【2】絵日記

 古い段ボール、特に押入れの奥に佇んでいたようなものの中からは、本当に懐かしいものが出てきたりする。

 鍵盤ハーモニカ、お習字セット、『えんそくのしおり』。絵の具のチューブに書かれた名前は、苗字も含めて全部平仮名。よれよれの鉢巻きは何組のだったか分からないくらい色褪せている。どうやらこれは、私が小学校の頃のものが入っている箱のようだ。

 二度と使わないであろうものまで取っておくところが、いかにも母らしい。押入れの半分以上が私の思い出の品で埋まっているのだ。もしお姉ちゃんの分まであったら、倉庫を借りていたに違いない。

 段ボールの内側の壁に張りつくように、一冊のノートが入っていた。こんなものを気にしていたら荷物はいつまで経っても片付かない。片付かないと分かっていながら、なんとなく気になって中を見てしまう。これはヒトのサガ。私というちっぽけな存在が抗いきれるものではない。

 そのノートは絵日記だった。今よりももっと汚い字と下手くそな絵で、日付から考えて恐らく夏休み中の出来事が、一冊に渡り記されてある。

「それにしても……」

 我ながら憐れみを覚えてしまうほど、内容に代わり映えが無い。無さ過ぎる。

 基本的には『きょうはこうえんであそびました』で、たまに『きょうはいえであそびました』になったかと思うと、その日の天気欄には必ず傘マークが描いてある。旅行に行けるような家庭環境ではなかったにしろ、もう少し何かイベントがあっても良かったと思うのに。

 苦笑いしながら読み進めていくと、少し奇妙なことに気がついた。ページ上半分の絵に必ず現れている人物がいる。

 どの絵でも、その人の体の部分は紫一色。紫色の肌……というのは考えがたい。オカルトは嫌いだ。きっと紫色の服を着ていたということだろう。帽子らしきパーツも同じ色で描かれている。

 はじめは母か私だと思ったのだが、どうも違うようだ。仕事をしていた母は公園にはついて来なかったはずだし、私も一人で遊んでいたことが多かった気がする。

 それに、自らの絵心の無さを知ってか知らずか、いつも絵の真ん中にいる人の下には私の名前がある。それが私だとすると、紫さんは私ではないということだ。

 正体を突き止めようとすればするほど謎は深まっていく。この紫さん、なぜか雨の日、つまり私が家で遊んでいる日の絵にも登場している。こうなってくるともう誰なのか見当すらつかない。

 そしてもう一つ。八月後半のある日の日記、『きょうはなみちゃんとともだちになった』と書いてあるページ以降、紫さんは突如姿を消している。ちなみに、『なみちゃん』は確かこの年に引っ越してきた子で、三、四年くらいでまた別の場所へ移っていったはずだ。私の記憶と聞かされた話が正しければ。


 しばらく絵日記帳と睨めっこを続けていたあと、私ははっと我に返った。

 時計は午後一時を回っている。お昼ご飯まではまだかかるにしても、荷物整理の続きは私がやらなければ終わらない。自分のものとはいえ、小学生の書いた落書きに四十分も時間をとられていたことが情けない。

 紫さんの正体は分からずじまいだが仕方ない。残念ながら考えて分かる問題でもなさそうだ。

 荷物整理のタイムリミットは今日中。早く手をつけなくては終わらなくなってしまう。

 私がノートを閉じ、意気込んで立ち上がった瞬間だった。

「お昼できたわよー!」

 下の階から母の声が響いた。

 ……さて、腹ごしらえをするか。


「進んだ?」

 チャーハンをレンゲでひと掬いしたとき、母は穏やかな声で尋ねてきた。私は敢えて、それに答える前にレンゲを口に運ぶ。もふもふと口を動かしている間も、母の目は私を真っ直ぐ見つめていた。

「進んでない」

「どうして?」

「なんか絵日記出てきた。それ見てた」

「ふーん」

 会話が止まったのを見計らって手を動かす。甘すぎずしょっぱすぎない絶妙の味加減。私はこの味で育ってきた。

「面白いことでも書いてたの?」

 少しの間を置いて、母がそう尋ねてきた。

「なにも。字が汚かった」

「今もじゃない」

「うん……」

 自分でも分かっている弱点を指摘されると想像以上にへこむ。ネガティブな性格のせいなのか、たまに自虐的な発言をしてしまう。けれど、話している相手にそれを同意されるのは苦手だ。どうか否定してほしい。我ながら自分勝手だとは思うが、この年で性格を変えるのは難しい。

 もしかしたら、という淡い期待を込め、私は母に紫さんのことを聞いてみることにした。

「ねえお母さん、私小学生の頃誰と遊んでた? 低学年くらいの時」

「那美ちゃんとか?」

 母から彼女の名前がすぐに出てきたのには少し驚いた。正直、私の交友関係などほとんど知らないと思っていたから。知らないようで知っていたのか、あるいは私の知らないところで親同士の付き合いがあったのか。

 しかし今目的としているのはあくまでも別の人物。

「那美ちゃん以外に。例えば紫色の服着てた人とか……」

「いつも紫色の服なの?」

「たぶん?」

「聞き返さないでよ」

 母が食事の手を止めて頭に手を置いた。これは何かを思い出そうとしているときの仕草だ。

「すぐに思い出せないなら、先に食べちゃおうよ。冷えると味落ちるかもよ」

「そうね……」

 そう言いながらも母はレンゲを置いたままだ。これは本気モードに入ってしまったようだ。本気モードの母には言葉はほとんど通じない。

 私は静かにチャーハンを食べ進めることにした。

 

「あ!」

 母が突然顔を上げ、飛びぬけてひょうきんな声をあげた。口に食べ物を詰めていた私は、急いでそれを飲み込みながら身を乗り出した。

「さっきの絵本の女の子!」

「……なに言ってんの?」

「ほら、さっきあんたが持ってきた絵本あるでしょう。それに出てくる女の子が紫の服着てるのよ!」

 自信満々な言い方と誇らしげな表情に、言葉を失わずにはいられなかった。

 母は思っているよりも抜けている。昔から、特に真面目に話しているときには、期待外れの回答が返ってくることが少なくない。紫色の服の人を考えるあまり、私が昔一緒に遊んでいた相手という本題をすっかり忘れてしまったのだろう。うん、実に母らしい。

 まあ、言われてみればさっきの本にそんな子いたな……。

「本じゃなくて、私が昔遊んでた子の話だよ?」

「ああ、そうだったっけ?」

 とぼけた言い方をする母。決してわざとではないと思っているが、すこし期待していただけに苛立ちを覚えずにはいられない。

 だが、こんな些細なことで声を荒げる幼さからはとうに卒業しているし、今日は母と喧嘩したくない。

 幸いなことに、絶好のタイミングでお皿の上のチャーハンは無くなった。私は食器を持って流しに持って行く。こっそり吐いたため息を悟られないようにしながら。

「荷物、早くまとめてくるね」

「うん。行ってらっしゃい。紫の子思い出したら呼ぶから」

「行ってきます」

 また紫色のことだけを考えそうだと思ったが、私はそれだけ言って階段を踏んでいった。

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