第4話
庵の居間には、砂岩の床を覆うための古びた絨毯が敷かれ、その上に質素なテーブルと戸棚が一つ二つあるほかは、これと言って何もない。どれもこれも地味で目立ったところのない部屋の中で、師匠と向き合って座っている客人のまとう、鮮やかな青い絹の軍服は異様なものに見えた。
「イルス、元気そうだ」
椅子から立ちあがって、客人は微笑んだ。日に焼けて、もともとよりも浅黒くなった肌のいろに、明るい青の瞳がよく映えていた。屈託なく笑う目の奥に、人を引きこむ力がある。延びすぎた褐色の髪を、無造作に後ろで一つに束ね、まとっている軍服は略装だったが、堂々した気風には、身分のある者ならではの、物怖じの無さが感じられた。
「ああ…ええと、元気です」
公用語で話しかけられたので、イルスはとっさに、慣れない言葉で応えねばならなかった。それを見て、軍服の客人は、にやっと笑った。
「公用語が喋れないと、海都に帰った時に困るぞ。湾岸の貴族連中は、みんなお高くて、わざわざ神殿の言葉で喋るからな」
今度は、聞きなれた母国語が流れ出た。客人のいたずらっぽい青い目は、親しげに微笑んでいる。イルスはやっと、満面の笑みを浮かべることができた。
「兄上!」
「1年見ないうちに、ずいぶん背が伸びたな。でも相変わらずお前はチビだ」
イルスを髪をぐしゃぐしゃと掻きまわし、身長を確かめると、客人は声をあげて笑った。
「魚採りはかなり上達したらしい」
魚篭(びく)の中をのぞいて、客人は誉める口調になった。イルスは苦笑した。
「上達したのは、それだけじゃない」
「それなりに、剣も使うか」
微笑んでいる割に、いやに真面目な口調で言い、客人はイルスの顔をじっと見下ろした。
「マードック先生」
客人はイルスの頭から手をどけて、テーブルの向かいにいる師匠に顔を向けた。
着古しの質素な短衣(チュニック)姿で、師匠は、わずかに老いの気配のある浅黒い顔に、意味ありげな苦笑をうっすらと浮かべていた。腕組みしているのは師匠のいつもの癖だ。イルスは師匠のいつになく困ったような素振りを不思議に思った。
「イルスを海都に同行させたいのですが、お許しいただけますね」
挑むような口調で、客人は師匠マードックを問いただした。イルスはぽかんとして兄の顔を見上げた。
「ジン・クラビス殿下、何度も申しましたように、わたしの弟子はまだ修行中の身」
師匠が恭しく兄の名を呼ぶのを聞き、その宮廷風の言葉の響きに、イルスは一人だけ取り残されたような不安を覚えた。
「永遠にここへ戻らないわけではありません。母上の墓参のためと…イルスも、もう14です。海都の面々に挨拶もなしでは通らないでしょう。それが済めばお返しします」
兄は穏やかな口調で説得している。だが、その声の奥には、強い意思があるのが、ありありと感じられた。師匠が、深いため息をつく。
「イルス、お前は奥にいろ。客人にふるまう食事の支度をしておけ」
イルスは仕方なく頷いて、居間を出ようとした。ここで話を聞いていたかったが、師匠の言い付けでは仕方ない。
「里に兵をやって、身の回りのお世話をする女たちを寄越すように頼みましょう。港に到着した折に、里の長に話をつけてあります」
師匠の言葉をやんわりと遮って、兄はイルスの背を引きとめるような口ぶりで言った。
「…ご厚情には感謝いたしますが、余計なことです、殿下」
師匠がやはり穏やかに応える。
「なぜです。こんな庵で、女手もなく、ご不自由でしょう」
兄が微笑んでいるのを、イルスは扉に手をかけたまま、自分の肩越しに眺めた。師匠が、「行け」というように、手で押しやる仕草をする。
「兄上、また後で」
なぜか兄に済まないような気がして、イルスは意味のない言葉をかけた。それに苦笑で応えたジン・クラビスは、なにも言わずにイルスを見送っていた。
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