【5】夢

 お腹がいっぱいになったのと、荷物を片づけなくてもよくなったという安心と、ちょぴっとだけ母に貰った元気のせいで、私のまぶたは重力への抵抗を諦めた。部屋に戻ってきたのはいいが、さっきから眠くてしかたがない。

 その代わり肩は軽くなった気がする。背負っていた重りは目まで登山してきたようだ。

 せっかくだから紫さんのことをもう少し母に聞いてみれば良かった。いや、また絵本のキャラクターについて話し始めるかも。そういえばあの本の中身、ちゃんと見なかったな。

 そんなことをぼんやりと考えていた私は、無意識のうちにベッドに向かっていた。まだ敷かれたままのマットレスの上に倒れこむようにダイブする。

 ああ、ベッドも片付けなきゃ。

 眠いから今度でいいかな。

 あとは段ボールも……。



「なんかさあ、お前最近暗過ぎね?」

 目の前にいた男は学生服を着ていた。目鼻立ちのくっきりした、どこかで見たような顔だった。

「き、気のせいじゃないかな」

 私はとっさにそう言った。自分が浮かべる笑顔の不自然さは、鏡を見なくてもだいたい分かる。

 男がため息を吐く。

「あんまりこういうこと言いたくないんだけどさ」

 周りの空気が嫌な濃度を保ったまま、スローモーションになる感覚。色の感覚が奪われていき、空間が灰色に沈んでいく。

 ああ、いっそこのまま止まってしまえば良かったのに。

「お前、俺のこと必要としてないだろ」

「そんなことは……」

「なんで頼ってくれないんだよ。俺を信用してないからだろ」

「ホントになんでもないんだって」

「だったらなんで最近ずっとそんなんなんだよ」

「だから気のせいだってば」

「何かあるんだったら俺に言ってくれれば」

「もういいでしょ! あなたには関係のないことなんだから!」

 目の前のその人が何か言うたびに、私の立っている足場が崩れていく。そんな感覚に襲われ、怖くなった私は思わず声を荒げてしまった。

 すぐにその過ちに気がついたけれどもうどうしようもなかった。彼は熱の失った灰色の瞳で私を見下ろす。

「そうだな、俺が悪かった。俺はもうお前に話しかけないから、お前ももう話しかけないでくれ」

「ご、ごめん、そんなつもりじゃ……」

「じゃあ」

 学生服の男はそっけない別れの言葉を残すと、背中を向けて去って行った。制服姿の私はその場に座り込んでしまった。


 その様子を少し離れた場所から見ている私がいた。私と彼の一連の会話が終わった今初めて、モノクロームなこの世界が夢の中なのだとはっきり自覚する。

 十年以上前の記憶。高校三年生、あの誕生日から一週間後くらいの出来事。

 家庭の真相をまだ飲み込みきれなかった私は、当時の恋人だった彼にもそれを打ち明けられず、心配してくれた相手を傷つけて最悪の別れ方をした。彼は間もなく新しい恋人を見つけて、私たちは二度と話すことはなかった。

 地べたを見つめてうなだれる高校生の私。石になってしまったような、あるいは灰を被ってしまったような色の彼女の目から、大粒の雫がいくつもこぼれていた。

 どうして今日に限ってこんな夢を見ているのだろうか……。母の言っていた通り、私はまだ過去の私に捕らわれているのかもしれない。また愛想を尽かされる日が来てしまうんじゃないか。結婚を前にして、心のどこかにあるそんな不安を拭い去れないでいるのかも――。

 私は首を横に振った。

 いや、昔の出来事なんて関係ない。今の私は今の私。ちゃんと胸を張ってなきゃ。

 救ってあげるんだ。大人になったこの私が、座り込んで肩を震わせているあの日の私を。ガラスの靴を届けてあげるんだ。


 右足を一歩踏み出した瞬間、柔らかい花の香りが鼻の奥をくすぐった。これは確かラベンダー……?

「また泣いてるの? 本当に泣くのが好きね」

 私と私の間にひとり、いつの間にか別の人が立っていた。

 背中をこちら側に向けているせいで顔や年齢は分からない。つばの広いとんがり帽子、そのすぐ下でなびく長い髪、ミディ丈のワンピース、綺麗な長い足。そしてなぜか、色が無くなったはずのこの夢の世界で、彼女の服だけが紫色に染まっていた。

 高校生の私が紫服の彼女を見上げる。彼女は屈んで私と同じ目線になると、私の頬の涙の跡を白い手で拭った。

「彼に心配かけたくなかったんでしょ? でーも下手くそ。あれじゃあまるで逆効果」

 いつかどこかで確かに聞いたことのある柔らかい声。後ろで聞いているだけでも心が満たされていくようだ。

「いい? 苦しいのを一人で抱え込んじゃダメ。あんたはいつもそれで失敗してるんだから。頼れる人には頼っていいの。頼らなくちゃいけないの」

 私はまた涙を流しながら、黙ったままでこくこくと頷く。その頭を優しくなでる彼女。

「私で良かったら話してみな。大丈夫、誰にも言わないから」

 それでもまだ私の口は開かない。

「じゃあ私、あんたが話すまでここを動かないから」

 紫服の彼女が冗談めかしたトーンで言った。その言葉でようやく観念したのか、それとも我慢できなくなったのか、私は思っていたことをすべて話し始めた。一度水門が決壊したダムはちょっとやそっとじゃ止まらない。私の言葉と涙は土砂降りのように地面に降り注いだ。


 紫さん、なのだろうか……?

 正直言って私の中にこんな思い出は存在しない。彼にフラれた後どうやってその日を過ごしたかなんてまったく覚えていない。その一方で、どうやってその悲しみから脱したのかも記憶にない。

 だからと言って、また紫さんに救ってもらっていた、と考えるのはあまりに飛躍している。

 昼間の出来事が夜の夢に反映される、という話は何度か聞いたことがある。夕飯のときに思い返した過去の記憶と、絵日記や自作小説の中の紫さん。それが混ざって――。

 固い頭でいくら否定したところで、心の奥にいる私が大声で叫ぶ。彼女が紫さんだ、私を何度も助けてくれた魔法使いの紫さんだ、と。

 そのことに気がついた瞬間、オカルトは嫌いだとか言ってファンタジックな思い出を受け入れることを頑なに拒んでいた自分が、とたんに恥ずかしくなってしまった。

 うん、もう認めてしまおう。認めてしまえばいいじゃないか。不思議な魔女の存在を。困っている私の前に登場し、記憶も残さずに去ってしまう素敵な魔女の存在を。


 泣きやむまでどれほどの時間が経ったのか。夢の中にいるせいでそういう感覚が分からなくなっている。紫さんは手を私の頭に置いたまま、吐き出される言葉を聞いていた。私はその様子をただただ落ち着いた気持ちで眺めていた。

 雨上がりの空に虹がかかるみたいに、夢の世界には色が戻っていた。

「大丈夫、あんたなら立ち直れるから。私のこともじきに忘れるよ。そういう魔法をかけてるから」

 その言葉は笑っているようにも悲しんでいるようにも聞こえた。あいにく、立ち上がった彼女の顔はこちら側からは見ることができない。

「でも私はずっとそばにいるよ。あんたが幸せになるまであんたのことをずっと見守ってるから」

 まだいなくならないで。あなたにお礼が言いたい。あなたの顔を見てちゃんと感謝を伝えたいの。



 驚くべきことに私の声は彼女に届いたようだった。紫さんがゆっくりとこちらを振り返る。黒髪とワンピースが風を包んで膨らんだ。

 髪に隠れていた彼女の顔がようやく拝めようかというその直後、私の目の水晶体は自室の天井にピントを合わせた。

 理由は分からないが母のあの笑顔が蘇った。

「……おはよう」

 その声を当然誰も聞いていない。

 この家にいる最後の日、私はいつになく清々しい朝を迎えた。

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