策動

 今後の戦略。

現在アルフレートを悩ませている問題だ。

4大国の並立は終わり、大陸は2つの勢力に分かたれた。


 ラッシの言う並立の維持か、ヒルデブラントの大ルーン主義に基づく統一か。

戦争のリスクを回避するなら前者が望ましい。

しかしホルス情勢という不安定要素がある。


 かの国でのクーデター。

今後あのようなことが起きないとは限らない。

勢力の弱化は、現体制への不満を呼び起こす。

それはクーデターでは済まず、3度目の内戦になるやもしれない。


 真に安定を望むなら、対外積極策も視野に入れるべきか。

ホルスがさらなる混迷の闇に落ちるなら、かの国の政経の主導権ヘゲモニーを握ってしまうのも一手。


 扉が叩かれた。

3度の小気味よい木の響き。

「兄様、お邪魔でしたか?」


 突然のイレーネの訪問。

彼女が執務室に来るのは珍しい。

「どうかしたのか?」

「少しお耳に入れたいことがありまして」


 意味深な発言。

怪訝な顔をして彼女を見つめる。

真剣な中に焦りを感じる眼差し。


「トゥオネラ軍人がクーデターを画策している……とか」

恐怖、戦慄。

それらがアルフレートを強烈に抱きしめる。

悪魔的な抱擁。


「根拠はあるのか?」

彼女が流言飛語に踊らされているだけかもしれない。

そこを確かめる必要がある。

「ブルーメンタール閣下です」


 ここでもあの男だ。

ヒルデブラントは自らの力を、アルフレートの完全な傀儡化のために、より強固にしようとしているのではないか。

そのためにヒルデブラントと唯一対抗できる勢力である、トゥオネラ人とアルフレートを分断し、前者の排除を目論んでいる。

そう考えるのが自然だろう。


 そしてヒルデブラントはこのような状況でも、アルフレートを廃位に追い込まない。

彼はかつての反逆者で、敵国の軍人として交戦した人物を擁立してしまった。

軍部の利益のために際物に手を出した。

この事実は他の皇族の擁立を不可能にした。


 自らの利益のためなら、反逆者であっても皇帝に担ぎ出す。

アルフレートはトゥオネラ軍として戦った者を守るために、それに自らの反逆者としての後ろめたい過去ゆえに、ヒルデブラントの誘いに乗った。

しかし他の皇族には、露骨に利用するつもりであるとしか映らない。

わざわざそんな誘いに乗る必要は、彼以外に理由はない。


 だからアルフレートは廃位されないし、することができない。

そこを逆手に取れば、優位に立つことも不可能ではない。

ならばこの状況を利用しない手はない。


「彼は事実を誇張しているのだろう。自分の意図とは違う動きをして、そのように考えたかもしれない。でも警告には感謝する。ブルーメンタール大将にはそのように伝えてくれるか?」

イレーネの顔が歪む。

違う、そうじゃないと言いたげに。

「たとえ他のトゥオネラ人は無害でも、アイラ・アロネン……あの女だけは危険……」

アルフレートに対して凄む。

悪意、憎悪、愛情、嫉妬の相克。


「なぜ彼女を名指しで危険視する?」

アルフレートには理解できない。

彼女は副官に過ぎない。

たった1人の兵士すら指揮する権限も持たない。


「‘あれ’は兵隊を率いることはできない」

アルフレートの思考を読んだような口ぶりをする。

「だとしても、兄様のそばに控えることはできます。それもすぐ隣に」

隣という言葉を強調して言う。

そこに異様な執着を臭わせる。


「予を殺してもブルーメンタールがいる。彼がいる限り、予の死を最大限活用して、トゥオネラ軍人の排斥をするだろう」

彼女は無言で踵を返した。

アルフレートにはイレーネがアイラを憎悪する理由がわからない。

戦場で敵将の意図は見抜けても、彼女の真意を見抜くことはできない。


******


341年2月10日


 ホルスは新しい指導者を迎え入れた。

人民は無言だが疑念の目で彼を見ている。


 失政を繰り返した政権に取って代わった新政権。

クーデターによって成立したそれは、国土の大部分を明け渡す条約を批准した。

自らの政権を承認してもらうためにだ。


 自己の利益のために国土を売った。

人民はそう考えている。


 そんな人民のために、政府は雇用創出すべく、国営工場を設立した。

戦火により、土地と職を失った人のためであり、何より政府への支持を高める意味がある。

戦災を被った人々は国営工場に殺到し、職と安定を手にした。


 しかしあまりにも人が多すぎた。

戦費で傾いた財政にのしかかる国営工場運営費。

ついにバザロフ人民革命党委員長が、工場の閉鎖を宣言した。


 工場の門に貼られた1枚の紙切れ。

そこにあるのは工場の運営終了宣言。

唐突な宣告。

青天の霹靂。

雷に打たれたようなプロレタリアートたち。


「どういうことだ、説明しろ!」

1人の男の怒り。

それは周りに広がり、1人の怒りから公共のものとなった。


 怒りの声は各地で上がる。

怒れる労働者は、役所を目指す。

工場を運営しているのは国家だ。

ならばこの怒りを国家にぶつけるのは当然の理。


 首都の者は党本部へ、地方の者は役所を目指す。

怒りの濁流が党に牙を剥く。

これに対し、バザロフは警察を投入して鎮圧した。


 暴動の日の夜、ヴァルフコフは帰路に就いた。

暴動のさらなる拡大となれば、軍にも出動命令がかかる。

結局そのようなことはなく、多くの労働者が犠牲になったことで、彼は暗澹な気分になった。

ただそれだけの日。

日常にひと匙の憂鬱を添えただけ。


 自宅の前に車を止める。

憂鬱な出来事を吐き出すように、ため息をつきながらドアを開ける。

出迎えるように現れた1人の存在。


 おかしい。

不自然な存在だ。

自宅には誰もいないはず。

ヴァルフコフには死別した妻との間に娘がいるが、仕事の都合もあるので両親に預けている。


「君は誰だい?」

顔を見れば痩せこけて、すすで汚れた女性の顔。

ぼさぼさのくすんだ金髪。

壮年のように見えるし、老け込んでるだけで実際はもっと若いかもしれない、なんとも言えない顔をしている。

服をみればよれよれで、ところどころ破れているか擦り切れている。

おそらくプロレタリアートだ。


「将軍、あなたの良心と才能を見込んでここに来ました」

女性は言う。

ヴァルフコフは察した。

最後まで聞くまでもない。

「みなまで言うな。労働者のために立ち上がってくれと言いたいのだろう?」

女性は頷く。


「申し上げ忘れました。私はマルタ・ルシーノヴァ。今日の暴動で父が殺されました」

そう語る彼女は無表情。

悲しみも何もない。

そのような境地は通り過ぎたのだろう。


 マルタは引き続き語ろうとする。

「待て、続きは家で聞こう。それに……汚れた姿を見るのは心苦しい」

嘘だ。

内容が内容だけに、秘密警察に聞かれるのは極めて危険。

ゆえに家で話を聞くことにした。

ともかく彼女を家に上げて、シャワーを浴びさせる。


 マルタの処遇問題。

ソファーに体を沈め、空のコップのある机に視線を落として思考する。


 追い返すか否か。

保身を考えれば、秘密警察に突き出した方がいい。

しかしこんな日の終わりを思えば、非常に後味が悪い。

塩漬け肉に塩をかけて調理するような真似だ。

憂鬱の上塗りなんて避けておきたい。


 シャワーからの凱旋。

マルタがぶかぶかの軍指定白シャツに、バスタオルをブロンドの髪に乗せてやってきた。

バスタオルを乗せた髪は、ぬぐい切れていない水滴が光を返し、くすんだ髪に華やぎを与える。

肌を汚していた煤は駆逐され、白い肌が姿を見せた。

先ほどまでいた、汚れたプロレタリアートはいなくなった。

この変化には、ヴァルフコフも目をぱちくりするしかない。


「話してもいいですか?」

正気への回帰。

「あ、そうだな……ソファーに座ってくれ」

隣への着席を促す。

1人のプロレタリアートの青春を、黒く染めた惨劇が語られる。

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