逆らうものは、あらかた屠った。内外の戦を、戦い抜いた。その争いは、まだ続いていくだろうが、俺が負けるはずはない。この部族で最強の男になったのだから。

「だめよ、ジン。みんなを待たせちゃ悪いわ」

 決然として、ヘレンはそう言った。

 夜警隊(メレドン)の連中が、出てくる族長を待って、居室の外にいることを、ヘレンは知っているからだった。

 ここにいるのは、遠くサウザス市街にある大聖堂の鐘が二つ鳴るまでと、ヘンリックは決めていた。二つ目の鐘を聞くとき、俺は族長なのだったと、無理にでも思い出すようにしていた。

 しかし今夜、鐘はいつ鳴ったのか。水の中にいた時か。その音は全く聞こえた気がしなかった。暗い水の中で、聞こえていたのは、イルスが自分を呼んで、助けを求める気配だけだった。

「ジン」

 抱きかかえていた息子を、床に立たせて、心持ち身をかがめて見下ろし、ヘンリックはその名を呼びかけた。

 ジンは恨めしげに、こちらを見上げた。

「外へ行って、誰か夜警隊(メレドン)の者に、伝えてこい。俺は今夜、ここに泊まるから、サウザスに戻って、王宮にそう連絡してこいと」

 言いつけられながら、ジンは呆然とした顔をした。なぜそんな顔をするのか、ヘンリックには良く分からなかった。

 お前の我が儘を、聞いてやったんじゃねえかよ。お前が俺に、親父らしくしろというから、そういうふりを、してみようっていうんじゃねえか。

 身を起こして、ヘレンを見やると、女はひどく険しい顔をして、いつになく機嫌のいい、ずぶ濡れのイルスを抱いていた。

「そいつの着替えは?」

 ヘンリックが促すと、ヘレンは、そうだったという顔になった。そしてなぜか、イルスを床におろし、こちらに近寄ってきた。

 着崩れた礼服を着た女(ウエラ)が、自分の首を抱くのを、ヘンリックはただ驚いて見守った。

 ヘレンは悪阻(つわり)のせいで、ひどく痩せており、強く抱きついてくる女の腕は、吐き気にのぼせたような、哀れな熱を持っていた。珍しく、彼女のほうから求めてきた抱擁に、ヘンリックは黙って応えた。

 子供の前ではやめてよと、いつもは渋い顔をするくせに、ヘレンはそのまま、せっつくようにして接吻をさせた。拒む理由も、自分にはなかったので、ヘレンの求めるまま、ヘンリックは彼女の唇を自分のそれで塞いだ。女の首筋から、微かに甘く、自分を縛る匂いがしたが、それはやはり、ひどく心地よくヘンリックを包んだ。

 ジンがイルスの手を引いて、扉を開けて出ていった。

 たぶん言いつけどおり、夜警隊(メレドン)に伝えにいくのだろう。

 あるいはこの、あの嫉妬深い息子には耐え難い光景から逃れようと、弟とともに逃げ出したのか。

 しかしあいつも、諦めるしかない。ヘレンは俺の女だから。

 そう思って、ヘンリックは誰にも心おきなく、愛しい女を抱いた。

 離れがたく触れあった体の、女の腹のあたりで、小さな海が満ちてくるのを、ヘンリックは想像した。たぶんそれは、温かい真夏の潮のようなものだ。その中で、新しい子供が育っている。

 次は娘がいいと、戻る馬車の中で、ヘレンは言っていた。不安げな青い顔をして。

 その時は、何も答えてやらなかった。それとも、もう餓鬼はたくさんだという顔を、自分はしたかもしれなかった。

 だが、あの海からの呼び声を聞いて、急に気が変わった。

 確かに次は、娘だといい。

 小うるさい息子どもは、もう二人いれば十分だ。

 次はヘレンのような、あるいは自分のような、二人のどちらにも似たような、おとなしい娘だといい。

 いや、それは無理かと、ヘンリックは思い直した。どちらに似ても、それは無理だ。

 とにかくお前ぐらいは、あんまりヘレンを苦しめるなよと、ヘンリックは腹の子に、ひっそり語りかけた。すると愛しい女の身のうちから、小さく自分に答える気配が、聞こえたような気がした。

 三人目の魔物の声が。甘く誘うように、心細げに。それは切なく、ヘンリックの胸に響いた。

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