第9話
「よくお似合いだが、少々派手だ。貴族のそんな贅沢も、今は仕方がないが、いずれは廃するつもりだ」
いつもの首をかしげる仕草をして、ヘンリックはやっと、口元に笑みを見せた。しかしそれは、酷薄な微笑だった。
そんな笑い方をする男は、ひどく近寄りがたかった。
目の前に立つこの位置さえ、どうしようもない非礼だという気がして、レスリンはたじろぎ、無意識に半歩後ずさった。
彼が怖かったからかもしれない。
冷たいだけでなく、その視線はまるで、レスリンを憎んでいるように見えた。
ヘンリックは腰に、以前と変わらない、エナメル細工の剣を提げていた。大礼装には不釣り合いに見えたが、彼は、そんなことは全く気にしていないらしかった。
お飾りの剣じゃないから。いざとなったら、これで戦って、彼は並み居る敵の首を、今でも遠慮なく切り落とすつもりでいるのだろう。
もはや、相手が貴族だろうと、思いとどまる理由がない。
「レスリン」
背後から呼ばれて、レスリンははっとし、振り返った。
セレスタが立っていた。
彼女は贅沢をしていた。
しかし、セレスタがその身に纏っているのは、かつての彼女がそうだったような、娘盛りをひきたてる可愛らしい趣味の服ではなく、波打つ控え目な飾りひだが、どことなく妖艶な気配を醸し出す、薄紫の夜会服だった。
セレスタよりヘンリックが派手な服を着ていることに、レスリンはどうしようもない違和感を覚えた。
しかしセレスタは決して、この夜会の間にいる誰にも見劣りはしなかった。
その額を飾る、正妃のための冠と、薄紫の夜会服に包まれた、赤子を孕んだ大きな腹が、なによりの名誉として、彼女を飾り立てていた。
その腹にそっと手をそえる仕草をして、セレスタはヘンリックの隣に立った。彼の腕に触れる距離で。
「ご無沙汰だったわね。いったいどこにいたの。婚礼の招待状を送ったけれど、あなたは来なかったわ。私の晴れ姿を、ぜひ見てほしかったのに。まさかまた、病気でふせっていたのかしら」
どことなく暗い無表情で、セレスタはにこりともせずに、そう挨拶した。
「私の夫を紹介するわ。ヘンリック・ウェルン・マルドゥーク閣下よ。族長なの。これから私のことは、いつもみたいに呼び捨てにせず、セレスタ様と呼んでちょうだい。私はもう、彼の正妃として、この部族の母になったから」
セレスタは、こんなにしっかりと喋る子だったかしらと、レスリンは思った。
友は淡々と、勝利を宣言していた。
大貴族の姫君らしい、鷹揚なおとぼけではなく、セレスタははっきりと、そういう意味で話していた。
そして白い絹の手袋をした指で、ヘンリックの腕をとり、セレスタは彼に自分の背を抱かせた。それに抗う気配もなく、ヘンリックはただ労るように、子を孕んだ女の体を抱き寄せてやった。
「私、今夜は踊れそうにないわ、ヘンリック。胎動がすごいの。足がふらふらするわ。だから代わりにレスリンと、踊ってあげてもいいのよ。考えてみれば彼女、ずっと前から、あなたと踊りたそうだったわ」
じっとこちらを見つめたまま、セレスタはそうすすめた。
濃い睫毛で縁取られた、どこか濡れたような、大きなセレスタの目に、挑むような光があった。
レスリンはじっと、その光と見つめ合った。
「いいや、残念だが彼女は帰らないといけない。服装がまずいから」
小声でセレスタに教えているヘンリックの言葉に、レスリンはぎょっとした。ヘンリックが女の服のことを、どうのこうの言うなんて、想像もしていなかった。
「まずいって、何がまずいのかしら。あなたのために、最高に着飾ってきたわ」
レスリンは耐えきれず、思わずそう問いかけていた。
必死の真顔でいるこちらを見つめ、ヘンリックとセレスタは、どこか困ったような微笑を浮かべた。
「夜会では誰も、正妃である私より、豪華な服を着てはいけないのよ、レスリン。それが常識なのよ」
ヘンリックの手を握って、セレスタが教えた。
「夫がさっそく、貴族たちに倹約令を出したの。この人はけちなの。貴族たちが奢侈に明け暮れるのが、我慢ならないのよ。私にも、駄目だというの。お洒落をするのが、そんなにいけないことかしら。ひどい話だわ。結婚する前は、あんなに寛大だったのに」
でも、男って、そういうものらしいわよと、セレスタは訳知り顔で、レスリンに諭した。
その話を聞きながら、なぜかレスリンは自分の身が震えるのを感じた。
彼は私のものよと、セレスタは語っているのだった。
私は彼と結婚したのよ。正式な妻なの。子供だって産むわ。夫の性癖に愚痴だって言う。それでも平気なのよ。彼が愛してるのは、あなたじゃなく、この私。
セレスタは、そうは言わなかったが、レスリンの耳には、そう語る友の声が聞こえるかのようだった。
眉を寄せ、きつく両手を握り合わせて、レスリンは食い入るように二人を見つめた。
お似合いの族長と正妃に見えた。
自分が立つはずの場所に、セレスタが立っていた。子まで孕んで。
それに引き替え、私はどうして孕まなかったの。
「ヘンリック……」
縋る目で、レスリンは男の顔を見た。
「呼び捨てはだめなのよ、レスリン。せめて閣下とお呼びしなさい」
割り込むセレスタの声に阻まれ、レスリンは口を噤みそうになったが、なんとかそれを押しのけ、言葉を継いだ。
「私があなたの、本当の女(ウエラ)じゃない。どうして、迎えに来てくれなかったの。私ずっと、待っていたわ。あなたのことを」
血を吐くような早口が、唇から洩れた。
そんなレスリンを眺め、ヘンリックは不思議そうに、首をかしげた。
「誰が本当の女(ウエラ)だって?」
とぼけたような言い方だったが、ヘンリックは本気で言っているらしかった。
「私よ。約束したわ」
「そうだったかな。俺にはそういう約束が多すぎて、もう忘れたよ」
「そんな馬鹿なことってあるかしら」
身を折って、レスリンは叫んだ。
ヘンリックが、うっすらと笑った。まるで、可笑しくてたまらないというように。
そんな男を、セレスタは大きな腹をなだめるように撫でながら、そっと見上げた。彼女の目は、静かに澄んでいて、そして冷たかった。
「恥に思うことないわ、レスリン。彼はひどい男なのよ。騙されていたのは、あなただけじゃない。みんな、自分こそが彼の愛しい女だって、信じていたのよ」
じっと自分を見上げているセレスタの顔を、ヘンリックがのぞき込んだ。その時も彼は、やはり可笑しそうな表情をしていた。
「セレスタ……そうやって勝ち誇っているつもり? あんただって騙されてるわ。その男が自分を愛してるなんて、まさか思ってないでしょうね」
堪えきれない怒声で、レスリンはセレスタに喚いた。
わずかに苦しげな表情が、セレスタの眉を動かしたが、正妃は気高いふうな無表情を維持した。
「大丈夫、思っていないわ、レスリン。彼が愛しているのは、別の女よ。ずっとそうだったの。馬鹿な私でも、いくらなんでも気付くわ。自分と同じ日に、夫が別の妊娠した女と神殿で婚礼をあげれば……綺麗な嘘から、目がさめるわ」
胎動がひどいと言っていた。その言葉は本当だったようで、セレスタは腹を撫で、苦しげな顔をした。
レスリンは彼女の話に、また腰が抜けそうになった。
「その女は、離宮に住んでるわ。ヘンリックの女(ウエラ)よ。ずっと我慢していたのよね、ヘンリック。でも婚礼は私のほうを先にしてくれて、本当に良かったわ。それで私の正妃としての面子も立つというものよ。だけど、どうせなら、せめてあと一日くらい我慢できなかったの。婚礼を終えた花嫁を、その場で放り出して、次の女を抱くなんて、いくらなんでも、あんまりよ」
セレスタはヘンリックを静かに詰っていたが、その話は彼らには了解済みのことのようだった。彼女はわざわざ、自分に聞かせるために話しているのだ。
いかに深く、この男に騙されていたのか、悟らせるために。
「悪いな、セレスタ。でも俺にも、どうしようもないことなんだ」
心底すまないという声で、ヘンリックはセレスタに詫びている。
それも嘘とは思えなかった。どう聞いても、ヘンリックの話は本音に聞こえた。
「ヘレンを愛してるんだ。あの女がいないと、俺は駄目なんだ。あいつは妾妃で、お前は正妃なんだから、それでいいだろ。折り合いをつけて、どうにか我慢をしてくれよ。アルマはなにも、これが最後じゃないだろ。次の潮はお前を、選ぶかもしれない」
そんな無茶な話を、セレスタは受け入れるだろうという口調で、ヘンリックは話した。その顔は、悪気のないふうに、微笑んでいた。
何もかも知ったうえで眺めても、愛おしい男の顔だった。
その顔と見つめ合い、しかたない人ねと、セレスタは答えた。優しく答えるような、微笑みさえ浮かべて。
しかし彼女は寂しげだった。それしか選べる道がないようだった。その寂寥は、少女のようだった彼女の顔に、大人の女の美しさを与えていた。
レスリンは自分の足から力が抜けるのを感じ、気付くとその場にへたりこんでいた。
どういうことなの。一体、どういう。
「レスリン、もう帰ったほうがいいわ。屋敷でゆっくり休んで、正気に返るまで、王宮に来ないほうが、貴女のためよ」
心配げな囁き声で、セレスタは労り、レスリンの肩に触れた。まるで友達みたいに。
その指が自分に触れるのに、耐え難い何かを感じ、レスリンはうずくまって、低く呻くような悲鳴をあげていた。
「触らないで、私に」
手を振り払うと、セレスタはよろめいた。転びかける彼女を、ヘンリックが支えた。
セレスタはひどく焦った顔をして、確かめるように自分の腹を撫でた。彼女が腹の子を気遣っていることに、レスリンは猛烈な怒りを覚えた。
「孕んだからって、偉そうにしないで。正妃だからって、それが何よ。彼は私のほうが良かったって言ったわ、あんたより、私のほうが!」
唐突に暴露するレスリンの絶叫を聞きながら、ヘンリックは初めて、参ったという顔をした。その声は隠しようもなく、夜会の間に響き渡っていた。
セレスタも、さすがに、まあという非難の目をした。そして夫の顔を咎める目で見上げた。
「あなたったら、そんなことを言ったの。それは本当の話なの」
「そんなこと言ったかどうか忘れたよ」
渋面で答えるヘンリックは、本当に忘れたらしかった。
「じゃあ、今考えてみて。私とレスリンと、どっちが良かったか」
問いつめる口調のセレスタを、ヘンリックは苦笑して見つめ返した。
「そうだな、彼女かな」
そう答えるヘンリックの胸を、セレスタが絹の手袋をした拳で、軽く打った。
「ひどいわ。正直な人ね」
「そんことで妬くなんて、どうかしてる。お前は正妃で、向こうはなんでもない女なのに」
笑いながら、ヘンリックは答えた。
なんでもない女と、彼の口が言った。
自分を支えていた糸が、ふつりと切れるのをレスリンは感じた。
自分はこれまで、彼に操られていた。愛という、妄想の糸で。男は自分の愛を、軽々しく見くびっていた。そして裏切ったのだ。これ以上なく、手ひどい形で。
そんなことが、許されるだろうか。
「……呪ってやるから」
うずくまったまま、顔を覆って、レスリンは呻いた。手袋からは、百合の香りがした。
身につけた華麗な衣装も、素晴らしい首飾りも、全てが虚しかった。
「私は、あきらめないから」
もう一度、彼の微笑みが見たくて、レスリンは族長冠を着けた男の顔を見上げた。
私に笑いかけて、ヘンリック。愛しい女を見る目で。あなたはそのとき、どんな顔の男なの。
「あなたが私を愛するようになるまで、絶対にあきらめないから。呪ってやるわ、セレスタ、あんたが妊娠しなければ、彼のアルマは私を選んだ。そうに決まってる。あんたの腹の子なんか、死ねばいい」
恨む目で睨むと、セレスタは顔をしかめ、レスリンの視線から腹をかばうように背を見せた。
逆恨みだと思った。それでも、誰を憎めばいいか、分からない。男を恨むべきかもしれなかった。そうとは思っても、ヘンリックを見つめると、目の前の男は以前と変わらず愛しかった。
「なんてえ様(ざま)だ、もっと賢い女だと思ったが」
呆れた風に、愛しい男は言った。
彼は指で背後を差し招いて、誰かを呼び寄せた。
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