第6話
台所に誰か入ってくる気配がしたので、てっきり師匠が料理に口をはさみにきたものと思いこみ、イルスはうんざりした顔で振りかえった。
「お師匠、食い意地もほどほどにと自分で………」
咎める視線を向けた先に、兄がいたので、イルスはギョッとした。客人が台所に入ってくるとは、思いも寄らなかったのだ。
「兄上もつまみ食いか?」
あきれて問いかけると、兄は面白そうに笑い声をたてた。
「お前の顔を見に来ただけだ」
「驚かすなよ。師匠との揉め事は終わったのか、兄上」
ジンは苦笑を見せた。イルスは首を傾げた。しかし、魚を使ったスープが煮え立っているので、あまり真面目に付き合うことができない。
「海都へ帰りたくはないか、イルス。ここよりずっといいぞ。飯の支度なんかしなくていいし、王族らしい暮らしができる」
「兄上はどうするんだ?」
燃えすぎているカマドの薪を火掻き棒で突きほぐしながら、イルスは尋ねた。
「俺は当分、辺境警備さ。向こうには気心の知れた部下もいる。いい連中だ…」
「軍人暮らしって、いいものか? 兄上も、たくさん敵を斬ったのか?」
真面目に聞いたつもりだったが、兄はなぜか吹き出した。
「そうだな」
笑いながら、ジンはイルスの手から杓子を奪って、鍋の中で煮えている魚をつまみ食いした。
「海都で貴族どもの話し相手をやってるよりは、ずっといいさ。うん、うまい。お前、けっこう料理がうまいな」
イルスはかすかにムッとした。料理を誉められても嬉しくはない。
「俺も、師匠から免許皆伝をもらったら、兄上の軍で働こうかな」
「料理番としてか?」
意地悪く笑った目で、ジンはイルスを見下ろしてきた。
「ちがうよ、兵としてだ、当たり前だろ?」
イルスは兄の手から、杓子を奪い返した。ジンが面白そうに笑い、そのへんにある皿や鍋をいちいち手にとって眺めながら、物珍しそうにしている。
相手にしているのも、馬鹿みたいだ。イルスは肩をすくめて、料理に戻った。海からとってきた魚たちは、みんな晩飯に化けた。あとは、適当に皿に盛って、食卓に運ぶだけだ。師匠もそろそろ匂いを嗅ぎ付けているだろうし、いい頃合のはずだった。
毎年、ジンはこの季節になると庵を訪れてくれる。そのたびに辺境あたりの面白い話を聞かせてくれるのを楽しみにしていたのだが、今は兄にはその気がないようだ。
大方、師匠になにか腹の立つような事でも言われたのだろう。師匠の話はいちいちもっともだが、聞いたその場では腹の立つことのほうが多い。
「イルス…」
壁にもたれて料理の手を見ていたジンが、ぼんやりと呼びかけてきた。
「なんだよ?」
「母上が亡くなった夜のことを、憶えているか?」
兄は真面目な顔をしていた。無理に笑おうとしているのが、イルスには分かった。
「…いいや、ほとんど覚えてないけど………兄上は?」
「俺は、族長が泣いているのを見た」
戦利品を見せびらかすような雰囲気で、兄は言った。イルスは驚いて目を見張った。
「え、ほんとに? 俺も見たかったよ」
「お前もいたんだよ。お前も泣いていた。あの夜はみんな悲しんだんだ。母上が亡くなって」
イルスは、その夜のことを、うっすらとしか憶えていなかった。暑い夜だったことを憶えている。騒ぎ立てる大勢の声と、血に染まった母の夜会服…自分を抱きしめる兄の腕が、がたがた震えていたこと。
「兄上は泣いていなかった」
薄れた記憶の中にある、まだ子供だったころの兄の顔を思い返して、イルスは言った。
「兄上は、あのとき、母上が死んだのは親父殿のせいだと言ったよな。そうじゃなかったか?」
イルスが問いただすと、ジンはやんわりと苦笑した。
「少し違うな。俺は、族長に、"お前が母上を殺したんだ"と言ったんだ」
イルスはかすかに驚いていた。気の優しい兄が、そんなことを言っていたとは。
「親父殿はなんて?」
「そうだ、と言っていた」
なにもない宙を見つめて言い、ジンはふいに視線を落とした。
「イルス、母上の墓に一緒に行きたくないか? おまえ、1度も行ったことないだろう。海都から少し離れた岬に、母上の墓が作ってある。ついでに海都にも寄れるし、しばらく羽根をのばしたらどうだ」
イルスには、兄が、一緒に来て欲しがっているのが感じられた。海都に行ってみたい気はしたが、師匠は駄目だと言っていた。イルスはため息をついた。
「師匠の許しがなければ行けない」
「マードック先生には俺が話をつけてやる」
「無理じゃないのか。師匠は一度駄目だと言ったら、絶対に譲らないから…」
首を振って、イルスは夕食の盛りつけに戻ろうとすると、ジンが突然、イルスの肩を掴んで、向き直らせた。
「お前も、もう、海都のことを知ったほうがいい。いつまでも子供じゃないんだぞ。そうやって、ぼやぼやしてるうちに、あっという間に年を食って、ここで死ぬのか、イルス。それで幸せなのか、お前は……それでも、かまわないっていうのか? お前、なんのためにこの世にいるんだ?」
強い口調で問いただされて、イルスは絶句した。
兄が何かに追いたてられているのが感じられた。でも、それがなんなのかは理解できない。この先どうするかなど、イルスは考えたことがなかった。剣の腕をあげることだけで頭がいっぱいで、それを成し遂げるだけでも、自分の一生には時間が足りないと思っているくらいなのだ。
「兄上の言ってる意味が、俺にはわからない」
「お前は、この辺りの海で暮らす連中とは立場が違う。ここにいても分からないだろうが、お前には沢山の敵がいるんだ。何事もなく生きていくことは、できないんだぞ、イルス。覚悟を決めろ。額冠(ティアラ)をつけて生きている限り、俺達が成し遂げないといけないことは決まっている」
イルスの額を飾っている金属の輪に触れて、ジンは顔を曇らせた。
イルスは兄を見上げたまま、額冠(ティアラ)を外した。額に落ちかかる前髪をかきあげると、兄の視線が自分の額の中央に向けられるのが感じられた。
「兄上、俺が額冠(ティアラ)を着けているのは、そのほうが気が楽だからだ」
「イルス…」
兄の指が額にある竜(ドラグーン)の涙に触れようとするのがわかった。イルスはひょいと後ずさって、それをかわした。
「触らないでくれ。直接触ると、そいつの死を未来視するみたいなんだ。俺も自分の死(ヴィーダ)を見た。兄上はそんなものは知らないほうがいい」
「…お前の死?」
ジンの顔がゆっくりと引きつる。
「誰の未来を見るかは、俺には選べないんだ。身近にいるやつの未来を、片っ端から見ちまうんだよ。だから俺は、あんまり人のいないところで暮らすほうがいいって、師匠が言っていた。そのほうが長く生きるだろうって」
「…長く? お前は……いつ死ぬんだ…なにを見たんだ?」
「自分が戦場で死ぬのを。まだ先の話だよ。いくらなんでも、兄上ぐらいの年までは生きられるんじゃないかな。でも、そんなに長い人生じゃない。いつかきっと、本当にそんな日が来るんだと思う。俺の未来視は外れたことがないから」
イルスはなにか済まない気持ちで兄の顔を見つめた。
「師匠は、ひとは未来を知ってはならないと言うんだ。知らなければ、運命なんてものは存在しないんだってさ。だから、未来視しても、それを誰にも教えるなって…」
師匠マードック自身も、未来視の力を持っている。それを知る者が、自分の未来を求めて庵にやってきても、師匠は滅多に未来を教えたりしない。その者の未来が明るくても、暗くても、師匠は何も教えてやらないのだ。たとえ、その者が明日に死ぬ定めであっても、それを告げ知らせることがない。
「でも、俺は何とかしたいと思うんだ、いつも…いつもそう思うけど…………兄上、俺は母上の運命を変えられなかった…ごめん、兄上……俺がもっとうまく話せば、母上はあの夜、夜会に行かなかったかもしれないのに。母上を殺したのは親父殿じゃなくて、俺なのかもしれない」
ジンは物言いたげにイルスを見つめてから、目を閉じてうな垂れた。そして、そのままイルスの頭を掴んだ。イルスは、ジンの手が竜(ドラグーン)の涙に触れるのではと気が気でなかった。しかし、兄はそんなことは気にならない様子で、ぐしゃぐしゃとイルスの髪をかき回し、それに飽きると、無造作にどんと突き放した。
「お前は、生意気だ」
ため息とともに言い、ジンは細めた目でイルスを見つめている。
「なんとかできると思っていたのか? 昔から、自分一人でなんとかしようとするのが、お前の悪い癖だ。ちっとも変わってないんだな。餓鬼の頃も、宮殿の遣り水に落としたものを拾おうとして海まで流されたり、族長の忘れ物を届けようとして勝手に抜け出した挙句、道に迷って3日も帰らなかったこともあったんだぞ。憶えてるか? みんなどんなに心配してたか…」
「憶えてない。…いや、排水溝に流されたのは憶えてるような気がする」
「馬鹿! その性格、マードック先生に叩きなおしてもらえ」
イルスの手から額冠(ティアラ)を奪って、ジンはそれを乱暴に頭に填めさせた。イルスはとっさに台所から出ていこうとする兄の背中をつかまえた。
「兄上、せっかく来たんなら料理を運ぶのを手伝っていけよ!」
振り向いたジンの顔は、大いに呆れていた。
「この庵じゃあ、客をこき使うのか? どういう礼儀だ…まったく!」
怒りながら、ジンは腕まくりをしはじめた。
「いいじゃないか、どうせ兄上も食いに行くんだろ?」
「わかった、わかった」
イルスから皿を受け取って、ジンはしぶしぶと頷いた。
「あ、そうだ、兄上、いい馬に乗ってるな。戸口にとめてあった、鞍に花をつけてる馬、あれは兄上のだろ?」
機嫌よく、イルスは問いかけた。ジンがしばし不思議そうな顔をする。
「ああ、花ってあれか。いつもつけてる訳じゃないぞ。通りすがりに何度も飛んできたんで、面白いから持ってきただけだ」
「珍しい花だよな」
「隣大陸の花だ。お前は、こんな田舎に引きこもってるから知らないだけだ」
ジンはぽつりと言い置いてから、皿を運んでいった。
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