第5話 黒曜将人1

 すっかり日が暮れてしまった頃、紅は家の外にいた。閑静な住宅街。街灯も疎らで薄暗い。紅はポシェットを提げ、とことこと最寄りのコンビニまで牛乳を買いに歩いていた。


 なんで今日に限って……。


 兄は予備校、弟は部活でまだ帰宅していない。その所為で母に買い物を頼まれたのである。今日は色々と危ない目に遭って大変だったから家に籠っていたいのだという主張は通らなかった。ツイていない。

 憂鬱な気分で歩いていると、背後から自転車が接近しているのに気付いた。無灯火であるが、音で察したのだ。なんか妙だなと感じたところで――すっと、ポシェットだけがさらわれる。


「えっ⁉︎ 待ってっ!」


 声を出せたのは奇跡だ。大声で叫ぶも、引ったくり犯が止まってくれるはずもない。すぐさま走って追いかけるも、相手は自転車で、しかもここは下り坂の途中。元短距離走の選手であるが、これでは追いつけそうにないと諦めかけた――その時だった。

 何かにぶつかって、自転車が激しく横転した。派手な音を立てて、通りの端に飛ばされる。ポシェットもその衝撃でアスファルトに落下するのが目に入った。


「いってぇ。っんだよ、避けるくらいしろってぇの」


 声は飛ばされた引ったくり犯とは別の方から聞こえた。どうやら自転車がぶつかったのは男性らしい。しかし、声の主の方は立ったままであるらしく、随分と高い位置から声がしていた。


 この声、誰かに似ているような……?


「さてと。どうしてくれようか。無灯火で突っ込んで来て怪我させたってことは、オマワリに突き出されても文句ねぇよな」


 ぶつけられた男は引ったくり犯に近付いていく。薄暗くて顔はわからないのだが、そのシルエットを見るにかなりの大男だ。紅の周りにいる男子で一番背の高い蒼衣よりも十センチくらい高いのかもしれない。

 大男に近付かれる前に、引ったくり犯は自転車を起こして乗ると素早く立ち去った。華麗な、と言えそうなくらいの逃げ足だ。

 落ちていたポシェットを拾い上げると、大男は逃げた引ったくり犯の背中に向けて叫ぶ。


「おい、忘れもん――」

「それ、あたしのですっ!」

「へ? ――あぁ、そういうことか」


 紅が台詞を遮って話し掛けると、状況を理解したらしくこちらに歩いてくる。ヤレヤレとどこか面倒臭そうに頭を搔きながら。

 その仕草が、紅の記憶のとある人物を呼び起こす。


 ひょっとして……。


 街灯の下。やっと互いを認識した。ぶかぶかの半袖シャツにハーフパンツというラフな格好から顔を出しているのは健康的に焼けた肌。腕も足も筋肉質で太く逞しい。短く刈られた髪、野獣を思わせる鋭い目。低い声や喋り方も含め、見た目はかなり怖い。


「――って、あんた、紅か?」


 問いに、紅はコクコクと頷いた。向こうも思い出したらしい。彼――黒曜こくよう将人まさとは紅だと確信するなり、頭のてっぺんから足先まで見た。


「へぇ。随分と女らしくなったもんだな。特に、胸」


 下心的なニュアンスの感じられないさっぱりとした台詞。そういう率直なところは記憶にある幼い頃の彼と変わらない。


「それ、褒めたことになってないから。――あと、取り返してくれてありがと」


 差し出されたポシェットを受け取って、中身を確認する。入っていたスマートフォンは無事のようだ。他のものも特に変わった様子はない。


「あぁ? 別にあんたのためじゃねぇよ」

「怪我、大丈夫?」

「こんなの怪我のうちに入らねぇさ。さっきの奴が大袈裟なだけ」


 そういえば、と小さな頃から将人が丈夫だったことを思い出す。就学前から体格に恵まれた彼は上級生に絡まれることが多く、その都度喧嘩をしては勝ってきた。傷だらけになってもけろっとしていて、周囲を驚かせていたという記憶がある。


「なら良いんだけど」

「あ、そーだ。紅、礼のつもりでコンビニまで付き合ってくれねぇか? おれがこっちにいた時のコンビニ、潰れてんの知らなくって」

「良いわよ。あたしもコンビニに行く途中だから」


 一人で買い物をすることに不安を感じ始めていたので、この申し出は渡りに船である。紅は頷くと目的地に向かって踏み出した。道路側にあたる紅の左隣を将人は歩く。


「――ところで将人はいつこっちに戻ってきたの?」


 小学五年生に進級するという時に、将人は両親の仕事の都合で引っ越した。もう五年前の話だ。


「ついさっき」

「へぇ。随分と中途半端な時季に戻ってきたのね」

「それはあんたが――」


 将人はそこでプツリと台詞を切って、口元を押さえる。明らかに、何かを言おうとしたのを躊躇っている。


「はい?」

「いや、なんでもねぇよ。とにかく、ちょっとした事情で。――紅は宝杖学院に進学したんだろ? おれ、編入試験受けるから、また一緒に通えるな」

「えー、将人、合格できるの?」


 あまり勉強ができるイメージがなかったので言ってやると、将人は紅の頭部を軽く小突いた。


「馬鹿にすんな」


 むすっとしている。心外だったらしい。


「まぁ、頑張ってよ」


 紅は笑う。

 こうして互いの近況報告をしながら、無事に買い物を済ませることができた。紅はコンビニ前で別れようとしたが、将人が「通り道だから」と玄関先まで送り届けてくれたのだった。

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