カルテット番外編「海より来たる者」

椎堂かおる

第1話

 気がつくと、うとうとと眠っていた。

 ふと何かの気配を感じ、目がさめて、ヘンリックは自分の隣で眠っているヘレンの背中を、やんわりと抱き直した。

 ヘレンは夜会から戻った礼服のままで、いつも彼女が子供たちと寝ている寝台のうえに、横になっていた。

 どことなく苦しげな寝息をたて、昏々と眠っている女(ウエラ)の首筋から、独特の汗が微かに匂った。首飾りを外した、ほのぬくいヘレンの首筋に鼻をよせて、ヘンリックは彼女の匂いを嗅いだ。そこからは妊娠した女(ウエラ)の匂いがした。激昂するアルマを反転させ、女の奴隷として鎖に繋いでおくための匂いだった。

 しかし、ヘレンのそれは甘い匂いだ。頬を擦り寄せて息を吸い込むと、ヘンリックの心は安らいだ。

 その安らぎにぼんやりと身を任せ、ヘンリックは横たわるヘレンの腹を手探りした。そこはまだ、かつて子を産む前にそうだったようには、大きく膨らんではいなかった。普段とそう変わらないような、柔らかく温かい肌が、絹を透かして感じられるだけだ。

 まだまだ先よと、ヘレンは言っていた。満ち潮のように、女の腹が小さな海で満たされてきて、その中に子供がぷかぷか浮かんでいるのだという。その中で泳ぎ回り、十分に納得がいってからしか、赤ん坊は出てこない。

 その話は、いつ聞いても、ヘンリックにはぴんと来なかった。

 この中にすでに何かがいるのだということも。

 そう思いながら、ヘンリックはヘレンの腹を撫でてみた。

 別に子供が欲しくて、彼女を抱いたのではなかった。気がつくといつのまにか、ヘレンが妊娠していて、男に安らぎと隷属を与える匂いをさせていた。

 本人も気付いていないその事実に、ヘンリックのほうが先に気付いた。

 毎夜訪れて見るヘレンの顔は、その夜も相変わらず愛しかったが、彼女を守ってやらなければと唐突に強く思った。そうなるともう、ヘレンを抱こうという気が起きず、なんだかひどく気が抜けた。

 情けない話だった。毎度その夜は、なにか耐え難い気恥ずかしさがあり、男としての面目がないような気分になった。

 ため息をついて、ヘンリックはそっと身を起こし、眠るヘレンの横顔をのぞき込んでみた。かすかに苦悶する表情のまま、ヘレンは汗をかいていた。

 夜会の途中で、悪阻(つわり)がひどいと青い顔をするので、そのまま連れて戻ったのだった。

 女(ウエラ)が孕んだようなのでと言えば、早々に連れて帰ることに不思議がる者はいない。おめでとうという祝いの言葉を、行き合う顔という顔が口にした。別に何もめでたくはない気がしたが、ヘンリックはとりあえず頷いておいた。

 アルマがやってきたときに、子供ができないよりは、できたほうがいい。それが一番わかりやすく、自分がこの女を所有しているという証だったからだ。

 しかし、これ以上、餓鬼が増えるのはどうかなと、ヘンリックは正直辟易した。

 二期前に生まれたジンは、すでに木剣を振り回す利かん気の暴れ者で、前のアルマが連れてきた二番目の息子は、ヘレンが青い竜(イルス)と名付けたものの、そんなご大層な名前に見合うほどの覇気がある男になるとは見えなかった。

 ジンも大概うるさいが、イルスは兄貴に連れ回されて、いつもぎゃあぎゃあ泣いてばかりだ。ジンがヘンリックに付きまとうので、成り行き二人の餓鬼がいつもヘンリックの足元をうろつくことになり、うるさくて敵わない。

 三人目なんて、要らないのじゃないか。そう思うが、ヘレンには恐ろしくて言えなかった。孕んだと知って、女(ウエラ)は嬉しいらしかったからだ。

 げろげろ吐いても、それでも嬉しいもんか。

 心持ち痩せてきたヘレンの寝顔を見ながら、ヘンリックは内心、彼女に問いかけた。

 今回のは悪阻(つわり)がひどく、ヘレンはすでにふらふらだった。飯も食わずに吐いてばかりいるので、彼女が死ぬのではないかと、ヘンリックは心配していた。

 赤ん坊というのは、途中で産むのをやめる方法はないのか。ヘレンが苦しんでいると、ヘンリックは時々そういうことを、本気で考えた。

 やめてもいいぞ別に、俺は子供なんか欲しくないから。そう言ってみようかと思うが、それはそれで、やはり恐ろしくて言えない。言ったら、たぶん殺される。もっとひどけりゃ、捨てられるかも。

 やれやれと、自分の想像に困ったところで、どこから入ってきたのか、ジンが寝台の横から、ひょっこりと頭を出した。いつもこの息子は神出鬼没だった。

「ヘンリック」

 どことなく強ばった表情で、ジンはこちらに小声で呼びかけてきた。息子もすでに十歳に近づき、人並みの頭ができてきた。やっと休んだ母親を、起こしてはまずいと思っているらしかった。

 側臥した背後にいるジンを、ヘンリックは身をよじって振り返った。寝室の小さな灯火に照らされて、薄闇にうかびあがった息子の顔は、いつ見ても自分によく似ていた。

「どうした」

「イルスがいねえんだよ」

 近頃とみに、こちらの口調まで盗み始めた息子を、ヘンリックはじっと見下ろした。

「いるだろ、どこかに。ほっとけ、いないほうが静かだから」

 そう答えて取り合わないでいると、ジンは困った顔をした。息子がなにかを隠していることを、ヘンリックは気付いたが、正直に言わないのなら、あえて取り合う必要もないように思った。

「いいから、早く来てよ。頼むから。母上が起きちゃうよ」

 ひそひそ話す声で、確かにヘレンは低く呻いた。眠りが浅いらしかった。

 ちっと軽く舌打ちをして、ヘンリックは彼女の体から離れ、寝台に腰掛けた。

 まったく、まだちびっこいくせに、ジンは頭の回るやつだった。どうすればヘンリックが自分の話を聞くか、よく知っている。

 母親のことを持ち出せば、俺が無視できないだろうと、足元をみてやがる。

 足早に寝室を抜け出していくジンをゆっくりと追って、ヘンリックは静かに部屋を出た。

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