喧嘩(一)
朝支度の時間。
時子は、いつもよりも早起きしていた。昨夜の父と母の喧嘩が、とても気になっていたからだった。初めて聞く、二人の荒ぶる声のぶつかりに、地震より衝撃を受けていた。そして、布団の中で、小さく丸まりながら、耳を塞いでいた。子供心に、聞いてはいけない事の様な気がしたのだ。そのうち、うとうとして、今に至っている。
そもそも、こんな事がなければ、自分から進んで起きたりはしない。どちらかといえば、母が呼びに来るまで布団から出られない性格であった。時子は、それを治そうとはしなかったし、父も母も咎めて諭そうとはしなかった。そういう家風であった。
雀の鳴き声を耳にしながら、時子は小さな布団から出る。
冬の芯の冷たさを、そっと、肩から着た。
「はぁ・・・」
白い溜息と共に、時子の胸の内も外へ出ている様であった。
昨晩、枕元に準備しておいた洋服に着替えると、トイレへ行き、手を洗う流れで顔を洗い、居間へと歩いて行った。
「お母さん、おはよう」
美奈代が居るであろう台所へ、トクントクンした胸から声を出した。
「あら、今日は早いのね。変な物が降らなければ良いんだけど」
美奈代が小言半分、嬉しさ半分で声を掛ける。美奈代は、台所で朝食の準備中であった為、時子は顔を見れていない。先に起きていた時次は、居間のテレビを付けた状態で、新聞を読んでいた。座卓の上には、飲みかけの湯呑みが置かれている。朝のいつもの風景であった。
「お父さん、おはよう」
時子は、恐る恐るだが、努めていつもの様に挨拶をした。ガサガサと新聞を畳む音がする。
「おう、おはよう。今日は早いなぁ。母さんが言ったみたいに、変なの降るんじゃないか」
時次は、少し揶揄う笑顔を見せた。時子は心外だという想いよりも、いたって普通な朝である事に少し戸惑っていた。昨夜の喧嘩が、時子の夢であったかの様に、時間が進んで行くからだった。美奈代が、朝食の御菜を数品運んできた。時子は、いつもより母の顔をまじまじと観察する。別段、変わり無い様子だった。(おかしいわ、昨日の夜のアレはなんだったのかしら。)時子は、眉がピクッと動くのを感じて慌ててテレビに注目した。朝のニュース番組の芸能コーナーが始まった所であった。好きなアイドルの熱愛報道が流れている。
「このアイドル、好きだったろう。残念だったなぁ」
時次は、今度は悪戯心のこもったリズムだった。
「うん、そうだね。ちょっと、残念」
時子は、安心しながら答える。先程の眉の動きの意味を、悟られてはないからだった。
時子の別名「マユピ」は、心が落ち着かない時の癖であった。時次も美奈代も、それは承知していた。一瞬、ヒヤヒヤしたが、(ナイス、テレビ。)と時子は思った。美奈代が、ご飯とお味噌汁を運んできた。今日は南瓜の味噌汁。時子の好物である。
「いただきます」
挨拶と、ある程度の礼儀には、時次と美奈代は煩かった。(起きれない事に関しては良いのに、おかしいな。)と時子は、毎回怒られる度に思っていた事はあったが、習慣にする事で褒められる事もあると分かっていた。お盆の時期の親戚一同と会する時は、一つ違いの従姉妹と比べて、大人達が色々言っているのを良く聞いていたからだった。大人は、お酒を飲むと声が大きくなる。そして、変にもなるのだ。(横に、大きな鏡でも置いておこうかしら。)と時子は度々思った。自らの姿を見ながら、きちんとお酒飲めば良いからだ。酒好きの人にとっては、たまに、耳の痛い話である。
「お母さん、おかわり」
お椀を美奈代に伸ばす。今の時子に取って、昨日の夜の事よりも、目の前の好きな食べ物である。それに、朝から食べられる好物はなかなか無い。目の前のお椀を、美奈代も笑顔で受け取る。
「南瓜、多めが良いかしら?」
「うん、たっぷりと」
美奈代はサッと台所へ向かう。お玉で、底の方から南瓜をたっぷり掬う。スープはそこそこしか入らないが、時子にとっては、それで良いのだった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
時子は、お椀を受け取ると、また箸を進める。時次は、今日は早めに出社するつもりだった。少し急いで御飯を掻き込むと、荷物をチェックしてから、ゆっくりお茶を飲んだ。お弁当待ちである。
「お父さん、今日は早いの?」
「あぁ、大口の仕事が入ってな。帰りも遅くなりそうなんだ。今日は、準備みたいな物かな」
「しばらくは、忙しいの?」
「まぁ、そうだな。夜は、ゆっくり話せないかもしれないな。なんだ?寂しいのか?」
「うーん・・・、別に大丈夫」
「はい、はい。そうですかぁ、そうですかぁ」
時次は揶揄う様な声に、寂しさを織り交ぜながら答える。(これが、一般的に言われる娘の変化か。)時次は軽くだが、そう思った。確かに、一年前までは、時子は素直に「寂しい」と言っていた。それが、いつの頃からか、お風呂を美奈代とだけ入る事にしたし、無視とまではまだ無いが、仕事から帰ってきてもテレビに夢中だったりして、時次は寂しい想いをする事が増えた。これからもっとあるかと想うと、中間管理職と同じでフツフツと胃が痛い事になる。父親の悲しい立場であった。
「はい、お弁当」
ピンクの花の包みを、美奈代は時次へ渡した。時次は弁当をカバンに入れると、「行ってくる」と玄関へ向かって行った。
「いってらっしゃい」
時子が言うと、時次はニッと笑った。その後を追い、美奈代が見送る為に玄関まで行く。時子は、南瓜の味噌汁を食べながら、見えなくなるまで、そのやり取りを観察した。(普通、普通じゃないけど普通・・?)時子は分からなくなりそうだった。それでも、考え無いという事にはならない。(何なんだろう、分からない。)頭を抱えながら、南瓜を口へと運ぶ。さながら、南瓜を燃料に動く蒸気機関であった。
鐘が一つ鳴ると、時計が7時半を書いている。時子の友人達が迎えにやってくる時間である。この年齢の子供が居れば、ある程度同じ生活のリズムになる。もう直ぐ、四年生に成る時子の家も例外では無かった。
「ナンちゃーん」
玄関からの甲高い元気な声が、家の中を流れて、時子の耳へ入る。食べ終わった食器を、台所の水を張ったプラスチックの洗い桶へ沈めた。ブクッブクッと、音がなる。時子は洗面台へ行くと、歯磨きを始めた。丁度3分を測れる砂時計を、ひっくり返すのは忘れない。今度は、シャカシャカと、音がする。友人が声を掛けても、時子がのんびりなのは、母と友人の優未と明子の仲が良いからだった。玄関でのお喋りが三人の日課である。
「優未ちゃん、明子ちゃん、おはよう」
「おはようございます」
声の重なりが、二人の仲の良さを表している。きちんと会釈も出来ているので、親御さんがしっかりされているのだと、美奈代はいつも感心すると同時に、身の引き締まる想いだった。
「あら、優未ちゃん、今日の髪型可愛いわね」
「はい、お母さんにして貰いました。私も気に入ってます」
優未は、照れながら下を向いて答える。少し内向的な所はあるが、芯はある子で意見は必ず言う。目が大きくて、頬の赤みが可愛い女の子である。
「明子ちゃん、新しいスカートね。似合っているわよ」
「この間の日曜日に、お買い物に行って買って貰ったんです」
明子は、スカートをヒラッとさせながら一回転してみせた。いつも元気で、堂々としているのが、彼女の強みだった。凛とした睫毛が特徴的で、ボブヘアとぷっくりした唇が、将来の小悪魔候補と言える女の子だった。
「そうなんだね、二人とも今日もバッチリよ。あっ、そうだった。ちょっと待ってて」
美奈代は、自分達の寝室へ小走りで行くと、可愛い巾着袋を二つ手に取った。優未と明子の待つ玄関へと戻ると、二人に一つづつ渡した。美奈代の趣味の一つに手芸がある。家事の空き時間に作っていくのが、美奈代のストレス解消法の一つであった。
「ありがとうございます」
「可愛い」
美奈代は微笑んだ。特に優未は、同じ趣味でもある為か、ひっくり返したりして細かな所を見ては「凄い、凄い」と呟いていた。
「気に入って貰えて嬉しいわ。ちゃんと三人お揃いにしたからね。優未ちゃん、今度教えてあげるわ」
「本当ですか。楽しみにしてます」
優未は自分用のお裁縫箱を持っていた。キットを買って、それで小さなぬいぐるみ等を作っては、美奈代の様に配っていたのだった。喜んで貰える事を、嬉しく思えるからか、上手になる事に余念が無いのだ。
横の明子は合わせられそうな服を考えていた。ファッションに興味があるといえば簡単だが、たまに斬新過ぎるので優未と時子は困る事もあった。今回の事で、二人とも一回は、ファッションチェックをしなければならなくなる。二人とも意外と辛口なのだが。
「優ちゃん、明ちゃん、おはよう」
時子は、準備が終わったので、ランドセルを背負ってやってきた。近くまで来ると良い顔をした。
「おはよう」
「南ちゃん、おはよう」
二人も、挨拶をすると良い顔になった。
「忘れ物は無いかしら」
美奈代は、母親の顔になった。時子は、振り返り、親指を出した。
「大丈夫。忘れても大丈夫。なんとかなる、なる」
根拠のない自信なのだが、美奈代としては少し安心出来る、時子の性格である。我が娘ながら、といった所なのだろう。時子の不意の行動で、今迄、何度も笑った美奈代は、これがこの子の色なのだから、この色が変わらない様に、自分自身がしっかりしないと、と考える比率が増えた。(自分の子供の頃も、そんな感じだったと母から聞いていたし、遺伝なのかしら)とも美奈代は思っている。
「じゃあ、いってきます」
時子は、ピンクの靴を履くと元気良く扉に向かって言った。優未と朋子は、美奈代に丁寧に「いってきます」を言うと、時子の後に続いた。
「はい、いってらっしゃい」
美奈代は、背中を見送ると、いつもの様に両頬っぺたをパチンと叩いた。家事開始の合図だ。美奈代は今日、十一時から十六時までパートである。それまでに、大体の家事をやり遂げなくてはならない。遠くで、子供達の声がする。鳥の鳴き声が、見守る様に、それに重なる。美奈代は、玄関のドアを閉めると、掃除機のある部屋へと向かう。美奈代は、今日も幸せであった。
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