第5話

 まさに踊るがごとくの足捌きだった。

 手のひらについた血を、片方ずつ短衣の裾に擦りつけて拭いながら、ヘンリックは軽々と剣を持ち替え、構えて立つ二人の男のいるほうへと、ゆっくり歩を進めた。

 どちらの手で握るか、決めかねているような仕草で、ヘンリックは自らの手から手へ、使いなれた風な剣を投げ渡し、弄んでいる。そうする間も、彼の目は、じっと獲物を見つめていた。それもどこか、どちらを食うかと目移りする視線でだった。

 結局右手で、ヘンリックは柄を握った。彼は意を決したようだった。

 中段に構えた剣の切っ先は、どちらでもない、二人の男に向けられた。

「まとめて行くか、どうせなら。待たせちゃ可哀想だから」

 淫靡にそう言うヘンリックの提案に、男はどちらも答えなかった。真剣そのものの顔つきで、構えた切っ先ごしに間合いを計っている風な二人の敵を、ヘンリックは首をかしげ、軽くしかめた顔を作って見返している。まるで、無粋をとがめるように。

 その膠着しかけた間合いを、唐突に打ち破り、ヘンリックが最初の一手を打ち込んだ。剣を握って舞う彼の足取りは、やはり踊るように軽やかだった。

 男たちは戦うことを、いつも秘密めかせて、中央広間(コランドル)で踊ると言うが、それは本来その場で行われる男女の舞踏に、剣と剣との戯れあうのを重ね合わせての言い方だった。

 しかし、これまでレスリンには、戦う男たちが踊っているように見えたことは一度もなかった。貴族の男らは、いかにも優雅なふうに、一手打ち込む合間にも、気さくに喋ってみせたりと、それは戦いというよりは、ただの剣を握った社交の一部だったのだ。

 ヘンリックは一言も、口をきくような気配はなかった。次から次へと、二人を互角に相手にして、ついばむような巧みな一撃を繰り返し、相手の剣にそれを受けさせ、少しずつ彼らを後退させていた。

 ヘンリックの剣捌きは華麗でいて、どこか相手をからかうような、意地の悪い太刀筋だった。初(うぶ)な小娘をあしらうように、彼は剣を振るい、二人の男に公平にそれを迎撃させた。その打ち込みの素早さは、彼らに一切の反撃をゆるさない。

 乱れたような攻撃に、一定の波打つような拍があった。弱く強く、寄せては返す波のように、ヘンリックは時には踏み込み、時には相手に踏み込ませた。

 その波はしだいに、広間を包み込んだ。

 自分の身にも、その波濤が押し寄せ、胸を震わす興奮が湧くのを、レスリンは感じた。それは酒精や麻薬(アスラ)に似た酔いだったが、もっと深いところから、レスリンを酔わせた。

 おそらくは、この戦いを見ている誰もが、同じ酔いを感じている。それを証すように、凪いだように静まり返り、息を呑む広間からは、かすかに甘い汗の匂いが立ち上ってきた。それは部族の男たちが、アルマによって流す、独特の汗の匂いだ。

 ヘンリックが不意に、攻撃の手を止めた。

 彼は急激に静止して、くるりと敵に背を向けた。

 振り返った男が、自分のほうを見たのを、レスリンは確かに感じた。

 戦いの高揚を底に沈めた青い目が、一瞬じっと、自分のうえを嘗めていった。

 隙を見せられ、二人の男は迎撃の構えのまま、ぎくりと動きを止めた。唯一やってきた、反撃の機会だった。

 右にいたほうの男が、わずかに早く、攻撃に転じた。剣を振りかぶり、彼らはヘンリックに襲いかかった。

 その気配を察したのか、ヘンリックはそれに背を向けたまま、鮮やかな微笑を閃かせた。

 斬られると、レスリンは怖気だって彼を見つめた。

 しかしヘンリックの体は、斬られるより一瞬早く、目にも止まらぬような回旋を見せた。その手に握った剣に、身を翻す勢いと、全体重を乗せた一撃が、二人の男を同時に見舞った。

 一刀のもとに、胸を一閃されて、二人の男は血飛沫を散らせた。

 先に攻撃に出た者のほうが、半歩の優勢を裏目に受け、深い傷を負った。

 男たちは床に倒れ、ヘンリックが振り抜いた剣の切っ先から散った血飛沫は、レスリンの席まで飛来した。自分の頬を打つ生暖かい滴に、レスリンは震えた。

 いくらか浅手で逃れた左の男は、よろめく足で体制を立て直し、ヘンリックから後ずさって、間合いを確保しようとした。目に見えて呼吸の荒い男の背が、こちらに近寄ってくるのを、レスリンは呆然と見つめた。

 それを追うヘンリックは、ゆっくりと着実に相手を追いつめる、獰猛な足取りだった。まるで彼が自分を殺しに来るかのようで、レスリンはその姿に我が身の奥底が痺れるようになるのを感じた。

 追いつめられた男からは、滝のように血が滴っていた。それは衣服を赤く濡らし、足を伝って床を塗らした。前屈みに身を折って、辛うじて剣を構える男の死が、もう間近にあることは、レスリンにもわかった。

 血を失って。あるいはヘンリックによって、その首を失って、男は死ぬ。

 私が見ている、この目の前で。

 戦慄く震えの中で恐怖しながら、レスリンはそれから目を離せなかった。

 切っ先の届く間合いで、ヘンリックは立ち止まり、目を眇(すが)めて、敵の顔色をうかがっているようだった。彼のその目は、問いかけるようだった。お前はもう、これで終わりかと。

 うなずくように、男は項垂れ、両手で剣を握りなおした。

 彼は最後の一撃に、渾身の力をこめた。そのように見えた。

 怪我をした者の振るう一打とは思えないような強撃を、男はわずかの跳躍とともに、ヘンリックに浴びせた。

 まともに受ければ、それは深手を与える一撃と思えた。

 しかしヘンリックは、かすかに身を捩るようにして、それを避けた。振り下ろされる切っ先は、ヘンリックの短衣(チュニック)を、軽く引っ掻いたようだった。

 それさえ予定のうちという風に、身をかわしたヘンリックは男を見つめ、薄笑いしてみせた。どことなく、優しさのこもる笑みだった。

 それで力の尽きたらしい男は、頽(くずお)れようとしていた。

 ヘンリックが剣を構えた。

 それが留(とど)めの一撃であることを、見守る誰もが理解していた。

 ヘンリックは剣を振るった。風音を立てて刃が空を裂き、ただの一刀であっけなく男の首が飛んだ。

 声にならない高揚が、広間から湧き上がった。

 飛ばされた生首が、自分に向かって飛んでくるのを、レスリンは恍惚と恐怖して見守った。それは殴りつけるような衝撃とともに、もがくレスリンの夜会服の膝へと、まっしぐらに弧を描いて飛び込んできた。

 思わぬ絶叫が自分の喉からほとばしり、レスリンはその恐ろしいものから逃れようと、長椅子の上でもがいた。男の首は、腰を抜かしたレスリンの脚の間に落ち込み、華麗だった夜会服を、見る間に血の色に染め変えていった。

 じたばたと足掻くうちに、いつのまにかレスリンのすぐ目の前に、血まみれの剣を提げたヘンリックが立っていた。

 彼は近づき、腕をのばして、恐慌するレスリンの裳裾から、男の首を取り上げた。その髪を掴んで首を提げたまま、ヘンリックはじっと間近にレスリンの目をのぞきこんだ。

 震えながら見目返して、レスリンは彼が小声でなにか囁くのを、朦朧とする頭で聞いた。

 後で、と、淡く笑ったような彼の唇は言った。

 後で、外へ、と。

 それきり身を起こし、ヘンリックはまるで塵(ごみ)でも投げ捨てるように、白い

中央広間(コランドル)の床に、生首を放った。もとの持ち主であった死骸のそばに、首は転がっていき、そこを懐かしむように見える仕草で、もう死んでいる肉体の肩口に、青ざめた頬をすり寄せた。

 ヘンリックは残る一人の元へ、足早に戻っていった。

 胸を斬られて倒れた男は、そのままの場所でうつぶせになって、まだ死にきれずに苦しんでいた。ヘンリックはその傍に佇んだ。男は顔を上げて、ヘンリックを見つめた。彼は男の死の天使だった。

「旦那様」

 ヘンリックがそこで口を利くのが、唐突とも思えた。

 呼びかけられたバドネイル卿は、元の長椅子に横たわっていたが、呆然としているように見えた。

「獲物がまだ生きています」

 なにかを促す口調で、ヘンリックは言った。それを聞くバドネイル卿も、広間のほかの者も、言葉を失ったままで、何も答えはしなかった。

「俺に歓声を」

 バドネイルに話しかけるヘンリックの声は、静かに諭すようだった。

「なんと……」

 掠れた小声で、バドネイルが尋ねた。

「殺せ(ヴェスタ)、と」

 ヘンリックは淡々と答えを与えた。

 それは客が剣闘士を囃すための、伝統的で、ありきたりのかけ声だった。闘技場ではその声が、嵐のような渦となってあたりを満たし、戦いを盛り立てる。いつかレスリンが、闘技場で遠目に眺めた首切り男も、あの時、押し寄せるようなその声の渦に包まれていた。

 教えられて、バドネイル卿はうなずいた。

「殺せ(ヴェスタ)」

 まだどこか掠れた声で、大貴族は命じた。

「それじゃ足りません。もっと大きな声で、ほかの皆様も、俺のアルマが熱く燃えるように」

 眺め渡し、歓声を乞われて、広間の客たちは一時、息を押し殺したように静まりかえったが、やがて誰からともなくその歓声は起きた。

 殺せ(ヴェスタ)と。

 しだいに高まる声の波を背に受けて、ヘンリックは時を待つように、倒れた男に目を戻した。両手で抱くように剣の柄を握って、ヘンリックは死にゆく獲物の目と、静かに見つめ合っていた。

 彼らはなにも言葉を交わさなかったが、声ならぬ声で、語り合うように見えた。

 そろそろいくかと、ヘンリックは尋ねたらしかった。

 俺に敗北するか。

 その目を見上げ、静かな断末魔にいる男は、恐れもせず待っていた。その瞬間がやってくるのを。ヘンリックが剣を振るい、自分の首が断ち落とされ、命が終わる時を。

 誰かが殺せ(ヴェスタ)と叫んだ。

 ヘンリックは長剣を振るった。それが床を打つけたたましい音が聞こえた。

 獲物は首を落とされ、その場で屠られた。

 歓声はあたかも、あふれる血を呑み育つ怪物のように、高揚して荒れ狂った。すでに死んでいる獲物を前に、なおも殺せ(ヴェスタ)と観衆は叫んでいた。

 ヘンリックはしばらく、歓声を浴びて死体を眺めていたが、ややあってから喝采する広間に向き直り、剣を背に隠して、剣闘士が客に見せるような、胸に手を添え深々と腰を折る華麗な一礼をしてみせた。

「見事だ、ヘンリック」

 長椅子から立ち上がって、手を打って喝采しながら、バドネイル卿は褒めた。感極まったような声色だった。広間がそれに倣い、拍手を始めた。

 レスリンはその横の席にいるセレスタが、長椅子にあおむけに倒れ、失神しているのに気づいた。ヘンリックの鞘を抱いたまま、薄青い夜会服の裳裾を波打たせて、令嬢は気を失っている。

「ありがとうございます」

 息も乱れぬ平静さで、ヘンリックは判で捺したような型どおりの答礼を口にした。

 傍目にも異様なほど興奮しているバドネイル卿と向き合って口をきくには、ヘンリックはなにか不思議なほど平静だった。まるで、たったいま死闘をしたのはバドネイル卿で、ヘンリックはただそれを傍観していただけのようだ。

「お前こそ部族の真の戦士だ。最強にして華麗だ」

 言葉を極めて褒めるバドネイルの赤い顔に、ヘンリックはただ薄く笑ってみせた。それはどう見ても作り笑いだった。死にゆく獲物に笑いかけた時の、ほんの半分だって優しくはなかった。

「皆、聞くがいい」

 拳をふりあげ、バドネイル卿は憑かれたような熱い演説を始めた。

「我々はあまりにも異民族の血に冒されすぎた。今こそ古(いにしえ)の狂乱の血を取り戻すべき時だ。私は皆にも奨励する。古い部族の血を、血筋に取り込み、一族を栄誉ある家名にふさわしい本来の姿に立ち返らせるのだ」

 熱弁をふるうバドネイル卿の横を、ヘンリックは静かに歩き過ぎていった。自分の弁舌に酔っている大貴族は、まるでそれに気づかないらしかった。

 ヘンリックは気を失っているセレスタのそばへ行って、うっとりと仰け反っている彼女の顔を、不思議そうに覗き込んだ。

 セレスタは絵の中の裸婦のように、絹の長手袋につつまれた手を、のけぞった自分の額に乗せ、身をよじる姿勢でいた。まるでたった今、誰かに抱かれて、それが良すぎて気絶したみたい、と、レスリンは呆れて友を見た。

 案外そうなのかもしれなかった。膝の震えるような高揚が、今でもまだ、レスリンの体にも残されている。やり場のない高揚を、ヘンリックはその剣によって、広間にいる全員に与えていった。

 広間がバドネイル卿の熱弁に酔う中、ヘンリックが血脂にまみれた自分の剣を、人知れずセレスタの夜会服の長い裾で拭うのを、レスリンだけが見ていた。それはなにか、ひどく酷薄な仕打ちだった。

 女の手から、預けた鞘をとりあげ、ヘンリックは剣をそこに納めようとしていた。

 本当ならセレスタが、ちゃんと目覚めて待っていて、彼に鞘を差し出すべきだった。そのためにヘンリックはセレスタに大切な鞘を預けていったのだから。

 なんて情けない女なの。

 レスリンは内心でそう、幼なじみを罵った。

 私なら。ちゃんと彼に鞘を返すわ。そうして戦いを終えた男を労う。それが部族の女として、当然の務めじゃないの。

 貴女は彼に、ふさわしくない女よ。

 弱くて、わがままで、無邪気すぎるのよ。

 私なら、と、レスリンは願った。

 私なら彼の鞘を預かれる。彼を待つ女(ウエラ)として。

「私は我がひとり娘セレスタに、この最強の血を持った子を産む名誉を与えることにしたのだ。私の孫は、いずれ、狂乱の戦士の血を持って、皆の前に現れるだろう。そういう者こそ、部族の次代を担うにふさわしい。真の戦士なのだ」

 そうだ、と客たちはバドネイルの熱狂を囃した。

 みんな、自分たちが何を言っているか、分かっているのかしらと、レスリンは醒めた目で、広間の男たちを眺めた。

 馬鹿みたい。なにが狂乱の戦士よ。薬を使わないと、アルマに酔えもしない、虚勢馬みたいな連中のくせに。

 崇める目で、レスリンは広間を出て行こうとしている、血まみれのヘンリックを見つめた。すると彼も、じっと見送るように、レスリンを見つめ返していた。

 小さく首を傾げるようにして、ヘンリックはレスリンを促した。外へ、と。

 ああそうだったわと、レスリンは狂喜した。私は彼と、約束があったんだった。

 果てしなく熱弁の続く広間を、レスリンは血に酔って気分を悪くしたふりをして、よろめきながら退出した。そんな演技をしなくても、レスリンの脚は本当によろめいた。血に染まった夜会服の裳裾は重く、べったりとレスリンの脚にからみついたからだ。

 扉をくぐると、ヘンリックはそこで待っていた。

 彼に跪きたい気持ちを抑え、レスリンはその傍に、控えめに向き合って立った。

「どうでしたか、俺は」

 答えをもう知っている顔で、ヘンリックが尋ねてきた。

「素晴らしかったわ」

 そう答える自分の息が熱いのに、レスリンは恥じらった。

「セレスタ様が眠ってしまったので」

 血の滑る指で、ヘンリックはレスリンの手をとった。自分が夜会用の長手袋をしているのが、ひどい間違いだったとレスリンは後悔した。こんなものを着けていなければ、彼の指が私の肌に触れるのを、感じられたはずなのに。

「貴女が俺の相手をしてくれませんか。女の肌を感じて、血を鎮めたいので」

 誘うヘンリックに、レスリンは考える間もおかず頷いていた。

「なぜ訊くの。私はあなたの女(ウエラ)なんでしょう」

「そうでしたね」

 やっと笑った顔になって、ヘンリックは言った。レスリンはそれに、込み上げた嬉しさを隠せず、満面の笑みで応えた。

 レスリンの手を引いて、女の身にはほとんど走るような早足で、ヘンリックは貴族の屋敷の廊下を行った。

 夜会の間から、やや離れたところで角を曲がり、そこにあった花を飾るための壁の窪みに、ヘンリックはレスリンの体を押し込んだ。

 彼が躊躇いもなく夜会服の裾をめくり、自分の脚を露わにするのを恥じて、レスリンは仰け反って目を閉じた。

 こんなところでするの、とレスリンは尋ねた。誰かが来たら、どうするの。

 夜会の間に響く、熱狂した男たちの声が、まだかすかに耳につくような近さなのに。

「もし誰か来たら、悲鳴をあげてください」

 笑いながらそう言って、ヘンリックはレスリンを抱いた。

 彼が自分の脚を抱え、腿を割ってくるのを、レスリンは内心の悲鳴とともに受け入れた。それは悲鳴ではなかったかもしれない。男に抱かれるのは初めてではないし、それに倦み始めてさえいたはずが、ヘンリックに押し開かれるレスリンの内奥は、かつてないほど熱く濡れていた。

 まだ何もされてない、ただ戦いを見ただけなのに。

 ああ、私、恥ずかしいわ。

 そう訴えて、思わず首にすがると、剣闘士は笑っていた。さざめくように笑いながら、ヘンリックは気遣いのない激しさで、レスリンを貪った。

 それでも、ただ突かれるだけで、レスリンには快感があった。

 すぐに感極まってきて、レスリンは喘ぎ、声を押し殺した。

 夜会の間から、誰かが出てくる気配がしたからだった。

 やめないで、とレスリンはヘンリックの耳に囁いた。

 やめないで、私、見られても平気だから。あなたが私のものだって、皆に教えてやりたいくらいよ。

 通路をやってきた一団を、待ちかまえるように、レスリンは行為の熱にうかされた目で見つめた。

 失神したセレスタを、部屋で介抱するため、運んでいく侍女たちの群れだった。

 曲がり角の向こう側を、あわてふためいて通り過ぎていく女たちは、ほんのわずかも、こちらを見なかった。

 見ればいいのにと、レスリンは思った。

 ぐったりと運ばれていくセレスタの姿を見ると、レスリンはもう我慢ができなかった。

 声を上げかけるレスリンの口を、ヘンリックが手で塞いだ。その指からは鼻をつく鉄くさい血の臭いがした。

 そのままヘンリックはレスリンに留めを与え、さしたる間も置かずに彼も後を追ってきた。その瞬間だけ、ヘンリックは無防備に見えた。激しく自分にすがる男の、どこか苦悶したような顔を、レスリンは両腕で抱きしめた。

 そうすると男は、自分のもののように思えた。

 私たち、これ以上はないくらい、お似合いなんじゃない。

 そう感じられて、レスリンは嬉しかった。

 やがてため息をつき、ヘンリックはじっと、抱え上げたレスリンの顔を見つめてきた。その表情からは、先ほど広間で戦っていた、狂乱するアルマの男は消えていた。

「俺は風呂にいきますけど、貴女は戻ったほうがいいですよ」

 男の言葉は、ひどくあっさりとしていた。

 レスリンは目を瞬いて、まだ抱き合っている相手の顔を見た。

「私を置いていくの」

「夜会はまだ続いていますから。貴女は貴族で、旦那様の客でしょう。話を聞かなくて、無礼と思わないんですか」

 彼の言うことは、至極もっともだったが、それだけに、受け入れがたい狡さがあった。

「そうね……」

 上ずった声で、レスリンは応えた。

 ヘンリックは執着のない引き際で、レスリンの中から出ていった。

 彼は自分の着衣は直したが、乱したレスリンの裳裾のことには、少しも頓着しなかった。

 やむなくそれを自分で整え、それからレスリンは息を整えようとした。長い夜会服に隠された内腿で、べったりと冷えた血が滑り、体の芯はまだ、熱いままだった。

「セレスタと、私と、どっちが良かったかしら」

 顔を見ていられなくなって、レスリンはうつむき、男の爪先に問いかけた。

 ヘンリックの足は、立ち去ろうとしていた。

「貴女です」

 いかにもそれが当然というように、あっさり彼は答えた。

 その言葉には希望があった。

 顔を上げて、レスリンは自分に向けられているはずの、ヘンリックの視線を探した。

 しかし男は曲がり角の向こうにある通路の、ガラス窓の外を見ていた。

 バルハイの聖堂が打つ、鐘の音が聞こえてきていた。それは時報で、まだまだ夜は序の口だと人々に教えていた。

 だがレスリンの耳には、それは別のことを言っている。

 今夜の、私の時間はもう終わり。

「あなたはセレスタと、本当に結婚する気なの」

「旦那様はどうも本気のようです」

 他人事のように、ヘンリックは答えた。

「それで平気なの。ほかに……ほかに女(ウエラ)がいるのに」

 レスリンが問いかけると、ヘンリックは確かに、それは困ったことだという顔をして、血飛沫の乾き始めた顔を拭う仕草をした。

「俺に選ぶ権利があるでしょうか、レスリン様。旦那様は俺の主で、金を払った正当な所有者(パトローネ)です」

「あなたを種馬にしようというのよ」

 そう教え、レスリンは自分の言葉に耐えきれず顔を覆った。

 ヘンリックにも耐え難いだろうと思った。たとえそれが事実でも、彼にひどいことを言った。

 しかし、それに答えるヘンリックの声は、淡々としていた。

「剣闘士よりましですよ。どうせ似たようなもんです。中に出していいか、いちいち訊かなくていいだけましでしょう」

 極めて、あっさりと言うヘンリックの口調には、悪びれたところも、悔やむふうもなかった。彼にはそれは、日常茶飯事のようだった。

 やっとレスリンに向き直り、ヘンリックは言った。

「お嬢様、俺はもう行きます、さようなら。どうか楽しい夜を、お過ごしください」

 かすかに一礼してみせて、それきり振り返りもせずに、剣闘士は去った。

 レスリンは、誰もいない廊下に、ゆっくりと座り込んだ。

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