第8話

 挑戦(ヴィーララー)は行われた。

 それが現実のことだとは信じがたく、レスリンは抗ったが、バルハイの街に日毎に満ちていく戦いの熱気は、逃れようもなくレスリンの身にも迫ってきた。

 夜警隊(メレドン)を相手に戦う男の話で、市井は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。

 賭をして一山あてようとする者。英雄を作ろうとする者。ただただ熱狂する者。

 族長を支持する貴族と、剣奴隷を支持する民衆とが、お互いを睨み合って、じりじりとした、いつまでも眠れぬ夜を過ごした。

 最初の戦いが三日後に迫った日、レスリンはとうとう都市の興奮に耐えきれず、田舎の荘園に逃げ込むため、バルハイを後にした。

 ヘンリックとは、セレスタの妊娠を知らされた日から、一度も会っていなかった。

 会いたい気持ちは狂うほど募ることもあったが、顔を合わせれば、無謀な戦いなどやめてくれと泣き叫び、彼にすがりつきそうな自分が予感され、恐ろしくてできなかった。

 男には、名誉のためや、女(ウエラ)のために、死ぬとわかっていても戦わねばならない一戦がある。女の口から、その戦いから逃げろと求めるのは、この部族の男にとって、耐え難い裏切りだ。

 たとえその男が敗北して死ぬとしても、全力を挙げて戦った結果であれば、その死は無駄ではなく、名誉なことだった。女(ウエラ)はそれを看取らねばならない。

 そして勝者となった男の戦利品となる。

 古来から続く、この狂乱する戦士の一族の習わしだ。

 それは文化ではない。血の中にある、体質だ。

 混血によって血の薄まったレスリンには、確信することまではできないが、そういう気分が、理屈ではなく、腹の奥底から湧き上がるものなのだということは、うっすらと予感できた。

 その血は、この部族の女の中にある。婚約者だったアシュレイを惨殺した男に、セレスタが惚れたようにだ。

 では、ヘンリックが敗れて死ねば、自分はその時、誰のものなのだろう。

 ふとそう気づくと、レスリンには奇妙な気がした。

 自分がヘンリックの女(ウエラ)だということは、ふたりの秘密で、ほかの誰にも知られていなかった。誰も知らないのに、いったい誰が、彼から自分を奪えるだろうか。

 もしかして、自分は、たとえヘンリックが死んでも、永遠に彼のもののままなのではないかと、レスリンは気づいた。

 それを見越して、あの男は、死を看取りにくるなと言ったのではないか。

 その考えは、レスリンの胸を灼けた炉のように熱くさせた。

 自分の中にあるその愛が、他の誰かによって打ち消されるのが、レスリンは嫌だった。永遠に、あの男のものでいたい。ずっとあの瞳と見つめ合って、あの腕に抱かれて、生きていたいのだ。たとえ血の中にあるアルマの呼び声が、それを禁じても。

 荘園の古びた屋敷に籠もり、レスリンは震えながらヘンリックの訃報を待った。

 しかしそれは、戦いが始まって何日たっても、聞こえてこなかった。

 伝令の語る、壮絶な戦いの模様に、レスリンは悶え、寝床の中で震えて、時には死んだようになった。

 見に行けばよかったのかと、気の狂いそうな苦悩が湧いた。

 民衆の眺める中、闘技場で夜警隊(メレドン)と戦う男の姿を、自分もその興奮の渦の中に立って、見守るべきだったのではないか。

 殺せ(ヴェスタ)と叫ぶ人々の声が、心臓を刺すようでも、自分も彼とともに苦しみ、目には見えない血を、流すべきだった。

 彼の鞘を、しっかりと胸に抱いて。

 それが女(ウエラ)としての、あるべき姿だったのではなかったの。

 髪を振り乱す幾日もが過ぎ、その知らせは、レスリンのもとにやってきた。

 ヘンリックが勝ったのだった。

 レスリンは腰を抜かした。

 ヘンリックは、迎撃する夜警隊(メレドン)の手練れを全て倒し、その後に待っていた族長との死闘をも勝ち抜いたという。

 あの剣奴隷が、族長になったのだ。

 族長になった。

 バルハイで。

 戴冠したという。

 にわかには信じがたい話だった。

 レスリンはおろおろと、その後の何日かを屋敷の中を彷徨って過ごし、やがて気づいた。一刻も早く、バルハイに戻らねばならない。

 彼は待っているはずだった。

 私を。彼の、本当の女(ウエラ)を。

 今や族長となった男には、バドネイル卿を旦那様と呼ばねばならない義理はないのだ。バドネイルは彼の臣下になった。

 セレスタのご機嫌をとる必要もない。

 愛する女(ウエラ)を公然と抱けない理由は、もうヘンリックにはないのだ。

 馬車を仕立てて、レスリンは荘園を発った。

 道のりは果てしなく遠く思えた。揺れる座席で頭を抱えたまま、レスリンは日に夜を継いで、馬を駆けさせた。

 朦朧と辿り着いたバルハイの、狂ったような街を駆け抜け、闘技場の前を通ると、信じられないことに、マルドゥークの旗を掲げるための見上げるような柱に、族長の死骸が晒されていた。今や、先代となった、過去の男だった。

 王宮の夜会で、見たことがあったその姿が、見る影もなく切り刻まれているのを、レスリンは恐れながら見送った。

 首は、もちろん切り落とされていた。

 死骸を括り付けた旗柱の先に、その首は突き立てられ、その眼窩はじっと、かつて支配した狂乱の街を眺めていた。今では別の男の戦利品となった、バルハイを。

 その醜悪なものを目にして、レスリンにはやっと実感が湧いた。

 首斬り男は勝利した。

 かつては、自分が売り買いされていた闘技場で。彼はとうとう、最強の男になったのだ。

 強烈な喜びが、レスリンの身の内に淀んでいた、これまでの怖れを打ち払っていった。

 ふと気付くと、ひどい形(なり)をしていた。

 髪は乱れ放題で、肌からは嫌な汗が匂う気がした。衣装の裳裾も乱れて皺になっている。とてもこんな姿で、彼のところへ行けるわけがない。

 レスリンは馬車をバルハイ市内にある、自分の家族の屋敷へと向かわせた。

 セレスタの住む大邸宅と比べると、ずいぶん見劣りのする古い屋敷だが、家名にふさわしい壮麗さが、いまだに残っているはずだ。それに自分はもうすぐ、この部族で随一の女になるのだから、この血筋の家格も、一気に高まることだろう。

 族長位の権力を持ってすれば、家族に名誉を与えるような、新しい邸宅を建ててやることもできるだろうし、なにしろ自分はきっと、あの壮麗な王宮に住むことになるのだ。

 どんな望みも思いのままに。愛しい男のものになって。彼の子を、幾人も産んで。悔しがる女たちの羨望の眼差しを浴びながら、純白の中央広間(コランドル)で踊る。彼の、第一の女(ウエラ)として。

 発狂したようなレスリンの有様を見て、家族たちは心配をした。

 大丈夫よ、心配しないでと、レスリンは答えた。

 もう何も心配いらないわ。本当に何も、何もかも、大丈夫になったのよ。

 王宮に行って、新しい族長に謁見したいと言うと、家族は今夜も夜会があると教えてくれた。バルハイの宮殿では、毎夜、新しい支配者を祝う祭りが行われているのだそうだ。

 ああ、では、そこへ行かなければ。最高に着飾って。

 レスリンは家に伝わる古いものを数々売り払わせて、素晴らしく美しい夜会服や、身を飾るための宝石を手に入れた。特にと宝石商がすすめた、青い石を取り混ぜた真珠の首飾りは、ここしばらくでやせ衰え、華奢になった自分の首筋に、ぞっとするくらい良く似合った。

 セレスタだって、こんな素晴らしい首飾りをしていたことはない。

 レスリンはその品の価格を尋ねなかった。

 たとえ屋敷を売り払うほどの金貨が必要だったとして、それがなんだというの。私にはもう、どんな贅沢だって、許されるのよ。

 いつぞや男が好きだったらしい、百合の香りをつけて、レスリンは買い集めた最高の衣装を身に纏った。

 馬車も新調したかったが、時間がなくて、そこまで手が回らなかった。

 とにかく一刻も早く、王宮へ馳せ参じなければ。

 その思いがあまりに強く、とても待っていられなかったのだ。

 バルハイの街を、すでに夕凪が包み込んでいる。夜会の始まる時刻まで、あと少しだった。

 その時を待たず、レスリンは馬車を駈けさせた。

 夜会はまだ始まっていなかったが、誰も皆、同じ思いなのか、待ちきれずに早々とやって来た者たちが、まだ陽も燦々と射しているというのに、夜の格好をして、王宮にいた。

 王宮の侍従に、族長はいずこにおいでかと、レスリンは胸を張って訊ねた。

 美しく豪華に着飾ったレスリンを、皆が驚いたように見ていた。

 まるで、正妃もかくやという、序列を無視した華麗な出で立ちだったからだろう。

 中央広間(コランドル)にいると、侍従は気圧されたように教えた。

 波打つ波濤のような、たっぷりと長い青い裳裾を引いて、レスリンはそこを目指した。

 歩いていく道のりは長かったが、レスリンは、大理石と金で飾られた通路の装飾や、そこで行きすぎる高位の貴族たちの着飾った姿を、我がものとしてうっとりと眺めながら、踊るような足取りで歩いた。

 やがて中央広間(コランドル)のある、王宮の夜会の間に辿り着いた。

 族長は、そこにいた。

 青玉(サファイア)を飾った族長冠を着けて。

 よく見知った男が、初めて見る、華麗を極めた支配者の大礼装で。

 その姿に感極まって、レスリンは一瞬、失神しかけた。

 ヘンリック。

 そう呼びかけたかどうか、混迷のあまり、良く分からなかった。

 ほとんど走るように近づいてくる自分を、彼はゆっくりと向き直って見つめた。

 そのまま抱きつきたい衝動にかられたが、あと一歩の距離で、レスリンは踏みとどまった。

 それは自分の中に最後に残された誇りだった。

 自分から男に抱きつくなんて。無様だわ。

 彼が私を抱くべきよ。愛する女を。

 ヘンリック、いまや誰に憚ることもなく、私を我がものとする時よ。

 熱い目で、そう語りかけるレスリンの顔を、族長になった男は、ただ淡泊に見つめた。

「ごきげんよう、レスリン嬢。ご大層な首飾りを買ったようだ」

 レスリンの夜会服の襟元に目を落とし、ヘンリックはそう言った。

 淡々と響く、どこか呆れたような声で。

 レスリンは目を瞬いて、彼と見つめ合った。

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