第2話

「あのさ、ヘンリック、イルスが見つからないんだ。水路に落ちたんじゃないかと思うんだ」

 部屋を出るなり、ジンは堪えていたらしい早口で、噛みつくように訴えかけてきた。

 ヘレンと息子を住まわせている離宮には、サウザスを貫く川から引き込んだ水が、水路になって巡らせてあった。設計した者の言い分では、水路があれば見た目も良いし、冷房にもなるからという話だったが、ヘンリックにはどうでも良かった。家の中に橋があるのは、妙ではないかと思ったが、ヘレンは初め、美しいと言って喜んでいたし、それで自分も満足だった。

 しかし彼女が水路のことで文句を言い始めるまでには、そう長い時間はかからなかった。住み始めた時に、まだヘレンの腹の中にいたジンが外に出てきて、うろうろ這い回るようになってからは、子供が水路に落ちるから危ないと言って、ヘレンは時々愚痴っていた。

 水を抜いてもらえないかとか、水路になにか囲いをつけてはどうかと、いろいろ提案してくるヘレンにうんざりして、ヘンリックは取り合わなかった。お前は餓鬼のことばっかりだなと、つくづく嫌だった頃だったせいだ。

 こちらの不機嫌を悟って、諦めたのか、ヘレンはその後水路のことでケンカを売ってくることはなかったが、とにかく気にくわないでいることは確かだった。

 イルスが水路に落ちたって?

 ヘンリックはうんざりして、天井を仰いだ。ジンが嘘をついているとは思えなかった。こいつは駆け引きをする餓鬼だが、嘘はつかない。

 昔、言葉を操るのに慣れたころ、ジンがこちらの気をひこうと、生意気に嘘をついたので、ヘンリックが怒鳴りつけたからだった。以来、ジンは俺に嘘はつかない。ヘンリックはそう信じていた。

「なんでそう思うんだ。お前が突き落としたのかよ」

「そんなことしねえよ! イルスが勝手に入ったんだよ」

「見てたのか」

「見てたら止めるよ!」

 びっくりしたように、ジンは反論してきた。

 確かにそうだろうと思った。水路は深かったし、水は流れている。イルスは泳げるだろうが、なんせまだ走れば転ぶような幼さだ。急流下りに挑むには、まだ少々早い。お前と違ってなあ、冒険野郎と、ヘンリックはジンの顔を見下ろした。

「なんで入ったんだ、お前の真似か」

「違うって、そんなのどうでもいいから、とにかく探してくれよ」

 そう叫ぶジンはそうとう焦っていた。ヘンリックに嫌な予感がしたのは、その時になってやっとだった。

「どこだ」

 訊ねると、ジンは振り返りもせずに、脱兎のごとく走り始めた。息子の足の速さに、ヘンリックは驚いたが、とにかく走って追うしかなかった。

 いくつか部屋を超えた、水路にかかる橋のあるところで、ジンは水際に膝をついた。確かにそこには、脱ぎ捨てられた子供用の服と、イルスの額冠(ティアラ)がほったらかされていた。

 ヘンリックはそれに、顔をしかめた。

 あいつ、額冠(ティアラ)を外すなと、何度言ったら分かるんだ。

 その環は王族としての血を証すためのものではあったが、イルスにとっては、額に現れた竜の涙なる呪われた血を隠すための必需品だった。

 ヘレンが侍女や乳母を嫌って、子供を自分の手で面倒みようとするのは元々だったが、離宮からできるかぎり人払いするようになったのは、イルスが生まれてからのことだ。

 ヘレンは竜の涙だった。それは部族の者にとって、唾棄すべき呪われた身の上であり、ヘンリックも彼女を愛しているのでなければ、到底受け入れがたかった。

 その石は頭の中から生えていて、周囲に不幸をもたらすと信じられている。死や、病や、敗北、破産に、不妊に、ほんのちょっとした身の上の不運まで、大小のありとあらゆる不都合なものごとが、そういった者のせいにされたし、見つければ赤子であろうと撲ち殺すのが、この海辺での習俗だった。

 石が親から子へ伝わるという説を聞き、ジンが生まれる時には震え上がったが、幸い、初子は難を逃れた。そのときの安堵が深かっただけに、二度目の産屋で、ヘレンが抱く赤ん坊の額に青い石がついていた時には、ヘンリックは生まれて初めて卒倒するような衝撃を覚えた。

 こんな子なら、生まれてこなければよかったと、心底から不運を呪った。

 しかし、現に生まれたものは、どうしようもない。ヘレンが抱いて片時も離さないので、まさか彼女の腕の中にいる赤ん坊を、撲ち殺すわけにもいかなかった。

 産んだばかりの子が殺されれば、女(ウエラ)は狂うだろう。そうなったら自分も、生きてはいけない。

 殺すのは、いつでもできるからと、内心にそう言い聞かせ、ヘンリックはその時を耐えた。

 そして、恐ろしい秘密を抱えた子供が、二番目の息子になった。

 イルスが落ちたという水の中を、ヘンリックは見下ろした。

 水路は大人の腰ほどの深さだった。涼しげなタイルで装飾され、水は案外速く流れているように見えた。見渡してみたが、どこにもイルスがいるようには見えなかった。

「助けてよ、ヘンリック」

 哀れなほど焦れたジンが、こちらの腰に締めた礼服の帯を叩いてきた。

「ほっとくのかよ。だったら俺が行く」

 服を着たまま水に飛び込もうとするジンを、ヘンリックは肩をつかんで引き留めた。離せと喚く息子は、どうも泣きそうな顔だった。

「焦るな、待ってろ」

 水路の流れを追って、ヘンリックはイルスが流されたであろう方向を探った。

 離宮の中には幾筋かの流れが作られている。それはいずれ束になって、海へ注ぐ排水溝へと続いているはずだった。

 離宮が建設される前に、ヘンリックはこの建物の図面を見たことがあった。

 排水溝は屋敷の地下にもぐり、石壁で固めた大きな丸い管の果てにあり、最後には、海からの侵入者防ぐための格子が五枚かけられている。

 もしも水路にいないのなら、その最初の一枚に、イルスは引っかかっているはずだった。

 それが生きているか、すでに死体かの違いはあっても。

 離宮を出て行く、水路の終わりを壁の中に見つめて、ヘンリックは顔をしかめた。

 ここにも格子を掛けりゃ良かったんじゃねえか。それだけの話じゃねえのか。もしそういう作りになってたら、イルスはここに引っかかって藻掻いていただけで済んだ。

 どうしてこんな、危ない作りになってるんだ。

 大人なら、これは大した流れじゃないが、子供なら吸い込まれるだろう。花で飾って誤魔化してる場合じゃねえだろ。

 そのことに、今はじめて気付いた自分に、ヘンリックは嫌気がさした。ヘレンは怒るだろうな、だからあの時、何度も相談したのに、あんたは聞いてなかったわと。

 ああ。

 聞いてなかったさ。

「どうしよう、ヘンリック」

 排水溝に飲まれる水の流れが強いのを見て、ジンが青い顔を、さらに青くした。

 ヘンリックは礼服の上着を脱ぎ捨てた。水中で邪魔になるものは、服も靴も、とにかく脱いでいくしかない。

「どうしようって、泳いでいって拾ってくるさ」

「イルスが死んでたらどうしよう」

「落ちたのはさっきだろ。死なねえよ、あいつも部族の男だろ。まだ息が続くさ」

 そう言ったものの、ヘンリックはすでに一刻の猶予もないような焦りを、唐突に感じた。自分の額にある族長冠をはいで、泣きそうにじたばたしているジンの手に、それを押しつけた。

「ここで持ってろ。なくしたら、お前も水路に投げ込むからな」

 そう言い渡して、ヘンリックは泉に入った。水は冷たかった。

 深く息を吸いながら、ヘンリックはこちらを食い入るように見ているジンの顔を見つめた。

「ヘンリック」

 縋るような声で、ジンが名前を呼んできた。こいつは案外、可愛いげがあると、ヘンリックは思った。

 そして、水の流れる先に潜った。

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