【6】絵本
「朝ご飯できたわよー!」
下の階から母の声が聞こえた。
転がっていた段ボールひとつひとつに書かれた、『おいてくもの』という汚い字。もちろん私の仕業だ。
結局まとめた荷物は、数着の衣類とお気に入りの本数冊、普段から使っていたシャンプーや歯ブラシの類。そして古びた絵日記、小さなダンボール。そんなもん。
本当に必要なものは旅行用の鞄ひとつにすっぽり収まる程度しかないと分かり、昨日私がやったことは押入れから出したガラクタを散らかしただけだと悟った。
まあ、そのおかげで大事なものを見つけることはできたんだけど……。
「ご飯だってばー! まだ寝てるー?」
さっきよりも声が大きくなった。早く行かないと心配させてしまいそうだ。せっかくのご飯も冷めてしまう。
「今行くー」
鞄を持ち上げ、その予想以上の重量に驚く。なんだかんだいっぱい詰まってるじゃないか。
押入れに戻りきらなかった段ボールがまだ部屋の中に溢れているが、私にはうまく片付けられなかった。でも、整頓大好きな母なら間違いなく収めてくれるだろう。母に負担をかけるのは情けなく申し訳ないが、頼れる人には頼らなくちゃいけない。昔誰かにそう言われたでしょ?
「ごめんね、お母さん。ありがとう」
呟きながら段ボールの上面に走り書き。私の母ならこれくらいの字は解読してもらわなきゃ。
一階に降りてきたとき、食欲をそそる朝食の匂いの中に、別の香りが混ざっているように感じた。
「お母さん、なんか匂いする?」
「臭い匂い?」
「臭くはないけど、なんかお花みたいな香り……」
「気のせいよ」
気のせいと言われてしまうとそんな気がしてくる。大きく息を吸い込んでも、もうご飯の匂いしかしない。
紫さんでも来てたのかな、なんて馬鹿げた考えはよそう。オカルト嫌いな私にそんな考えは似合わない。
「さあ、早く食べましょう。迎えに来るんでしょ?」
「うん」
ご飯にサラダにベーコンエッグ。今までとなんら変わらない朝ご飯に、少し寂しさを覚えながらもホッとする自分がいた。
私が家を出ていくことは、特別祝うことでも嘆くことでもない。明日からも私たちは母娘。そんな風に言ってくれている気がして……。
それでは、食材と母への感謝を込め。
「いただきます」
食べ終わった頃にちょうど電話が来た。我が愛しのフィアンセ曰く、あと二十分もしないうちにここに着くとのこと。
初めは、荷物を業者に頼んで私が電車で移動する予定だったのだけれど、母にももう一度挨拶をしたいという彼の要望を受け、せっかくなので家まで迎えに来てもらうことになった。
今から思えば、私が家を出たがらなかった理由のことを気にしてくれていたのだろう。
「うん、ありがとう。こっちはもう準備できてる。……あ、急がなくても大丈夫だから。うん。じゃあまた後で。ばいばい」
電話を切断、母に報告。母は台所で食器を洗っていた。
「九時前には着きそうって」
「分かったわ」
タイミングよく食器洗いが終わったようで、水の音が聞こえなくなった。
残り時間どうやって過ごそうか考えていると、母が私の肩をとんとんと叩いた。ちょっと濡れてる。ちゃんとタオルで拭いてくださいよ。
「どうしたの?」
「これ、持って行ったら?」
母が手にしていたのは昨日の絵本だった。黒い表紙に青い文字で『しあわせになるまで』と書いてある絵本。
「もともとお姉ちゃんのでしょ。私が貰ってもいいの?」
「子供が生まれたら読んであげてよ。その方がお姉ちゃんも喜ぶわ」
「んじゃあ持ってくことにする」
時間を潰せそうなものを手に入れた。ちゃんと中身を読んでいなかったし、せっかくだから読む練習でもしておこう。
私はその黒い表紙を捲った。
登場人物は白いワンピースの女の子と、紫色の服を着た魔女。ちゃんと読むと男の子も出ていた。
あらすじはこんな感じ。
まず、花咲く森の奥で寂しく暮らしていた女の子のもとに、不思議な魔女が現れる。遊び相手ができた女の子は嬉しがって、毎日のように魔女と遊ぶようになった。ここまでが四ページ。
次のページで男の子が出てくる。森の雰囲気がとても気に入った彼は、そこに住みたいと言う。女の子は喜んでそれを受け入れ、二人はしばらくの間仲良く暮らしていた。その間、女の子が不思議な魔女と出会うことは無く、挿絵からは紫色が消える。
魔女が再登場するのは、女の子が男の子とケンカをした後のシーン。森の中で泣く女の子の前に再び現れた魔女は、女の子の頭に手を置いて慰めの言葉をかける。
『すぐに なかなおり できるよ だから げんき だして』、と。
ラストの場面では魔女が木の陰から仲直りした二人を見つめている。不思議な魔女は、人間の二人がちゃんと仲良くなれるように、魔女と過ごした思い出を消す魔法を女の子にかけた。
そして絵本の終わりは魔女のこんな台詞でしめられている。
『あなたが わたしを わすれても わたしは ずっと そばに いるよ あなたが しあわせに なるまで』
女の子のために心優しき魔女のお話。全てをささげた相手に忘れられることを願った、悲しき魔女の物語。
これを読む子供が中味をちゃんと理解できるか、はっきり言って疑問ではある。でもお姉ちゃんはきっと、その幼いハートで何かを感じ取っていたのだろう。
この悲しい物語の続きを、私は知っている。
強がりで不器用で本当は弱っちい女の子は、この後も様々な障壁にぶつかる。他人との些細な違いが異常に気になって、知らず知らずのうちに嫌われて、知りたくなかった真実を知らされて、愛する人までを傷つけて。惨めな自分が嫌いで嫌いで、いつも森の奥でこっそり泣く。
でもその度に紫色の服の魔女がやってくる。
ひとりの殻に閉じこもらないで。元気を出して。自分を嫌いにならないで。私がずっとそばにいるよ。
魔女は素敵な言葉だけを残し女の子の前を去る。魔女が何回助けても、女の子は魔女のことを忘れてしまう。私のことは忘れて生きて。そんな魔法が強すぎて。
そんな悲しい物語のさらに続きを、今の私は知っている。
女の子が女の子じゃなくなってからずいぶんと時間が経ったある日。彼女は森を出る決意をする。たくさんの想いで溢れた森を。
立つ鳥跡を濁さず、と得意でもない荷物整理に意気込む彼女。見つけたのは彼女の忘れていた、不思議な出会いのかけら。
彼女がかけらに触れると、魔女の唱えた悲しい魔法がゆっくりと解け始める。魔女との記憶をぼんやりと思い出し始める。あの優しく柔らかな声を。あの優美な花の香りを。悲しみのどん底から彼女を救い上げた、素敵な言葉の数々を。
絵本の最後の紙と裏表紙の間。あの写真がまた挟まっていた。きっと本を読んだときに母が挟め直したのだろう。
写真を取り出して本をゆっくり閉じる。ろうそくの火を消すときのように大きく息を吐く。
「なんだ、こんなところにいたんだ……」
紫さんの話でこの本を引き合いに出したときは驚いたけれど、結果的に母の言っていたことは正しかった。やはり親を侮ってはいけない。改めてそう痛感する。
もう一度だけ読み返した後で、本を鞄にしまう。どんなにおバカな子供が生まれてもこの本だけは読んであげたい。かつて女の子だった私の、ただのわがままだ。
手元に残った写真を見つめていると、写り込んだラベンダーの花から微かな香りが漂ってくる。――いやいや、そんなはずがない! はずはないのだが、私の嗅覚はまたラベンダーの香りを感知してしまった。
あまりに気になってくんくんと部屋の空気を吸い込む。香ばしさマックスだったベーコンが不在の今、うすぼんやりとではあるが確かに花の香りを感じ取れた。
外からだろうか。いや、リビングの窓はすべて閉まっている。
じゃあ、と廊下に出てみる。ちょっとだけ強まった気もする。だが玄関のドアも開いていない。匂いの発信源はむしろ反対側……。
「何やってるの?」
和室の方から出てきた母と鉢合わせ。写真片手に鼻をふがふが言わせて徘徊する私。親相手とはいえ、ものすごく恥ずかしい光景を見られてしまった。
逆ギレ気味に答える。
「なんか花の匂いがするんだよ」
「さっきも言ってたわね」
「気のせいじゃないと思うんだけどさ、お母さん知らない?」
「んー……」
母が手を頭に置く。心当たりでもできたのだろうか。
「ギリギリまで黙ってようと思ったんだけど――」
母の言葉の終わりを待たずして、インターホンのチャイムが鳴った。いいところなのに、と拗ねることも忘れ、犬のように玄関まで駆けていく。
扉を開けたその先に、我が愛しのフィアンセが立っていた。
「や、おはよう」
「おはよ。お疲れ様」
「別になんともないさ。そっちこそ大丈夫だった?」
いつもなら心の中を歩き回っているネガティブ思考な私は、今はどこを探しても見つからない。その代わり胸の奥には、紫色のとんがり帽子を大事そうにかぶった女の子がいる。
「もう平気」
今なら自然に笑える。
「へー。いつになくかわいい顔するじゃんか」
「ふざけないでよ」
「本気、本気。もうひと安心ってこと。実はドタキャンされないか不安だったんだぜ?」
「ひどいな。流石にそんなことしないよ」
「ああ、ありがとな」
「……うん」
温かい涙が出そうで、思わず下を向く。
もう大丈夫。もう平気。もしいつか辛いときが訪れても、きっと支えてくれる人がいる。
「あれ、その写真って……」
「ん、え? あ、これ? 私とお姉ちゃんの写真みたい。昨日見つけた」
まだ顔を上げたくなかったから、説明しながら写真を持っていた手帳に挟む。うん、これならいつでも一緒にいられる。
「よかったら後でゆっくり見せてよ」
「うん」
私の泣きそうな表情を察したのか、彼はそれ以上聞かなかった。
「あ、おはようございます。いつもお世話になっております」
私の後ろから近付いてきた母に、彼が挨拶をした。
「いえいえ、こちらこそ。今日もわざわざ迎えにまで来てくれて本当にありがとう」
あの匂い、あの花の香りがする。振り返ると、母の腕にラベンダーの花束が抱えられていた。
「どしたの、それ?」
あまりに気になって、言葉を交わす二人を無視して尋ねた。
「これ、ラベンダーよ」
「知ってる。なんでそんなに持ってるの?」
「なんで、って。お祝いよ。私からのささやかな気持ち。はい」
「なんでそんな急に」
香りの原因は母だったのか、という驚きが半分。別に祝われるようなことじゃない、と強がっていた手前、受け取るのが妙に恥ずかしいというのがもう半分。
ぐずぐずしていると、母は私の胸に花束を押しつけた。
「お姉ちゃんの好きだった花なの。持って行ってあげて」
深く息を吸い込むと、遠い昔に嗅いだことのある柔らかな香りが、心の中を暖かい空気で満たしていく。自分のすべてを許せてしまいそうな優しい気持ちになる。
「うん、分かった」
花束を受け取り、私はゆっくり頷いた。
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