第5話
「なぜですか」
イルスが出ていった扉を見つめたまま、ジン・クラビスは苦々しい様子で同じ質問を繰り返した。
あきらめてため息をつき、ジンが仕方なく椅子に腰をおろすと、腕組したままの剣豪マードックは、かすかに笑っている目でこちらの顔を見つめている。困ったやつだと言いたげなその視線を浴びるのは、なかなか居心地のわるいものだった。
「イルスがここにいるのは、族長の意向なので仕方ありませんが、先生の小間使いのために置いているわけではありません」
「毎年のことながら、あいもかわらず憤慨なさっておいでだ」
マードックは喉の奥で低い笑い声をたてている。ジンはあきれて首を振った。
「当たり前だ。弟はれっきとした王族です。こんなところで魚を採ったり、カマドの世話をして生きるような身分ではない。先生はイルスをこの田舎の漁師にでも仕立てるおつもりなのか」
「あれが望めば、それもまた、良い人生…」
「馬鹿な!」
ジンはテーブルを叩いて立ちあがりかけていた。すぐに反省して、非礼を詫びると、マードックはにやりと笑った。
座りなおして、ジンは唇を湿らせた。こじんまりとした居間には、これといった調度品もなく、いたって簡素だった。それなりに掃除が行き届いているせいか、住み心地は良さそうだが、海都の王宮にくらべると、どうしても、みすぼらしく思える。
「マードック先生、わたしが海都へ戻れるのも、母の墓参をゆるされている、この短い期間だけです。イルスにはそれもない。あんまりだとは思われませんか。わたしは、このまま辺境の国境線を護るのもいい、それには不満はありません。ですが、イルスへの処遇はあんまりです」
「あれには別の事情がありましょう」
組んでいた腕をゆるりと解いて、マードックはうっすらと皺の寄り始めた額の中央を、こつこつと叩いて見せた。
ジンは思わずムッとした。イルスの額にある「竜(ドラグーン)の涙」のことを言っているのだろう。人格者として知られるこの剣豪も、これでは、たかが知れている。
「そんなものは迷信だ。イルスが側にいて、不幸に見舞われた者が何人いるというんですか」
「殿下の母上は、いかがか」
マードックが自分を試そうとしているのだと、ジンは悟った。すると余計に不愉快だった。
「母上は謀殺されたのです、イルスとは関りの無いことだ」
「イルスはそれを未来視した。不吉な死の予言を吐く者にいい顔をする者がいようか」
マードックは淡い青の目を細め、ジンの顔をよく見極めようとしているようだった。日焼けした浅黒い顔は、どこにでもいる初老の男のものだが、笑っている目の奥に、油断のならない光が潜んでいる。
「族長はイルスの予言を無視した、だから母は死んだのです。イルスの言葉を聞き入れていれば、母は死なずにすんだ。命を削って未来を見るのがイルスの運命だというなら、それを無駄にしないのが、せめてもの報いというものでしょう。未来を知ることには罪がない、母を見殺しにした者のほうに咎があってしかるべきだ」
憤慨を押しこめながら、ジンは言った。
「ヘンリックはイルスが未来視したことを知らなかった。あれが予言を知ったのは、ヘレンが息耐えた後の事」
意外な話だった。ジンは言葉を失って、マードックの顔を見つめた。
「…殿下は18ですな」
マードックは、別の誰かを重ね見るような目で、ジンの顔を見返してくる。
「あなたは、ご自分の父上のことを、何一つとしてご存知ないようだ。ヘンリックも、殿下と同じ年のころ、そこに座っていた」
「…族長が?」
「そのころはまだ族長ではない。分別のない、気の短い、ただの若造だ」
マードックは含み笑いした。剣豪の顔に、過ぎ去った日を懐かしむような気配が浮かんだ。
「あれは自分の持つ剣技を持て余していました。誰彼かまわず食ってかかるほかに能の無いような若輩者…私はそのヘンリックが額冠(ティアラ)を掴むのを未来視した。だからそれを教えてやったのです。殿下が座っておられるのと同じ、まさにその席で、族長になどなれるわけがないとヘンリックは弱音を吐いておりました。私がそれを教えなければ、あの男は今ごろどこの何者であったろうか……? 今も都はバルハイにあり、貴族達の栄華は変わらず続いておったでしょう。それを大貴族たちに知られれば、このマードックも、仇を持つ身になりましょうなあ」
ジンは海都での父の権勢を思った。平民からのし上がってきた、軍人あがりの男。成り上がり者と陰口をきく大貴族達。民を困苦から救う英雄と父を称える者たち。母を見殺しにし、自分たち兄弟を中央から追放した男。知っているのは、それだけだ。父が笑っている顔を、見たことがない。
ジンの顔を覗きこんで、マードックはにやあっと笑った。
「イルスが何を未来視したのか、殿下は本当にご存知かな」
「母上の死ではないのですか」
吐き捨てるように尋ねると、マードックは腕を組みなおして、じっとまっすぐにジンの目を見つめてきた。おそろしく剣の腕の立つという、この老い始めた剣豪に見据えられると、言いようのない怖気が腹の底から湧いてくる。
「イルスが視たのは、毒杯だ」
「…毒杯?」
「イルスは、それをヘレンに話した。夜会の杯には毒が入っている、今宵、それを飲んで誰かが死ぬ、だから夜会に行ってはならぬ、と」
「母上に…?」
「ジン・クラビス殿下、予知者が運命を決めるのではない。未来を知った者が、どう振舞うかが、運命を作るだけなのだ」
マードックはいったん言葉を置いて、ジンの顔色を楽しむ様子を見せた。
いま、マードックが打ち明けようとしていることの先行きが、ジンにはもう、読めていた。ただ、それを知りたくない思いで、剣豪の言葉を促せなかった。
「ヘレンは、その毒杯を、ヘンリックが飲むものと思ったのだろう。だから、その運命を変えたのだ」
マードックははるか昔、神話の中のことでも話すように語る。
「イルスがヘレンにではなく、ヘンリックに話していれば、また別の運命もあったろうか。そう思われますかな、殿下。母上は生きながらえたと?」
ジンは答えを持たなかった。イルスが見たという毒杯の未来視が、もともと誰の死を予言したものであったのか。マードックが言うように、母が族長の死を、身代わりに呑み込んだのか、それとも、もともとあれは、母の死を謀っての策略であったのか。
それは誰にもわからない。イルスはそれを、知っていたのだろうか? 知っていて、母にだけ話したのか。なぜそんな事を。誰か別のものに話していれば、違った結果もあったかもしれないのに。
「ヘンリックも、あなたが思ったのと同じように考えないはずがあろうか、殿下」
ジンが答えあぐねて体を引くのを、マードックは面白そうに見守っている。
「そのような苦悩を幼子に与えるのは哀れ、と思われませぬか。未来を見る者の身の振りようは、凡夫のそれとはまた格段に違っております。政略に関るには、イルスは目が見えすぎ、また、分別が足りないのです。関らぬでもいいものに首を突っ込み、自分の首ごと切り落とされる、あれはそういう性(さが)の子供です」
きわめて穏やかに言い終えて、マードックは息をついた。そして、心持ち顔をあげて、部屋に漂う匂いをかぐ。
「晩飯の匂いがしますな。弟子はなかなか料理の修行も怠らぬ様子で、海都の宮廷には及ばぬでしょうが、今夜は殿下の舌を楽しませるものを作るでしょう」
「マードック先生…」
ジンは暗い気持ちで呼びかけた。
「わたしは、弟に日の目をみせてやりたいのです。それだけです。母の死のことで、族長がイルスを恨んでいるのかと…それは、惨い仕打ちだと思っただけです」
「心配なさることはない。弟君のことも……殿下ご自身のことも。ヘンリックはあなたがたを見捨てたのではない」
居たたまれなくなって、ジンは席を立った。マードックは、それを引きとめなかった。
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