【4】誕生日

「ねえお母さん、私って中学のとき学校行ってなかった?」

 二人の皿の中身が半分ほどになった頃、私は母にそう切り出してみた。母はご飯の乗ったスプーンを中途半端な位置で止め、まぶたをぱちぱちとさせる。

「どうしたの、急に」

「なんか気になるものが出てきてさ」

 お茶を濁す言い方に気づいたのか、母は「気になるもの」に言及する様子は見せず、代わりにスプーンを置いて手を頭に乗せた。

「一年生の冬ぐらいだったかな。確か二、三か月休んでた時期ならあったわよ」

 その言葉にドキリとする。本当に不登校だったことがあったとは。

「……イジメられてたんだっけ?」

「そう言ってたよ。覚えてない?」

「あんまり」

「そっか」

 母の答えは、あの小説の『私』の状況と食い違ってはいない。でも私にはその記憶が無い。

 それだけでノンフィクションだったとは到底言い切れないのだが、作り話ではないかという疑いを、早く捨てたがっている自分がいる。紫の衣に身を包んだ魔女が、孤独を感じていた私をいつも見守り、そして支えてくれていた。たとえ非現実的な妄想だと言われようと、そう思う方が今の私は納得できる気がするのだ。

 いや、いやいや、それじゃああまりに短絡的な感情論じゃないか! 人間は考え続けることによってのみ真理に到達し得る、という誰かの言葉を思い出して、折れかけていた反オカルト魂を奮い立たせる。

 複雑な表情になっていたのだろう。慰めるように母が優しく微笑んだ。私の気持ちが沈んでいるとき、過去にも何度も似たような笑顔を見たことがある。もしかすると制服を抱えて帰ってきたあの夜も、同じ笑みを浮かべてくれたのかもしれない。

 この笑顔の度にきっと私は救われてきたんだ。そう考えると、感謝と申し訳なさが溢れてきた。

 女手ひとつで育ててくれた母に、私はどんな恩返しをしてこれたというのか。情けないことに何も思い当たらない。

「別に大丈夫よ」

 心を読まれたと勘違いしそうになるほどタイミングのいい母の台詞。動揺を抑えて聞き返す。

「何言ってんの?」

「昔の出来事なんて気にすることないわ。今は今なんだから胸張ってなさい」

 その言葉でシナプスが繋がった。イジメの話をしたから、私がそれを気にして落ち込んでると思ったのだろう。一段飛ばしのロジックで確信めいた言い方をするところが、実に母らしい。

「あ、いや、それはそんなに気にしてないから」

「あらそう?」

「うん、それは大丈夫。……なんだけど」

 母に謝らなければならないのは、なにも恩返しのことだけではない。例えば。

「荷物は今日中に片付けられない、と思う。ごめんなさい」

「やっぱり」

「やっぱりって?」

「やっぱり今日はダメだろう、って思ってた」

 物を片付けるのは昔からの苦手科目。小学校の通信簿、整理整頓の項目はいつも三角マークのハンコを押されていた。余談だが綺麗な字の項目にも。それは母が一番よく知っているだろう。

 それでも、今回こそは、と意気込んでいた私がいたのは事実だ。だから、片付かないことを母に予想されていたのは、悔しいというか恥ずかしいというか……。やはり子は親に勝てないものなのかもしれない。

 スプーンを再始動させながら、話を進める。

「それでさ、今のうちに業者にも連絡して、もうちょっと運び出す時刻、遅くしてもらいたいんだけど」

「引っ越しの業者でしょ。最初から頼んでないわよ」

 ライス手前で急ブレーキ。

「……なんで?」

「どうせ予定通りにはいかないと思ったし、一度に全部持って行く必要もないでしょ?」

 怒りや驚きと言ったいろんな感情をマッハで通り越し、その母らしさに私は思わず笑ってしまった。

 私の話していた計画を聞き流して、己の勘だけで行動していたというのか。危険度最高レベルの所業だ。でも実際正しい選択だったのだから、私にとがめる権利はない。

「明日は自分で持って行けるものだけ持って行けばいいじゃない」

「私のもの置いて行って邪魔にならない?」

「なるわけないじゃない」

 今度の母の笑顔は哀しく、そして美しく輝いて見えた。左胸がキュッと締めつけられる。


 私は明日、この家を出る。三十年母と過ごしてきたこの家を。

 今までここを離れることを考えたことは無かった。大学に進むときも就職するときも、無理なく通える場所にあるものを当然のように選び、人並みに安定した進路を決めてきた。

 一人暮らしは怖いから少しでも落ち着く実家に居座りたい、というのは建前。本当の理由は、母に対する申し訳なさ。いつも助けになってくれている母を一人にすることへのうしろめたさ。

 私はずっと長い間、母と父は離婚したものだと思い込んでいた。父親の話を母から切り出すことは無かったし、聞いてもはぐらかされるのが常だったから。別れた父を激しく憎んでいるためだと納得していた。そのうち私も父のことを口に出すことを止め、深く知るのを諦めていたのだ。

 そんな母が初めて父の話をしたのは、高校三年生、ちょうど私が十八歳になった日の夜だった。父がいたこと、姉がいたこと、そして二人に会うことは二度と叶わないことを知らされた。最悪の誕生日だと思った。

 あの日の母の声、掠れながらも力強い、母らしくないあの声は、今でも耳の奥に張り付いて剥がれない。

 二人がこの世を去った当時の私は、生まれてまだ一年も経っていなかったそうだ。夕飯の支度をしていた母の背中で泣き始めた私。粉ミルクの缶が空っぽになっていて、父に買い物を頼んだ。五歳の姉はそれについて行った。

 二人が出かけて数分後、家の電話が鳴った。信号無視をした暴走車が交差点に入り込んで、父と姉の乗った車に横から激突、二台は大破し三人が救急搬送。おおよその内容と病院の名前、それだけしか頭に入らなかったと母は言っていた。私を抱えて病院へ駆けつけた母が息をしたままの二人と会えることはなかった。

 幼い私にショックを与えまいと、母は二人の存在を隠し通してきたらしい。諸々の法要も私の知らないところで行っていたそうだ。私に辛い思いをさせないように母は一人で深い哀しみを背負ってきたのだ。

 十八歳の夜、すべてを話した母は涙を流しながら「ごめんなさい」と何度も言っていた。私も確か泣いていた。何も知らなかったとはいえ、私は無神経に父のことを聞き出そうとしていたし、父のいない境遇を恨んだりもした。最悪の誕生日だと思った。生まれてきて一番自分が嫌いになった日だった。

「お母さん、私のこと憎んでるでしょ?」

 私が泣きだしたりしなければ二人は生きていたのに。父親のことをしつこく聞いていなければ母が苦しみを重ねることはなかったのに。ありとあらゆる罪悪感からそう尋ねずにはいられなかったのだと思う。

 そんな私を母は強く抱き寄せた。そして嗚咽にも埋もれない強い声で言った。

「馬鹿言わないで。私はあなたがいたから強くいれたのよ。あなたがいたから生きてこれたの」

 それからしばらくの間私たちは抱き合って泣いていた。大の大人と、間もなく高校を卒業して一人前になるという人間が、近所の迷惑も考えずにわんわん泣いた。

 その夜以来私の心から、母への感謝と申し訳なさが消える瞬間は無かった。だから母がこの世を去るまで私は彼女を一人にはさすまい、家を出るまいと誓っていたのだ。

 そんな私がプロポーズを受けたのは先月の終わり頃。ちょうど私の誕生日。相手は大学時代から七年ほど付き合っていた恋人だ。

 彼には私の事情は話していた。だから返事は急がないと言ってくれた。その優しさが嬉しくもあり、それに応えきれない自分が情けなくもあった。

 プロポーズの話を母にしたとき、私は同時に母に対する思いを打ち明けた。あの夜密かにこの家を出ないと決意したことを。

 ――ところが母のリアクションは私の予想の上空三千フィートを飛び去っていく。史上最高に真剣に語った私などお構いなしに、母は手を叩いて笑っていた。

「まったくいつの話をしてるの? 私だって今は自分のために生きてるわよ。いい大人が親に甘えようなんて通用しないわよ?」

「は、はあ?」

 あまりに予想外の返答に、私は感嘆の声を漏らすことしかできなかった。今まで私が頑なに誓いを守ってきたことが、一気に滑稽に思えてきた。人生二度目のパラダイムチェンジ。最悪の誕生日の更新である。

 まあ、話を詳しく聞いて納得した。実はなんとなんと、母もプロポーズを受けていたのだ! 私の知らぬ間に通っていた陶芸教室で、私の知らぬ間に知り合った男性と、私の知らぬ間にちゃっかり恋愛していたのだ。最近綺麗になった気がしていたから、何かあるとは思っていたけど……。

 それにしても真剣な私を前にして構わず大笑いできるところが本当に母らしいと思った。そういう天真爛漫なところが母のいいところ。

「お父さんに似てとっても優しい人よ。生まれ変わりかしら?」

 その人、お父さんが亡くなる前に生まれてるじゃん。年甲斐もなく瞳をときめかせる母を見て、野暮なツッコミは飲み込んだ。

 私の世界観は一気にひっくり返ったけれど、娘のためになんでもやってあげられる母も、歳なんて気にせずに前向きスキップを刻む母も、私が尊敬する理想の女性であることに変わりはなかった。


 そんな感じで家や母のことには一区切りつけたつもりでいたのに、今までのような思いがフラッシュバックしていた。本当に家を出る覚悟ができてないんだろ、と私の心の悪魔みたいな部分が囁く。

 もうすぐ結婚しようってのに、どうしてこんなに不安になるんだろう。ちょっとやそっとのことで気持ちがぐらぐら揺れる。窓際のやじろべえが飛び出しそうになったとき。

「荷物を取りにちょくちょく戻ってきなさい。いい口実になるでしょ?」

 母がいつも通りのトーンでそう言った。その声でふと我に返る。

 暗いことばかり考えてるから母に余計な心配をさせるのだ。今日ぐらい明るくしてないと駄目じゃないか。隅っこに隠れていた天使に背中を押されて、ちょっと無理して笑ってみる。

「口実って?」

「あのね、同棲したら大変なの。嫌なとこ見えてきてすぐに喧嘩なるわよ」

「お母さんもお父さんと喧嘩した?」

「そりゃあいっぱいしたわ。毎回お母さんが勝ってたけどね」

「それ自慢かなあ……」

 不意に母が見せた笑顔がまた私を抱きしめた。たったそれだけのことで、心の悪魔はぷちっと潰れてしまった。やっぱりお母さんには敵わないや……。

 母娘団欒、この家での最後の晩餐は、喉の奥でちょっぴり塩辛いカレーライスだった。

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