第3話

 セレスタ・バドネイルはレスリンが想像していたよりも、ずっと豪華な夜会服で現れた。

 淡い青の、薄く透けるような絹を幾重にも重ねた衣装は、いかにも繊細で、彼女の娘らしい華奢な美しさを引き立てて、嫌みのない華麗さを生み出していた。

 しかしその、大きく開いた襟元からは、いつもの彼女らしくない、見せつけるような淫靡さが漂い出ていた。渦巻くような真珠に飾られ、これまで意識したことのなかったセレスタの乳房の豊満が、広間の対岸から見つめるレスリンの目についた。

 セレスタは広間の一角にすえられた、一段豪華な長椅子のあるところに、彼女の父親と並んで横たわっていた。飲み物を置いた小卓ごしに、セレスタは立派ななりをしたバドネイル卿と、手を握り合ってお喋りしている。

 なにを話しているのか、娘は頬を染めて、早口に父親と語り合っていた。セレスタは、どうもなにかをねだっており、それを父が受け入れたように見えた。

 バドネイル卿は、強烈な権力により湾岸から支配権を切り取っていくやり手の大貴族だったが、娘の前では甘い父親だった。一人娘のセレスタがねだれば、彼が娘に与えないものは、何もないのではないかとレスリンには思えた。

 セレスタは衣装も宝石も靴も、いったいいつ身につける暇があるのかと不思議なほど沢山持っていたし、自分のための荘園や、内海を遊覧するための帆船までも、数隻与えられていた。自分ではろくに乗れもしない名馬や、それに乗ってポロをさせるための従僕も、見栄えのいいのを数十人、入れ替わり立ち替わり与えられている。

 その挙げ句が、あれなのだから。

 レスリンはじっと、羨望のまなざしで、セレスタの脇の長椅子に腰を下ろしているヘンリックを見つめた。

 彼はどこか、バドネイル親子に背を向けるようにして、本来は寝そべるための革張りの長椅子のはしに、退屈げに腰をかけていた。着替えてくるものと思っていたら、先程、海猫と戯れていた時と同じ、簡素な服装のままだった。

 腰には剣を帯びており、夜会に集まった貴族たちを眺め渡すような視線をして、ヘンリックは杯から酒を飲んでいた。

 気泡の入った硝子(がらす)の杯は、どことなく無骨さもある品物だが、バドネイル邸ではなじみのある一品だ。この家の者が代々支配する荘園のひとつで作られる特産品で、部族に昔から伝わる伝統のある物とのことだった。

 今ではそれが普通となった、透明に透ける薄い硝子と違って、気泡硝子には少々の厚みがあった。その縁に酸味の強い果実を擦りつけ、そこに塩をまぶしたものに、喉が焼けるような味のする酒を満たし、ヘンリックはそれを舐めるように飲んでいた。

 彼が時折、酒杯のふちからこぼれ落ちた塩を、指のうえから舐めるのを、レスリンはじっと逃さず食い入る目で眺めた。

 父親との話がついたのか、セレスタがヘンリックを呼んだようだった。

 それまで退屈そうにしていたヘンリックは、彼の女主人が腕をとって話しかけてきたのに、レスリンの知らない顔で微笑み返している。

 その鋭い顔立ちに、満面の甘い微笑みを見せるヘンリックは、まるで優しい男のように見えた。それはきっと、ぴりっと胡椒をきかせ、砂糖と果実をたっぷり入れた、甘い葡萄酒みたいなもので、無害そうな味にだまされがぶがぶ飲むと、いつしか深く酩酊し、足腰立たなくなるようなものだった。

 傍目に見ると、それがはっきりわかるのに、セレスタは気にせず飲んでいるらしかった。

 嬉しそうにヘンリックの腕をとるセレスタの顔には、なんの悩みも、一片の躊躇いすらもないようだ。

 たぶん彼女には本当に、怖いものなどないのだろう。絶大な権勢を誇る父親に愛されていて、セレスタにはこの世で手に入れられないものはない。愛する男が貴族でないなら、彼のための貴族らしい名前を父親に強請ることが出来るし、バドネイル卿にとっては、その望みをかなえるのは造作もないことだ。

 しかし問題は彼が、どこの馬の骨ともしれない剣闘士に、本気でひとり娘をくれてやるのかという事のほうだ。セレスタと結婚した男は、バドネイル家の跡取りになるのだから。

 まさかバドネイル卿ともあろう者が、この大所領を、卑しい剣闘士ふぜいにくれてやるおつもりか。

 皆そう思うはず。それが常識というもので、レスリンだけの考えではないはず。

 セレスタがヘンリックと結婚できるわけは、ないはず。

 そうだと言ってほしくて、レスリンは夜会の広間を見渡してみた。

 着飾って集まった人々は、思い思いの場所で談笑にふけっていた。用意された酒食の美味を楽しむ者たちもいたし、出し惜しみしないバドネイル卿が振る舞う、貿易船によってもたらされた、隣大陸(ル・ヴァ)産の強力な麻薬(アスラ)に、早くも酔っている者たちもいた。

 湾岸にはもうアルマの潮が押し寄せているはずだが、貴族の中には混血のため、それに酔えない者も多くいた。そういう者たちは麻薬(アスラ)を使った。あたかも狂乱しているように見せかけるためだ。

 血の中にある毒に酔うのも、麻薬(アスラ)に酔うのも、結果としては同じ事。要は酩酊したようになって、戦いを求める血に火を焚き付け、剣を握って向き合い、中央広間(コランドル)での優劣を決めればいいのだ。それがアルマの真相であって、大して複雑なことではない。

 夜会の男たちは、いつもそんなふうに話していた。

 挑戦(ヴィーララー)なんてものは、卑しい者のやることですよ。太古の昔ならいざ知らず。男が序列を決めるのに、血を流す必要はないのです。貴族らしく優雅な典礼にしたがって、手合わせ(デュエル)をすれば十分です。ひとかどの剣士というのは、なにも実際に剣を抜かずとも、ただその瞳を見るだけで、相手の技量を推し量れるもの。真の手練れにとってみれば、実際に戦う必要さえないのです。

 女の貴女には分かるまいが。

 そんなふうな話を男がするのを、レスリンはいつか枕辺で聞いたことがある。

 そんな素敵なことがあるのねと、感激していたものだった。

 しかしそれが本当に、正しかったのだろうか。狂乱する部族の男として、真に高潔な姿だったか。

 今、私は、あの男が狂乱して、戦うのを見たい。いつか闘技場で遠くから見たような、血で血を洗う戦いをするのを見たい。

 そう思って、ひたすら見つめたからだろうか。ヘンリックはふとした瞬間に、レスリンのほうを見た。彼はもう長椅子に寝そべり、セレスタと顔を向き合わせていた。セレスタは広間の侍従が差しだした銀色の大皿から、黒い殻を持つ赤い身をした貝をひとつ、取り上げようとしていた。

 それを待つ隙に、ヘンリックはこちらを見たのだった。

 ちらりとほんの一瞬。じっとこちらを見た目に、自分との秘密があるのを、レスリンは確かめた。その一瞥によって、お前は俺のものだと、彼は言っているような気がした。

 セレスタが呼ぶと、ヘンリックは彼女のほうへ向き直った。貝を差し出す娘の手から、ヘンリックは笑い、赤い血のような肉を食った。噛むと弾ける貝の身に、まぶされていた薬味がこぼれかけ、ヘンリックはそれを受けようと手で口を覆った。

 そんな彼の仕草を、バドネイル親子は、いかにも嬉しげに見ている。セレスタはもちろん、バドネイル卿もだった。

 がっしりとした体格に、厚い胸板をした壮年の大貴族は、金糸で飾った大仰な夜会服を身につけており、やはり金無垢の拵えのある剣を、愛するもののように脇に抱いている。その顔立ちは、彼がセレスタの源であることを納得させるような、どことなく穏やかなものだった。しっかりと力強い眉間には強い意志が宿っていたが、それらはどこか角のないまろやかさがあり、やはり彼も混血の挙げ句に生まれた狂乱しない男だった。

 ヘンリックはそんな大貴族を、へつらうでもない、くつろいだ目で見つめている。

 ふたりは、事情を知らずに眺めれば、すでに家族のように見えた。息子が父と語り合うように、ヘンリックはバドネイルに話し、それに応える大貴族の家長は、ひどく満足げだ。

 そして、そんな剣奴隷と父を見つめるセレスタは、この上なく幸福そうに見えた。

 どうしてなの。

 どうしてそんなふうに、あの人たちと話すの、ヘンリック。

 あなたは私のものなんでしょう。

 レスリンは上の空で持った酒杯を揺らし、それを口元にもっていった。

 バドネイル卿が、セレスタの手を軽く撫でるように叩き、そして立ち上がった。

 広間にいた客たちは皆、この夜会でもっとも重要な人物が話し始めるのに、話す口を休めて注目した。

「諸君」

 胸のあたりで、片手を宙に浮かせ、バドネイル卿はなにかを探るような仕草とともに皆に呼びかけた。

「我が娘の婚約者であったアシュレイが、この広間で死んだことは、皆の記憶にもまだ新しいだろう」

 その話に、レスリンは軽い驚きを覚えた。

 夜会の席で死んだという話は噂で聞いていたが、まさかこの場でとは、思っていなかった。

 レスリンは改めて、広間の中央に目を向けた。

 そこは艶やかな白大理石で床が敷かれ、長椅子や料理を乗せた卓が置かれている周りの床とは違い、いっさいの装飾がなかった。真っ白な紙を敷いたような、なにもない空白の場所だ。

 レスリンは、そこで死んでいる、かつてはセレスタの自慢だった男のことを、想像してみたが、彼がどんなふうに死ぬのか、見当もつかなかった。レスリンが知っている剣士の死は、闘技場で何度か遠目に眺めたことのある、現実離れして凄惨なものだけだったからだ。

 それは特殊で、体が痺れるような刺激を持った経験で、闘技場の中でだけ起きる悪い夢のようなものであり、現実にいる者の身の上にふりかかる出来事とは、レスリンには思えなかった。

「アシュレイは立派な剣士であった。しかし、より強い者に敗れたのだ。敗北ではあるが、部族の剣士として、ひとつの本懐と言える最期であった。正々堂々と力を尽くし戦い、そして敗れたのだから」

 彼を倒したのは、いったい誰だったのかしら。

 レスリンは、広間でバドネイル卿の話を聞いている男たちの顔を見渡した。彼らはどことなく、切羽詰まった表情をしていた。レスリンが最後に目を向けたヘンリックだけが、いかにも退屈そうに、バドネイル卿の背を見つめていた。

「古式にのっとり、我が娘セレスタは、アシュレイを倒した男の戦利品である。ヘンリック」

 振り返ったバドネイル卿と、ヘンリックはまっすぐに目を合わせていた。その彼の手を、セレスタが握り、ヘンリックが握り返したようだった。

「娘はお前のものだ」

 誤解しようもなく、明らかなことを、バドネイル卿は皆に宣言していた。

 レスリンは自分の握る酒杯がどうしようもなく震えているのを眺めた。

 アシュレイを殺したのは、ヘンリックだったのだ。ではまさか、彼はアシュレイの首を、この場で切り落としたの。セレスタはそんな男と結婚するつもりなの。

「私は、この者を、我が娘の婿とすることを決めた。それに不服の者は名乗り出よ。我こそはと、娘セレスタを勝ち得たいと望む者がいれば、ヘンリックは喜んでその挑戦(ヴィーララー)を受けるであろう」

 真顔の上目遣いで、ヘンリックは他の男たちを見渡していた。

 その剣闘士を両手で指し示すバドネイル卿は、なにかに酔っているように見えた。酒か、麻薬(アスラ)か、あるいはもっと強いものに。

「しかしまずは、お前の力を皆に見せよ、ヘンリック」

 命じるバドネイル卿に、ヘンリックは表情を変えなかったが、ため息をついたように見えた。

 彼はセレスタの手を返して、ゆっくりと長椅子から立ち上がった。

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