揺れる天上界


光あふれる天上界。安寧と幸福、秩序と平和が約束されたはずのこの場所で、天使たちとその創造主は深い溜め息をついていた。


「主よ。我々は失敗したようです」

「慈悲深き恩寵にも関わらず、あやつは神を愚弄し続けました」

「あやつだけではありません。恐ろしいことに、あやつの精神性が最早時代の趨勢となっています」

「恩寵の拒否。哀れなる子らは畏敬を忘れつつあります」

「理性と合理性の過信。このままでは黙示録ドゥームズデイが子らによって引き起こされてしまいます」

「憂慮すべき事態です」


熾天使、智天使、座天使の上位三隊の天使達は狼狽する。終末のラッパが鳴らないように苦心していた彼らではあったが、ついにそれは限界に達しつつあった。


「無神論者が急速に増えつつあります」

「『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせ、全ての生き物を支配せよ』。アダムへの祝福は間違いだったのでしょうか」

「座天使よ。それを言ってはならない。それは、致し方がなかったのだ」

「……あやつの。あやつの言い分はどこまでも正しい」

「っ主よ!!そんなっ!そんなこと申してはいけ――」

「――いや、正しいのだ。正しいのだよ、熾天使。あやつの論駁は正しい。儂は完璧ではない。儂は結局、信仰心から成る共同幻想に過ぎない」

「主が先にお生まれになられたのか、それとも、子らが先に生まれたのでしょうか」

「智天使よ。この際、順番は関係ない。問題は、儂が生き残るために儂は、子らに地上の支配権を与えたということだ。原罪を背負った子らを楽園から追放したのは他ならぬこの儂だ。信仰心を得るためにそうしたのだ」

「主が共同幻想からお生まれになられたのであれば、主は共同幻想を維持せざるを得ない、と」

「しかし、共同幻想は遂に崩れつつあります」

「世の理は一つではない。世の理は無数にある。儂が滅んでも、別の共同幻想が世界を導くだろう。しかし、次の奴に子らを教え導かせる訳にはいかない。次の共同幻想は、必ずや世界を混沌へと導く」

「主よ……」

「じゃが、もうどうしようもない。このままでは、そう遠くない未来に信仰心の累積赤字で輪廻転生すら維持できなくなるだろう。なけなしの奇跡の力を費やしても、儂はあやつを改心させることができなかった。滅びが始まる。救済のない滅びだ。あるのは虚無だけだ。それはなんとか……なんとしてでも。どのような手段を使っても避けねばならない」


普段と違って創造主は冷静だった。ここまで聡明な創造主を見るのは天使たちにとって久しぶりだった。なぜなら、もはや信仰心の赤字のせいで創造主は昔のような威厳と能力、そして智慧すらも失いつつあったからである。創造主は呆けた老人と成り果てていた。それが、往年のような姿をここに来て見せた。天使達は驚くほかなかった。


「最後に儂は賭けようと思う。あやつを止め得るのはやつしかおらん」

「誰に頼むというのですか?」

「カール・マルクス」

「――!!無神論者ではないですか!!!」

「無神論者だからじゃよ。無神論者が増えるのは世の趨勢じゃから仕方ない。問題は、あやつが無神論者であることなのじゃ。なんとしてでもあやつを改心させねばならない。さぁ、早く。カール・マルクスを連れてこい」


座天使が飛び去り、カール・マルクスを賽の河原から連れ戻す。

「なっ。なんだ一体。石を積めといわれたから積んでいたものを急に呼び出すとは何事だ」

「カール・マルクスよ。御主に頼みがある」

「永遠の石積みをさせておきながら、随分と都合がいい神様だな、おい」

「神に向かって、なんという口の利き方!本来ならば、灼熱の業火で永遠の苦しみを与えられるところを、賽の河原ですんでいるのは一体誰のお陰であるか!!」

「座天使よ、別にいいんじゃ。そんなことより、カール・マルクスよ。突然じゃが、どうか世界を救って欲しい」

「はぁ!?無神論者のこの私に、神様が頼み事とは頭がオカシイんじゃないか」

「そうじゃ、無神論者の御主に神が頼んでおる」

「ふんっ……。まぁ、今まで本とか論文の差し入れもしてくれたしな。聞いてやらんこともない。それで、私にどうしろというのかね、神様よ」

「ターニャ・デグレチャフをどうか論破して欲しい」

「話が見えないな。なぜ、そのような面倒なことを。お得意の奇跡でどうにかすればよかろう」

「無理なんじゃ、それは。あやつと初めてあったときでさえ、あやつの力のせいでそれはできなかった。今となっては、後一回ぐらいしか別世界に飛ばせんじゃろう。あやつは儂の摂理を超えつつある」

「……?ターニャ・デグレチャフとか言うやつは只の人間だろ?仮にも神ならば、到底競り負ける相手じゃないだろう?」

「只の人間であれば、良かったのじゃがな。やつは、人間であって人間ではない。正しくは奴の魂は最初から人間ではなかったと言うべきか……。それとも、魂が変わってしまったと言うべきか……。御主のように最初からわかっていれば、あやつを賽の河原にでも放り込んでいたものを……。間が悪かった。我らが気づいたときにはもう手がつけられなくなっていた」

「どういうことだ?」

「効率性と理性の化物、或いは近代の権化、或いは世界精神、或いは時代の趨勢、或いは―――運命」

「な、なにを言っている?」

「御主がこれから相手にするのは……。そうじゃな、神学的に分かりやすく言えば―――」

「………っ」

「事の重大さが分かったかの?」

「なぜ、私にその役目を……?」

「目には目を、歯には歯を。理性には理性を。御主の哲学もあやつの哲学も、どちらも理性が土台じゃ。でも、御主とあやつはまるっきり違う。期待してるぞ、カール・マルクス。世界の今後は御主に託された」

「ちょ、お前!!」

「カール・マルクスよ。やつを改心させてくれ。さもなくば、世界は高慢と貪欲、嫉妬と憤怒、色慾と暴食、そして……無関心が訪れるだろう。職を失った男を、無能と蔑んでなんら心が痛まないような人間が闊歩する世界にしては断じてならん」

「それで、いったいどうやってデグレチャフとか言う奴を改心させろと!?そんなやつを改心させるのは無理だぞ!?」

「なに、心配は要らん。流れでどうにかなる。あやつを論破すれば良い。さすれば、道は開かれる」

「んな、適当な!!」

「んじゃ、任したぞ―――神は御主と共にあり」


斯くて、カール・マルクスは古今東西のマルクス主義者の魂と共同幻想が詰め込まれた異空間に飛ばされる。果たして、カール・マルクスは神の言うように世界を救うことができるのか。そして、デグレチャフは一体何者なのか。

理性と理性がぶつかり合う。近代の地平の果て。市場原理主義と共産主義がぶつかり合う。『歴史の終わり』。近代が産んだ二つの潮流は一体どちらが最後に残るのか。そして、それはどのような結果を招くのか……。


市場原理主義が導くのは、拡大か?繁栄か?自由か?或いは暗黒郷か?

共産主義が導くのは、流血か?虐殺か?暴虐か?或いは理想郷か?



現代を巡って、負けられない戦いが今始まる。



☆☆☆☆☆☆☆☆

・コメンタリー

 ごめんね、皆。オリジナル設定入っちゃった。デグ様の設定に大幅な追加がなされています。因みに、神が信仰心パワーで、なんか、どうにかこうにか世界を管理しているという設定はweb版の元々の設定です……たぶん、そう解釈できる。あと、私はお恥ずかしながら書籍はまだ読んでおりません。

 ところで、私は疑問に思うんですよね。

 なぜ、存在Xはデグ様にあそこまで固執するのか、と。

 そう言うわけで、なんとかこうにか、その疑問を埋め合わせることができるように新たな設定を作り出しちゃいました。二次創作だから許してね!!


Tips:

『共同幻想』……日本の戦後思想に少しでも触れたことがある人間なら、誰もが一度は聞いたことはある言葉。戦後左翼に崇拝された吉本隆明が使った概念である。意味はマルクスが言うところの上部構造とほとんど変わらない。まぁ、国家とか、教団とか、天皇制とか、経済システムとかを指してると考えると分かり易いかもしれない。本編では、神というのは個々人の想像が混ざって出来た産物でしかない、という意味で使っている。


『賽の河原』……一応、仏教(正確には民間信仰)の概念。人は死ねば三途の川を渡って閻魔様の判決を受けることになるが、まだ大人になりきっていない子供が判決を受けるのは可哀想ということで、輪廻転生させられる。賽の河原とは、その待ち時間を過ごす待機所のような場所。しかし、待機所と言っても、小石を延々と積まされて、それを鬼に崩されるという、ちゃちな嫌がらせを受けなければならない(鬼灯の冷徹から設定を借用したのは言うまでもない)。

 因みにマルクスは、あまりにも熱心に崇拝されすぎたせいで、自身が共同幻想になりかけてしまっている。そこで、現世でマルクスの魂が現人神として顕現するのを防ぐため、転生させるわけにもいかなくなり、致し方がなく賽の河原にマルクスは放り込まれている。ところで、マルクスはお金はなかったが、子供や孫には優しかったと伝えられているので、もしかしたら子供達の話し相手をしていたかもしれない。

 イイハナシダナー。でも勿論、何を話していたかは想像してはいけない。


『世界精神』……ヘーゲルの言葉。人類発展の本質である自由が世界史上に実現されることを指す。なので、その時代時代で最も自由を体現する者を世界精神と呼び表したり出来るだろう。ヘーゲル自身、ナポレオンを見て「皇帝―世界精神―が馬にまたがっているのを見た」とか言う趣旨の言葉を残している。因みにその後、ナポレオンの振る舞いでヘーゲルはナポレオンに幻滅することになる。自由を最上の価値と見る市場原理主義者のデグ様を形容するにはふさわしい呼び名だろう。

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