【3】ノート
自室のドアを開けた瞬間、再びため息が出てしまった。
もう母のことではない。部屋の中のあまりの乱雑さに、気が滅入ってしまったのだ。
小学生ボックスの中身までが広げられた部屋は、先程の入室時よりもまた一段と散らかっている。この荷物を今日中に整理することが、すでに不可能なことにさえ思えてくる。
現在の時刻は一時半。これ以上無駄な時間を費やすわけにはいかぬ、とモチベーションを絞り出して、私は足元のものを蹴飛ばして進んだ。
物品の仕分けをこなしていく最中も、私の頭の中にはずっと紫さんの影が踊っていた。紫色のあの拙い絵を思い出すたびに、彼か彼女と会った記憶が脳のどこかで眠っている、そんな気がしてくるのである。
でもそれはおかしな話だ。同じ時期に那美ちゃんと遊んだことはある程度覚えている。一方の紫さんとの思い出は、絞り出そうとしても一滴もこぼれない。
ひょっとすると一人で遊ぶのが寂しかった私は、遊び相手として紫さんという架空の人物をつくりだしてしまったんじゃないだろうか。前にそんな話を読んだ気がする。
昔から要領の良くない私は、考え事を始めると作業の手が止まってしまう。だから紫さんが思考回路の隅に顔を覗かせたときは、必死にそのイメージを振り払うしかなかった。
その人のことを考えるのはまた別の日でいい。今日は荷物を片付けるのが最優先だ。そう自分に言い聞かせることによって。
半分と幾分かが片付いてようやくゴールが見え始めた。その段ボールはそんなときに現れた。
その見た目は他の段ボールとは明らかに異なっていた。それ以外の箱はどれも同じ大きさで、押入れの高さを測って決めたかのようなサイズ。ふたの部分を留めるガムテープの端は、どれもはさみで切ったような直線だった。几帳面な母の作品であることは容易に想像できる。
今出てきたものは他よりもかなり小さい。目測では十倍くらいの体積だ。中に何か入れようと思っても、せいぜい分厚めの本が二冊か三冊くらいが限度だろう。無理やりに詰めてあるのか、箱は少しだけ外側に膨らんでいた。
テープの張り方もまるで違う。押し出ようとする中身を抑えつけるように、段ボールの隙間という隙間をとにかくぐるぐる巻きで覆っていて、いかにも雑な仕事という匂いがした。
ただ、あまりに厳重なその巻き方は、どこか不穏な空気感を演出していた。書いてあるはずのない『開封厳禁』の文字が、どこかから浮かび上がって見える気さえする。敢えてもう一度伝承に準えるなら、今度はパンドーラーになった気分だ。
「これは、駄目……」
自分に言い聞かせるために呟く。
どんなに疲れていようと母がこんな雑なパッキングをするはずはない。そうなるとやったのは必然的に私になる。けれど、何年前のものなのかはまるで分からないが、この中身が何だったのか思い出すことも想像することもできない。
勘違いはしないでほしい。中身を知るのが怖いのではない、荷物整理の手が止まるのが怖いのだ。
禁断の箱を押入れの奥に戻そうとしたとき、ひとつの邪念が私の脳をよぎった。
仮に今この箱をしまったとして、果たして私は他の荷物に集中できるだろうか。――否、絶対に箱の中身に意識が行く。ゆえに作業効率も下がる。つまり、このタイミングで箱を開けてしまった方が荷物は確実に早く片付く!
己の理、自分に都合の良いロジックほど人間が信じたがるものはない。これ以上の正義を疑わない私は、手近にあった大きいハサミをつかみ、ガムテープを躊躇いなく切り剥がした。
「あぁ……」
中身を想像し高揚していた気分は、実物を目の当たりにして一気に醒めた。鼻の奥が冷たくなり、舌が苦味を感じている。
入っていたのは、刃物か何かでずたずたに切り裂かれたセーラー服。私が通っていた中学校の制服だった。
この制服を段ボールに詰めていたことは完全に忘却の彼方にあった。でも、それ以外のことはなんとなく思い出した。授業後の更衣室で静かに泣いたこと。いじめを誰にも言えなかったこと。そういった過去を全部忘れようとしていたこと。
確かあの日は体育着のまま帰って、その後しばらく学校に行かなかった。そして学年が変わってからまた登校することにした覚えがある。制服は、寄り道をして落としてきたなどという適当な理由をつけて、新しいものを買ってもらったのだろうか。そこはあまり記憶に無い。
私は、私が意外と落ち着いていることに気がついた。
ずたぼろの制服が視界に飛び込んできた瞬間は、悲惨な過去が甦って悲鳴でもあげてしまうのではないかと心配したが、実際には気分が少し沈んだだけだった。そんな心配をする余裕があった時点で、私の頭はいたってクールだったと思われる。
なんとなくの思い出はなんとなくの思い出でしかなく、それがまるで夢の中の出来事であったかのように、細かいところは何一つ浮かんでこない。私をいじめていた相手の顔や名前、他に何をされていたかということも。
人間の最も優れた機能の一つは忘却である。前に読んだ本にそんなことが書かれていたが、今なら素直に頷くことができる。もし辛かった過去を完全に思い出すことができたなら、私の心はこれほど穏やかでいられたであろうか。それは母も同じかもしれない。きっと私たちは忘却によって救われている。私たちの意図の及ばぬ範囲で。
「ありがとう」
誰に対するものか自分でもよく分からぬまま、なんとなく感謝の言葉を口にしてみた。
これ以上この可哀想な制服を眺めている意味は無い。でもせっかく見つけたのだから畳み直そうと思い、段ボールからセーラー服とスカートを取り出すと、奥に一冊のノートがあることに気がついた。
どうせ大したことは書いていないだろうと高をくくり、私は躊躇いも無しに取り出してその表紙を開いた。箱の底に眠っているものが希望であるとは限らないことを知らずに――。
『プリンセスは庶民どもが考えているような楽な身分じゃないの』
汚い字で書かれた最初の一行を読んで、それが何か思い当たった私は慌ててノートを閉じる。
どうしてここに入っていたのかは全く分からないけれど、間違いない、これは中学生の頃に書いた自作小説だ。黒歴史と呼ぶには十分過ぎるほどの要素が詰まっているに違いない。というか、一文目からそんな匂いが強烈に漂っていた。
ノートの封印を解いたのが私自身であったことにひとまず安堵をする。もしも私がこの部屋を出て行った後、母が掃除ついでに段ボールを開けていたら、かつて娘が失くしたと言っていた制服を見て驚き、かつての娘の趣味を見て笑い転げていただろう。うん、どちらも嫌だ。
しかし決断を下すのはまだ早い。黒歴史ノートかどうかは、ちゃんと読んでみないと分からないということだ。かつての私にはひょっとしたら信じられないほどの文才があって、文学賞総なめの名作が記されているかもしれないではないか!
私は傷を負う覚悟と豆電球のような希望を胸に、もう一度ノートの表紙を開いた。
城を抜け出したお姫様が素手で竜を倒しに行く『エスケープリンセス』、男の子が湖のUMAと漫才コンビを結成する『マッシー』、魔法少女が将棋の駒の力で悪と戦う『ケイマガール』のファンタジー短編豪華三部作を読み終え、私は両手で頭を抱えた。
禁断の箱が開かれたときから、時計の短針は六十度近く回っている。黒歴史ノートはあと少し残っているが、時刻はもうすぐ七時。窓の外はすっかり暗くなっていた。
整理整頓はもとから苦手だが、今日はいつにも増して時間の使い方が下手すぎる。光陰が音速超えて飛んでゆく。
小説の出来は悪くはなかった。意味不明な設定と支離滅裂な構成、幼稚な文章力、そして高度な解読技術を要する文字にさえ目を瞑れば、中学生が書いた割にはいい作品だった気がする。
オカルトは嫌いだがファンタジーは好き、というどこか矛盾した性格はこの頃からだったのか。私の中でフィクションはフィクションと割り切っているためであって、本当は矛盾しているつもりなど無い。あれ、オカルト嫌いはもっと後かな?
読書、もとい解読に夢中になっていて、自分でも気づかないうちにベッドに座っていた。立ち上がって部屋を見る。当然のことながら、目に飛び込んでくる景色は四時間前と変わっていない。
「こりゃ今日中には無理だ」
明日の午前中にはまとめた荷物を業者に運び出してもらう予定だったが、期限を延ばした方がよさそうだ。というか、そうせざるを得ない状況にまで追い込まれている。
けれどここまできたら、もうどうにでもなれだ。今は荷物整理が終わるかどうかより、残り数ページが気になる。悪あがきしても良い結果は出ない、と誰かが言っていたのを都合よく思い出し、私は開き直ることに決めた。
『ケイマガール』の終わりからページひとつ空けて、次の見開きから新しい文章が始まっている。まだ読んでいない部分の厚みから、長くても五ページほどだろうとは思っていたが、どうやらその二ページだけで終わっているようだった。
『あなたへ
中学生になって半年ぐらい経った頃から、私は学校でイジメにあっていました。トイレに閉じこめられたり靴や本がなくなっていたり。冷たい風の吹いていたあの日は制服が引き裂かれていました。どうして私だけがこんな目にあうのかと運命を憎みながら、破れた制服を抱えて泣きながら帰りました。そんなところを誰にも見られたくなかったのに、家の前にあなたが立っていました。
「あんたは何も言わないからイジメられるのよ」
べそをかいていた私にあなたはそう言いました。何か言い返そうとしましたが、言葉が上手く出てきませんでした。
「あの子たちはただ雪合戦をしてるつもりなの。反撃してこないと思ってるからあんたを狙ってる。夢中になってるから、雪玉の中に石が混じってても気づかない。だってあんたが何も言わないから」
イジメられるのは私が悪い。そんなことはあなたに言われなくても分かっているつもりでした。父親がいない家で育った私は、それを他の人に知られるのが恥ずかしくて、隠そうとしていることがなんとなく後ろめたくて、誰とも話ができない陰気な人間でした。きっと、そんな私が気に食わない人が多かったのです。
あなたにはっきり言われたのが悔しくて、さんざん流した涙がまた溢れてきました。顎から滴る雫が制服の傷に染みていくのが見えました。下唇を強く噛んだ私を、あなたは両手で強く抱き寄せて言いました。
「ごめんなさい。あんたが苦しそうにしてるのが我慢できなくて」
紫色のあなたの服から、とてもいい薫りがしました。昔どこかで嗅いだことがあるような、優しく懐かしい花の薫りでした。
「どうして一人で抱え込むの? どうして誰にも助けを求めないの? どうして逃げ出さないの?」
私を責めるような言い方だったのに、耳元で囁かれたその声には不思議な柔らかさと温かみがありました。聞いているだけでズキズキとした心の腫れが引いていくようでした。
イジメにあっていることをお母さんに知られたくはありませんでした。お母さんに余計な心配をかけたくなかったのです。だからお母さんに助けを求めることはしませんでした。先生に言う勇気もありませんでした。本当に助けてくれるかも分からないし、結局お母さんに報告されると思ったからです。
「お母さんなら分かってくれるわよ」
あなたは、まるで私の考えていることを見通しているように言いました。
「辛いことから逃げるのはズルいことなんかじゃない。少しの間だけでいいの。冬が終わって雪が融けるまで、少しだけ学校休もう?」
あなたの腕が私をより一層強く抱きしめました。
「大丈夫。春になってあんたが二年生になる頃には、私の魔法で皆忘れてるから。イジメのことも、今のあんたの痛みも、私のことも……。だから、また初めからやってみましょう?」
その日、私はお母さんにすべてを打ち明けました。お母さんはあなたと同じように私を強く抱きしめて、それから頭を優しく撫でてくれました。学校にはしばらく行かないことに決めました。あなたが言った通り、イジメられていた記憶が不思議なほどに遠くなった気がします。そして、ごめんなさい、最近はあなたの顔が思い出せなくなりました。本当に魔法にかかってしまったように、朝起きる度にあなたが消えていきます。今はあの温かい声、柔らかな花の薫り、そして紫色の服のイメージだけが、夢の中の出来事のようにかすかに残っています。あなたのことを本当に忘れてしまう前に、あなたに伝えたいことがあります。私は明日から学校に行きます。今度はちゃんと皆と話をしたいと思っています。あの日私を助けてくれてありがとう。もうあなたに心配されないように、しっかりと生きていきます。本当にありがとう。』
ノートのページには所々水滴で滲んだ跡があった。手紙のような文体のこの文章は、他の三つの話に比べて、心なしか綺麗な字で書かれてある。
これは当時の私自身の話なのだろうか。それとも、他と同じファンタジーなフィクションに過ぎないのだろうか。
『私』の前に突然現れて消えていった人物が、私の周りにいた記憶は無い。不登校だった記憶も無い。そもそも、見ず知らずの私を慰め、そして記憶も残さず去っていくような人が、現実的に存在するとも思えない。現実に起こったらそれこそオカルトじゃないか。
どう考えてもフィクションに違いないはずなのだが、ノートの染みが私の後ろ髪を引く。お風呂上がりの髪の雫かもしれないのに涙の跡に見えてしまうのは、今私の心が動揺しているからなのだろう。
そして絵日記の紫さんと『あなた』。この二人がどうしても同じ人に思えてしまう。きっと、人間は短いスパンで起こった現象に因果や必然を見出だしたがる、というやつだ。だって共通点は紫色の服しかないのだから。
「夕飯できたわよー!」
モヤモヤした思考の雲を、母の声が吹き飛ばした。
部屋のドアを開いて、その匂いで確信する。
「あ、カレーだ」
なんだか母の姿がすぐに見たくなり、急かされるように階段を駆け降りた。
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