第2話

 セレスタは夜会が開かれる大広間を抜けて、まだ明るい夕景の広がるテラスへと、小走りにレスリンを引っ張っていた。

 夕凪はまだ続いていた。

 むっとするような熱気が、テラスから広間に押し寄せてきている。

 バドネイル邸はバルハイの内海を望む高台にあり、テラスからは海が見渡せた。色鮮やかな夕日へと移り変わっていく途中の青空は、美しい景色だった。薄黒い雲がところどころ夕日に赤く輝いており、その灰色と、赤と、暗い青の混然とした空模様には、なにか異様なものがあった。

 海猫が鳴いていた。寝床に帰る途中にたまたま行きすぎるにしては、随分多くの鳥が、白に灰色のまじった翼をはためかせて、飛び交っている。

 それを認めて、セレスタが満面の笑みを浮かべた。

 彼女はレスリンの手を引くのを忘れたように、指をふりほどいて、テラスを抜け、その先にある石段を下りていった。

 一体どうしたのかと思いながら、レスリンはその後を遅れて追った。

 石段を下りた先は、ちょっとした部屋ほどの広さの崖だった。

 その中程に、セレスタは立ちどまっていた。

 海猫の飛び交う中に、男がひとり立っているのを、レスリンは見つけた。

 男が長い腕を掲げると、海猫が舞い降りてきて、その手からなにかを奪っていった。争うように、海猫たちはやってくる。みゃあみゃあと鳥はうるさく鳴いていた。その声に、耳を聾されて気付かないでいる男の後ろ姿を、セレスタはじっと、食い入るように見つめていた。

 レスリンもそうだった。少し離れたところから見下ろしても、ひどく姿のいい男だった。

 すらりと痩せた肢体は、均整がとれていた。しかし彼は彫像のようではなかった。近寄りがたい何かが、その後ろ姿から滲み出ている。

 それなのに、今すぐ近寄っていって、その背に触れてみたい衝動にかられ、レスリンの背は粟立った。

 男は平民が着るような、白い質素なシャツに、暗い青の短衣(チュニック)を重ね、黒い簡素な袴(ずぼん)をはいていた。どうと言うこともない格好だった。腰に剣を提げている。まるで従僕のようだわと、レスリンは思った。しかしその背を見て立つセレスタの、白いモスリンをまとった簡素な姿は、その男と並んで立つのに、ぴったりだった。

 レスリンは思わず渋面になった。

 そして、幼馴染みを追って、石段を下りた。

「セレスタ」

 レスリンは呼びかけた。

 その声に気付いて、男はゆっくりとこちらを振り返った。

 部族の者なら当たり前の青い目で、男はセレスタでなく、こちらを見つめた。彫りが深く、するどく鼻梁の通った、どこか尖った印象のある顔立ちだった。とても古い、狂乱する戦士の血を感じさせるような。美しい、というには、どことなく凶暴そうな顔だった。

 薄い唇を歪めて、男はその端正な顔に、微かに笑みを浮かべた。セレスタのほうを向いて。

「ヘンリック」

 感極まったような小声で、セレスタが呼んだ。

 答える代わりに、男は問いかけるように首をかしげて見せた。その仕草に、レスリンは胸を締め付けられた。

 まさかこの男が、セレスタの新しい相手だなんて、そんなはずはない。そうでないといい。もしもそうだったら、どうしようかと、レスリンは思って、握りしめた夜会服の裾を、さらに強く握った。

 セレスタは足取りも軽く、彼の前に進み出た。

「セレスタお嬢さん」

 低く響く声で、彼は言った。海猫の声がうるさく、彼の声を掻き消していた。

 その声がもっとよく聞き取れるように、レスリンはセレスタを追って、彼女のすぐ後ろへと足を進めた。

「この方は?」

 レスリンを見つめて、男が訊ねた。ヘンリック。どこかで聞いた名前だと、レスリンは思ったが、じっとこちらを見ている男の目と見交わしていると、それが誰だか、思い出せない気がした。

「私のお友達よ。レスリンというの。あなたに会わせたくて、連れてきたの」

「光栄です」

 男はほとんど動かなかったが、一礼したように見えた。レスリンはとっさに、裳裾を持ち上げて腰を折る、正式なお辞儀でそれに答えていた。考えてみれば、それは妙なことだった。相手はどう見ても貴族ではなかったし、身分のある自分が、そこまでの礼儀をもって挨拶をする相手ではなかった。

「綺麗な人ですね」

 ヘンリックはセレスタにそう言った。すると友人は、まあと叫んで顔を赤らめた。

「レスリンが好きなの?」

 妬いているふうなセレスタに、レスリンはぎょっとした。男はどこか意地悪く笑い、首をかしげて、セレスタの顔をのぞき込んだ。

「いいえ」

 はっきりとそう、男は答えた。

 自分の胸に、なにか暗いものが湧くのを、レスリンは感じた。

「レスリンにはちゃんと、婚約者がいますから。好きになっても駄目よ」

 つんとして見せて、セレスタは彼に忠告をした。レスリンはうつむいて、視界から逃れた。

 婚約者は確かにいた。父が政治的な都合で婚約を取り交わしてきた、レスリンよりずっと年上の貴族だ。すでに死に別れた妻がいて、レスリンは二番目の妻だった。

 部族の男なら、妻の死には殉じるものではないかと、レスリンは思っていた。愛する女(ウエラ)の死に、男は耐えられないのではなかったのか。

 しかし後添いを求める年上の男は、そんな気配もなかった。もともとの海辺の部族の血に、その狂乱を鎮めるためといって、貴族たちは長年、少しずつ穏やかな異民族の血を混ぜ込んでいた。自分もそうだが、ある一定以上の位にある貴族たちは、たいていが皆、その混血によって、穏やかな性格と、定期的にやってくるアルマの影響も、さほど受けないようになってきている。

 もしや自分たちはすでに、この海辺の部族とは別々の血に分かれているのではないか。レスリンにはそんな気がした。目の前にいる、この男の姿を見ていると、夜会の席で出会う男たちは、まるで戦士とは言えない。そんな気がする。

「レスリン、私、彼と結婚するの」

 セレスタが両手を差し伸べると、男は片手だけで彼女の手をとった。もう片方の手には、なにかを握っているようだった。

 ぽかんとして、レスリンは手を繋ぐ二人を見つめた。

「結婚?」

 理解できない話だった。男はどう見ても貴族ではないようだったし、セレスタには不釣り合いだった。彼女の身分にはとても、釣り合わない。

「冗談よね」

 おめでとうと、言うべきなのに。レスリンの口を突いて出たのは、全く違う言葉だった。

「いやだ、本当よ、レスリン。私、ヘンリックを愛してるの。お父様が彼を、夜警隊(メレドン)に士官させて、それから貴族にするって約束してくださったわ。そうしたら私と結婚できるから」

 夜警隊(メレドン)は剣の技に優れた男たちを取り立てて組織される、族長のための親衛隊だった。そこには貴族でも平民でも、腕があれば入ることができた。

 しかし、その大半は平民で占められていると聞いている。貧しく生まれついた者たちが出世するには、都合のいい場だからだ。

 その中から族長によって、貴族の位を与えられる者もいるらしい。でも、それは、一番低い位の貴族で、世襲もされないような、その場しのぎのご褒美だ。

 それでも確かに、貴族どうしであれば、結婚が許されるかもしれなかった。

 レスリンは、幸せそうに男の手を握っているセレスタを見つめた。

 でも、あなたには相応しい相手とは言えないわ。だって、あなたは湾岸の大貴族のひとり娘で、どんな男もよりどりみどり。これ以上はない家柄の、立派な貴族の若者を、いくらでも好き放題に選んで、結婚できるじゃないの。

 それなのになぜ、こんな男を選ぶことにしたの。

 うっすらと湧いてきた憎しみを感じならが、レスリンは友達の顔を見た。その幼く見える綺麗な顔が、恍惚とした表情を浮かべているのを。

「夜会には出ないのですか、セレスタお嬢さん」

 男が不意に、話を変えたようだった。

 セレスタは、はっと我に返ったように、自分の着ているものを見た。

「そうだわ、私ったら。着替えるのを、忘れていたわ」

「今夜は俺が中央広間(コランドル)で踊ります」

 それを聞いて、セレスタは泣くような顔で笑った。

 レスリンは彼が言うのが、ダンスのことかと初めは思った。セレスタと踊るのかと。

「大丈夫かしら。ヘンリック。私、とても心配なの、いつも。あなたが死んだり、怪我をするんじゃないかと」

「まさか」

 笑って、男は答えた。

「あれは遊びです、セレスタお嬢さん。貴女のお父さんは、俺を勝たせるような相手だけを選んでいるんです。心配いりません」

 男が言っているのが、ダンスではなく、広間で行われる剣闘試合のことだと、レスリンは気付いた。この男は、ただの従僕ではないのだわ。剣を使う。そのためにいるらしい。

「そうね……」

 セレスタは握った男の手を見つめ、それから彼の顔を見上げた。

「あなたはとても強いんだもの」

 彼女の言葉に、男はなにも応えず、ただ薄く笑って見せた。

 名残惜しげに、セレスタは彼の手を離し、やっとレスリンを見た。

「私、着替えに戻らなくてはいけないわ。まだ髪も結っていないし、きっと時間がかかると思うの」

 レスリンは頷いた。セレスタが夜会に出るつもりだというほうが意外だった。

 彼女はそういう席をあまり好まなかったし、自邸で開かれる豪勢な夜会にも、欠席することが度々あった。

 もうすぐ夜会だというのに、寝間着のような姿だったので、レスリンは今日も、セレスタは出ないのだと思いこんでいた。

「どうしましょう、レスリン。退屈でしょうけど、私の部屋で待っていてくれる?」

 セレスタは一緒に戻るつもりのようだった。

 レスリンは彼女についていくため、夜会服の長い裾を切り返そうとした。

「ここで俺が話しています」

 男がさも当然のように、そう言った。

 レスリンは振り返って、彼を見た。男は微かに、こちらに微笑みかけていた。

「でも……ずいぶん時間がかかると思うわ」

 セレスタは渋った。

 レスリンは彼女に付いていくべきだと思った。

 ここで待っていれば、夜会はどうせこの同じ場で始まるだろうが、この男とふたりきりで、ここにいるべきでない。

 そんなことをしたら。

「かまいません」

 男が静かに断言するのを、レスリンは聞いていた。

 微笑む男の顔と、レスリンは見つめ合った。

「そうですよね?」

 男が問いかけてくるのに、レスリンは唇を開いた。

 彼の背後には、今もまだ、海猫が戯れていた。みゃあみゃあと甘ったるい声で、鳴き交わしている。

 男はなにかを手の中に持っていた。もしかすると、鳥にやる餌だったのではないか。彼はここで、海猫に餌をやっていたのだろう。

「いいかしら……レスリン」

 ついてきてほしいという声色で、セレスタが訊ねてきた。

 レスリンは、身分のある幼馴染みのほうへ、また向き直った。

「かまわないわ、私。ここで貴女を待つことにするわ」

 レスリンは答えた。それを口にすると、ほっとした。セレスタは困ったように、こちらを見ていた。

「そう。じゃあ、なるべく急いで戻るわ。ごめんなさいね、レスリン」

 足早に、セレスタはほとんど小走りに、この場を去っていった。

 大急ぎで着替えをさせる彼女の姿が、すでに目に浮かぶようだった。

 おっとりと鷹揚だった彼女が、侍女たちを叱りつけてせかし、豪華な夜会服と、きらめく宝石で着飾っていく有様が、ありありと想像できる。

 その間に私はここで、この男と話しているのだわ。

 そう思うと、ひどく気味がいい。

 裳裾を捌いて、レスリンはもう一歩だけ、男に近づいてみた。

「鳥になにをやっていたの」

 顎を上げて、貴族の娘らしく、レスリンは訊ねた。

 男は握っていた手を開いて、持っていたものをレスリンに見せた。それは生の肉だった。

「海猫がこんなものを食べるの?」

「食べます。やつらはなんでも食べます。気をつけないと、貴女も食べます」

 真顔で男はそう答えた。

 レスリンは一瞬、どう思っていいか、分からなくなった。

 すると男は面白そうに、意外と人懐こく笑った。

「餌をやってみますか」

 みゃあみゃあと喚く鳥を、レスリンは見上げてみた。その嘴(くちばし)は鋭いように見え、黄色く輝いている目は、睨み付けてくるようだ。

「怖いわ」

 口に出してみると、それは、甘えるような声だった。

「怖いですか」

 首をかしげて、男は聞き返してきた。笑う青い目が、なにかを促していた。

「でも……あなたが一緒なら、平気かもしれないわ」

「そうですね」

 答えて、男はレスリンの手をとり、そこにまだ血の滲む生の肉を握らせた。それは男の手の体温に温められていて、気味の悪い生ぬくさだった。

 男はレスリンの手を引いて、崖のはしまで連れて行った。打ち寄せる波濤の音が、足元から響いてくる。

 凪が唐突に終わった。

 海風が吹き付けてきて、たっぶりとしたレスリンの夜会服の裳裾を翻した。

 とばされそう。

 レスリンが恐れると、手を取っていない方の腕で、男がレスリンの腰を背後から抱いた。

 その力強い腕に身を預けて、レスリンは肉を持った手を掲げてみた。

 海猫たちは旺盛な食欲を示して、風の中を舞いながら、群れをなしてこちらにやってきた。

 指をつつく嘴(くちばし)が、かすかな痛みを持って感じられる。

「手が痛いわ」

 後ろにいる男に、レスリンは文句を言ってみた。喉を鳴らして笑う声が、すぐ近くで聞こえた。

「我慢しないと」

 そうねと答えて、レスリンは我慢した。

 手を掴んでいた男の腕が、撫でるように滑りおりて、まだ血のついた指で、レスリンの顎に触れた。その指が自分を振り向かせて、男が唇を奪おうとしていた。

 その異様な出来事を、レスリンはなんの疑問もなく受け入れた。

 男の腕は、きつくレスリンの腰を抱いている。その力強さは切なかった。

 すでに体の中まで押しひしぐような強さを持った力なのに、もっと強く抱いてとレスリンは願った。

 貪る肉が尽きて、鳥たちはうるさく、わめき立てている。

 掲げた手から力が抜け、レスリンは向き直らされるまま、男と正面から抱擁した。接吻を与える、男の首筋からは、甘い汗の匂いがした。アルマの到来を告げる、海の部族の男が纏う香りだった。

 湾岸の貴族たちは、薄まった血を補うために、これとよく似た香りの香油を、肌に擦り込んでいる。しかしあれは、偽物。全くの偽物なのだわ。男が漂わせる、ほのかな、しかし強く鼻を襲う甘い匂いを嗅ぐと、レスリンにはそうとしか思えなかった。

 これが本物の男で、ほかは全部偽物だったのよ。

 接吻を終わらせて、男は間近にレスリンの顔を見た。

「貴女は綺麗な人ですね」

 先程も言ったことを、男はまた言った。レスリンは目を細めた。

「セレスタのほうが美人だと思うわ」

「そうかもしれませんね」

 彼が悩まずそう答えたので、レスリンは悔しかった。

「あなたは本当にセレスタと結婚できるつもりなの? だったらとんだお馬鹿さんよね」

「俺は剣奴隷です、レスリン様。貴族の姫君と結婚なんかできません。本当なら手も触れられません」

 自分を抱く腕を見下ろして示し、男はそう言った。

「セレスタ様は、いっときの遊びです。いずれ飽きます。その時は、あなたが俺を買い取ってください」

 男が話すその商談に、レスリンはごくりと留飲した。

 この男が誰だったか、ヘンリックという名をどこで聞いたか、レスリンは思い出した。

 バルハイ中心市街の闘技場でだ。

 箱入りのセレスタは知らないだろうが、闘技場での試合見物は、芝居や買い物に飽きた貴族の娘たちの、ちょっとした冒険だった。絹の椅子のある高覧席から、男たちが殺し合うのを眺めるのだ。強い酒も飲むし、強い麻薬(アスラ)もこっそりと楽しむ。

 もっと財力と勇気のある者がいれば、試合を終えた剣奴隷を買うこともできる。ほんの一時だけだけど、大観衆の前で死闘をした男を、自分のものにすることができる。

 確か、いつぞや出かけた時に、打ち負かした相手の哀れな首を切り落とす剣闘士がいて、ヘンリックという名だった。遠目に見ても、ひどくいい男で、途方もなく強いように見えた。

 あれを買いましょうよと、一緒にいた誰かが言った。みんなであの男を、弄んでやりましょう。

 しかし剣闘士の値段は競りで決まるもので、そこにつけられた値段は、さしたる財力もない小娘たちにとって、ほんの一点鐘でも目が飛び出るような気がした。あれは大貴族の玩具だ。そう納得して、去るほかはなかった。

 あの時いったい誰が、首切り男を買ったのかしら。

「私にはそんな、財力はないと思うわ」

 正直に、レスリンはそう言った。泣きたくなった。

「それは残念。この素敵な首飾りを売り払ってみては。それとも、貴女のお屋敷にあるほかの何かを。それでも無理なら、貴女の大貴族の友人に、泣きついてみては。今、俺を所有している、あの女に」

 セレスタがあなたの持ち主なの? 彼女があなたを、支配しているの?

 小声で問いかける唇に、首切り男はまた口付けをした。

「いいえ」

 薄笑いして、男は答えた。

「俺を支配しているのは、あなたです」

 接吻に濡れた唇を開いたまま、レスリンは呆然とした。本当に、そうだったらいいのに。

 男がうっとりと目を伏せ、レスリンの首筋に頬を擦り寄せた。その抱擁は甘く、脳をとろかすようだった。

 愛のことを、レスリンは考えた。

 今まで自分は誰かひとりでも、男を愛したことがあったかしら。

 夜会の席で繰り広げられる、恋のさや当ては、今までにいくらでもあったわ。

 お互いの身分や序列を気にしながら、あの男はどうかしら、あれは私に近寄るほどの身分もないわ。そんなことを考えながら、扇の影から微笑みかわすような、硝子細工の恋だった。

 だけど、あんなものにどんな価値が。今、この身を抱く男の腕の力強さに比べたら。

 あんなもの、塵(ごみ)だったわ。

 そう思って、レスリンが抱擁を貪ろうとしたとき、不意に男が、体を引き離した。

 そうすると、吹き付ける海風が、ひどく冷たいように感じられ、レスリンは震えながら立った。

「楽しいお喋りでしたか」

 男は訊ねた。

 貴女の持ち時間はここまでだと、男が言っているような気がした。

 あたりは暗くなり始めていた。テラスに篝火が焚かれているようだった。

 みゃあみゃあと鳴きながら、海猫たちが引き上げようとしている。

 男も去ろうとしていた。

「あなたは、セレスタのことを、愛しているの」

 すがりつく思いで、レスリンは訊ねた。

 歩み去ろうとしていた男は、テラスにあがる石段のはじめで、立ち止まって振り返った。

 首をかしげて、男は面白そうにこちらを見ていた。

 彼の唇が答える言葉を、レスリンは祈りながら聞いた。

「いいえ」

 秘密めいた小声で、しかしはっきりと、男は答えた。

「ヘンリック」

 その名を呼ぶと、レスリンの胸は締め付けられるようだった。

「私を愛して」

 風に嬲られる我が身を抱きしめて、レスリンは頼んだ。

 男また、こちらを見て笑った。

「いいですよ。あなたが秘密にするなら」

「秘密にするわ。誰にも話さない。約束する」

 叫ぶように、レスリンは答えた。その声を、海風が掻き消していった。

「それじゃあ今から」

 甘く答える男の声も、風が掻き消していく。

「あなたが俺の女(ウエラ)だ」

 そう言い残して、男は背を見せた。石段を上がっていく後ろ姿を、レスリンはただじっと見上げた。

 あれは私のものよ。

 そう思って見つめると、男の背は甘く、深い愛で応えるような気がした。

 風に揉まれながら、レスリンは呆然と立ちつくしていた。

 上では夜会が、始まろうとしていた。

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