第6話
バドネイル家が婚礼の支度をしているという噂は、突風のような駆け足で、バルハイじゅうを通り抜けていった。
市井の平民たちまでが、そのことを知っているようだった。
婚礼支度に必要そうなものや、あるいは何の関係もないものまで、この機に羽振りのいい大貴族に買い受けてもらおうと、バドネイル邸の外門のあたりには、商人らしい者たちの馬車が連日詰めかけ、ごったがえしていた。
それでも一応、その話はセレスタにとっては、秘密らしかった。
レスリンに婚礼の予定を打ち明けるセレスタのひそひそ声は、少女の頃に話した時の、浮き立った喜びを含んで、レスリンの耳に届いた。
「だから、正式には婚礼がいつになるか、まだ分からないの。きちんと決まるまで、話は内々にすると、お父様がお決めになったから、仕方がないけど。でも、貴女は私の親友なのですもの、知っておいてもらいたかったの」
並んで長椅子に腰掛け、セレスタはこちらの手をとって、親しげに打ち明けていた。
セレスタの豪華な居室には、明るい陽が差し込み、活けられた大輪の白い花々から、かすかに甘い香りがしていた。
そんな自分たちを、小卓をはさんだ向かいの肘掛け椅子から、ヘンリックが見つめていた。足を組み、肘掛けに片腕を預けて、彼はどこか見比べるようにして、こちらを眺め、かすかな笑みを口元に浮かべていた。
それは自分の花嫁を見つめる男の目なの。それとも、あなたは私を見ているの。
レスリンは複雑な気分で彼の視線を身に受け、それを気にしないそぶりを続けた。
夜警隊(メレドン)の制服に身を包んでいるヘンリックは、その紺色に微かな文様の染めぬかれた短衣(チュニック)を纏うと、いつか見た彼の質素さとは縁遠い晴れがましさで、急な出世を満喫しているようにも見えた。
夜警隊(メレドン)は族長の親衛隊で、準貴族だった。奴隷身分の地位ではない。男が剣一本でのし上がれる、ひとつの頂点だった。
バドネイル卿は彼を剣闘士の奴隷身分から解放し、平民としての身分と、夜警隊(メレドン)の制服を与えたが、それだけでは飽きたらず、族長と政治をして、一代限りのものとはいえ、彼に貴族位を与えるよう求めたそうだ。
その話はバルハイの夜会を駆けめぐっていた。
噂に眉を顰める者と、妙な納得をする者とがいた。
とにかく今や、ヘンリックの名を知らないものは、バルハイの社交界にはいなかった。
大貴族の総領であるバドネイルを発狂させた男として、彼は知られていた。
バドネイルは、どこへ行くにも護衛と称して、夜会はもちろん、昼間に通う政治の場にまでも、ヘンリックを連れ歩いた。
そして機会があれば、ひっきりなしに、ヘンリックとの手合わせ(デュエル)を人にすすめるので、恐れられていた。相手が貴族でも、誰でも、ヘンリックが手加減をしないことが、すでに常識として知られているせいだ。
彼はさすがに首を切ってもいい相手を選びはしているようだが、対戦相手が守っている、男としての名誉を叩き潰すことについては、罪がないと思っているらしい。
彼は今も、後見人(パトローネ)の望むまま、最強の剣を誇示することを、躊躇いはしないのだった。
「だけど、セレスタ、それはあまりにも、夢のような話じゃないかしら」
供されたお茶を磁気の入れ物から飲みながら、レスリンは友を諌めようとしていた。あまりの話に、磁気の器は手の中で震え、花の形をした受け皿と打ち合った。
「族長への挑戦(ヴィーララー)だなんて」
内心の震えを押し込め、レスリンは向かいで薄笑いしている男を見やった。
「彼が強いのは、よく分かるけれど、でも、族長への挑戦(ヴィーララー)だなんて。正気と思えないわ。あれは大昔に廃れた習わしでしょう。もう伝説のような過去の時代の話なのよ、セレスタ」
なんとか友を説得しなければと、レスリンは思った。
しかしセレスタは少し困ったような顔で微笑しているばかりだった。
「ええ、そうね、レスリン。でもお父様は本気なの。彼なら、族長を破って、族長冠を奪えると信じていらっしゃるの。元々そのつもりで、彼をうちに引き取ったんだとおっしゃっていたわ。彼を使って、族長を倒させて、それからアシュレイを族長にするおつもりだったのよ」
レスリンは座ったまま椅子から飛び上がるような気分だった。
男どもの野心というのは、いったいどこまで、馬鹿なことを考えるものなのか。
政権の転覆をもくろんで刺客として買い入れた剣奴隷が、肝心の娘婿を殺して、その後釜に座ったとは。そしてそれを、手もなく喜んでいる大貴族と、その愚かな娘がいるとは。
それは本当の話なのと、レスリンは口をあんぐり開けたまま、ヘンリックを見つめた。彼はそれに答えるように、にやりと一瞬笑った。セレスタの話が、可笑しくてたまらないという気配で。
「彼が何人と戦うことになるのか、貴女は知っているの、セレスタ」
おっとりと平気そうでいる友に、レスリンは思わず強い口調になっていた。セレスタは答えず、ぽかんとして見えた。レスリンは焦れて言葉を継いだ。
「族長が挑戦(ヴィーララー)を受け入れたとして、対戦する前には、夜警隊(メレドン)の手練れとの対戦を、まず勝ち抜かないといけないのよ。あなただって、部族の黎明の物語はよく習って知っているのでしょう」
セレスタは素直に頷いて答えた。知っているのだった。
「何人だったかしら、ヘンリック。私は数字はだめで、何度聞いても忘れてしまうの」
「六十八人です、セレスタ様。現時点では」
自分の首を撫でながら、ヘンリックはまるで、さしたることではないように答えてやっている。
「それは多いのかしら、あなたにとって」
尋ねるセレスタの口調が、あたかも今はじめて訊くようだったので、レスリンは震えた。
「多いです、とても。実際の戦闘は、一対一での連戦で、日数をかけて順次行うらしいですが、それでも向こうは多勢で、俺は段々疲れますので、大変な戦いになりそうです」
ヘンリックは穏やかに、セレスタに説明してやっていた。
なにが大変な戦いよと、レスリンは思った。それは死闘じゃないの。
どんなに強い者でも、次から次へと休む間もなく強敵と対戦させられたら、どこかでつまずく。挑戦者を始末するために用意された関門だということは、明らかなのに。それにあえて挑もうというの。
あなたは、馬鹿なの。
それとも、バドネイル卿が求めれば、奴隷であるあなたは、それを拒めないからなの。
まさか本当に、族長冠が欲しいわけじゃないんでしょう。
底辺からのし上がってきて、夜警隊(メレドン)の制服を着て、貴族の娘を抱くだけでは、まだ足りないというの。
「勝てるのよね、ヘンリック」
初めて不安になったように、セレスタは身を乗り出し、ヘンリックに尋ねた。
ヘンリックは、彼女に小さく頷いてやっている。
「大丈夫です。セレスタ様が心配されるような事ではないです。婚礼衣装のことでも悩んでいてください」
そう許されて、セレスタは本当に嬉しそうに頬を染めた。
彼女はちょうど、何着あるやら知れない婚礼衣装の仮縫いをしている真っ最中だからだった。
レスリンは今日、神殿での宣誓式のときに、どんな衣装を身にまとえばよいかの相談相手として、セレスタに呼ばれたのだ。
花嫁がどんな衣装で着飾っていてほしいか、ヘンリックに尋ねたが、彼は分からないと言うのだと、セレスタはぼやいていた。
「そうだったわ、レスリンに相談しなくちゃ。私は昔から、華やかな服が好きでしょう、レスリン。だから花嫁衣装も、そういうものにしたいって、子供の頃から思っていたけど、ヘンリックは飾り気のないのが好きなのよ」
まじめに問いかけてくるセレスタにとって、挑戦(ヴィーララー)に続く死闘の話題は、もう過去のものらしかった。
レスリンは、すぐには友に返事をしてやれなかった。
「俺の好みは気にせず、自分の好きなものを着たらどうですか。貴女の婚礼なんですから」
優しいのか、興味がないだけか、どちらにも聞こえる言いようで、ヘンリックがセレスタに言った。セレスタをそれを、彼の優しさと受け取っているらしかった。
「私は、あなたの好みの女でいたいのよ」
にっこりと微笑むセレスタは、確かにヘンリックが好みそうな、簡素な普段着を身につけていた。飾り気のない薄紅色の平服は、セレスタの顔色によく映えたが、レスリンには、彼女はもっと、本人の好むような華やかなひだ飾りのある服を着たほうが、可愛らしいのではないかと思えた。たとえそれが、ヘンリックと並んだときに奇妙に派手に見えたとしてもだ。
ふとした沈黙をついて、居室の扉が叩かれ、セレスタの侍女が現れた。衣装係が仮縫いをしたいので、差し支えなければ来てほしいと、侍女は丁重に女主人を促した。
セレスタはすぐ立ち上がったが、去りがたいのか、もじもじしながらヘンリックを見つめた。
「お父様にご相談したの。そうしたら、宣誓式の衣装は、簡素なのと華やかなのと、両方縫わせてみて、着てみてから考えればいいっておっしゃったのよ」
そう説明するセレスタの話は、要するに、一着あれば足りる服を、二着作らせているという意味だった。一度しか着る機会はないのに、全くの無駄だ。
ヘンリックは少し、驚いた顔をして、頷いていた。
「それは旦那様らしい名案ですね。では宣誓式も二回やったらどうですか」
ヘンリックが本気か冗談か分からない口調だったので、セレスタははにかんで笑った。
「それは、あなたらしい名案ね、ヘンリック。考えてみようかしら」
「どっちの服にするか決心がつかなかったら、そうしてください。俺は二回でも百回でも、つきあいますから」
その茶番に。とは彼は言わなかったが、レスリンにはそう聞こえた。
しかしセレスタは別の意味に受け取ったようだった。
自分が求めさえすれば、彼が、たとえ百回でも、天使の前で永遠の愛を誓うつもりなのだと。
おかしなものだった。だまされている女というのは。
セレスタはそれで安心したように、婚礼の支度のために部屋を出て行った。
その気配が遠ざかるのを待ちながら、レスリンは器に残されていたお茶を飲み干した。喉が渇いていた。
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