第10話

 わずかの間を置いて、忍び寄る影のように、どこかからともなく、青い服を着た男たちが数人、レスリンの周りに立った。彼らは夜警隊(メレドン)の制服を着ていた。

 先代の族長に仕えた腹心の者たちは、すべて闘技場で屠られたはずだった。だから、今も生き残っている夜警隊(メレドン)の男は、ヘンリックのための猟犬だ。

 確かに、物静かで忠実な犬のように、彼らは族長の言葉を待っていた。

「紙を出せ、セリス」

 ヘンリックに呼ばれた男は、部族の者にしては珍しく、いくぶん長い黒髪をしていた。その鋭く切れ長の目尻に、入れ墨のような青い一線が見える。彼は古い貴族の出だと、レスリンはぼんやり思った。

 かつて自分たちとは別の異民族と、混血を試みた時代があった。彼はそのころの血筋を持った男だ。湾岸の男たちと、同じように狂乱する。しかしその酔いはもっと深い。彼を従わせるには、たぶん、たくさんの血が必要だろう。きっと、幼げな顔に似合わず恐ろしい男で、ヘンリックと気が合うのだろう。

 その男は黙ったまま、折りたたまれた革の書類入れを開いて、いつも持っているらしい書面を、ヘンリックにさしだした。

「そこまですることないわ、ヘンリック」

 微かに震えた声で、セレスタが囁いた。それにヘンリックは首を横に振った。

「この女はお前を侮辱した。夜会の間で、皆が聞いている前で」

 ヘンリックは面白くもなさそうに、渡されたペンを使って、さらさらと署名をした。

「レスリンは私の親友なのよ」

 どこか疲れた口調で懇願するように言うセレスタの言葉を、レスリンは呆然と聞いた。そうだったかしら。彼女と私は、親友だったことがあったかしら。

「お前もつくづくお嬢さんだな。この女はお前を出し抜いて喜んでるような、どうしようもない貴族女だぞ。そんな素敵なお友達がなんの気休めになる」

 横目にセレスタを見るヘンリックは、彼女の言うことに一切取り合う気配もなかった。

「あなたのお友達は、さぞかし頼りになるのでしょうね」

 取り囲む夜警隊(メレドン)の男たちを眺めて、セレスタは言った。皮肉らしかった。セレスタが皮肉を言うのを、レスリンは初めて聞いた気がする。

 おっとりと愚かしいお嬢様だったが、セレスタは人を悪し様に言うような娘ではなかった。いつもにこやかで優しかった。わがままで独りよがりだったけれど、子供のころからずっと、一番の友達だったのに。

 なにもかも滅茶苦茶よ、この男が現れたせいで。

「ご自邸にお連れいたします」

 黒髪の男はそう言って、レスリンの腕を引いた。言葉は貴族らしく優しげだったが、立たせようとする力は容赦がなかった。

「いやよ、帰らないわ」

 レスリンは力なく、抵抗する言葉を呟いてみた。

 夜警隊(メレドン)の男たちはお互いに目配せをして、その視線でなにかを語り合ったらしかった。そのうちの一人が、なぜか剣の柄に手をかけ、その指を黒髪の男がすかさず覆って、彼が剣を引き抜こうとするのを止めた。

「お連れします。今ならまだ、場所を選べます。貴女にも誇りがあるでしょうから」

 真顔でそう教える黒髪の男を、レスリンはぼんやり見つめた。

 この男はなんの話をしているの。

 そして、答えを求めて、レスリンはヘンリックの顔を探した。

 彼は、どことなくぐったりとしたセレスタを抱き寄せて、その背を撫でながら、こちらを見ていた。項垂れたセレスタは、彼の胸に顔を埋めていた。

「ヘンリック、私、あなたを愛してるわ」

 それだけは憶えておいて。レスリンはなんとか伝えようとした。自分の中にあふれている感情を。

「いいや、お前は愛がどういうものか、知らない女だ。もし本当に俺を愛していたら、闘技場にやってきたはずだ。セレスタですら、俺が戦うのを泣き叫びながら見た。そのときお前は、どこにいた」

 自分の寝床で震えていたわ。

「お前に俺の正妃を侮辱する権利はない。小賢しい貴族のあばずれめ」

 囁く声で、男は笑い、そう言った。その目の奥にある表情を、レスリンはよく憶えていた。見つめ合うとヘンリックの瞳はいつも、無表情なように見えた。

 彼はいつも何かを押し殺していたのだ。

 憎しみを。

 嘘の覆いが取り払われると、彼のその青い目に宿っているのは、燃えるような憎しみだった。

 あの男を弄んでやりましょうと、いつか闘技場で、遊び仲間が言った。そのことが不意に思い出された。あの剣闘士をみんなで買いましょう。

 だけど競りで取り交わされる金貨の数は、驚くようなもので、とても手が出なかった。残念だったわ。ほんの一点鐘でも、あなたはとても高かったの。

 無料(ただ)で十分遊んだかしら。胸のときめくような優越にひたる時を。

 あなたはそのことに気付いていたの、ヘンリック。

 そして私を憎んでいたのかしら。

 あんまりだわ。

 確かにお金は払わなかったけれど、その代わりに、私はずいぶん、目の飛び出るような代価を支払ったのに。

「連れて行け。レノン、お前がやれ」

 ヘンリックに命じられて、剣を抜きかけていた男は、にやりと笑った。そして黒髪の男の顔を間近から見つめて、書類をひったくった。

「貴族野郎」

 甘く噛みつくような声で同僚をそう詰(なじ)ってから、男はレスリンの腕を奪い取った。眉をひそめる黒髪の男は、獲物をとられた顔をしていた。

 ほとんど引きずるようにして連れ出されるレスリンの姿を、夜会の間にいた者たちが、呆然としたように見守っていた。

 彼らは皆、追いつめられた顔をしているように見えた。まるで、この次に引き出されるのが自分自身であるかのように。

 以前この王宮の夜会の間は、華麗だった。あたかも夢のようだった。皆で享楽し、踊って朝まで時を過ごした。

 しかし今ここを支配しているのは、あの首斬り男が織りなす、冷たい悪夢だった。

 殺せ(ヴェスタ)と叫ぶ声が、中央広間(コランドル)に渦巻く。そんなような夢だ。

 そこで彼は最強の剣をふるうのだろう。まるで、踊るように。

 それはきっと暗く、美しいだろう。

 禍々しく、むせ返るような、血と、甘い汗の臭いがする、バルハイの新しい夜だ。

 レスリンはそう思った。

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