第4話 星章蒼衣1

 ロッカーからスクールバッグを取り出して、帰路につくことにする。朝の時点では美術部に顔を出したい気持ちが強かったが、今日はいろいろなことがありすぎてすっかり疲れてしまった。こんな状態では、集中してデッサンをやる気など起きない。気持ちを切り替えるためにも、家でしっかり休もうと紅は思った。


 靴に履き替えて外に出る。まだ空は青くて、日が長くなったものだと感じた。ここのところ最終下校時刻まで美術室にいることが多かったので、こんな明るい時間に下校するのは久しぶりだ。

 高等部が使用している西棟の昇降口を出れば、正門はすぐだ。スマートフォンで今の時刻を確認すると、次のバスまではかなり時間があいていることがわかった。


 駅まで歩くかぁ。


 正門から左手に折れて、理事長の住む屋敷の前の道を進む。カントリーハウスを模した大きな邸宅であり、徒歩で十数分かかる最寄り駅までの道のりの大部分はこの屋敷の敷地を眺めることになる。


 あとは平和な一日を送れると良いんだけど……。


 ため息をついたそのときだった。


「紅っ!」


 よく知った声に名を呼ばれたと思えば、右手を勢いよく後方に引っ張られた。よろけた拍子に誰かの胸元に頭がぶつかる。背後の人物に抱き締められたと感じた瞬間、十字路の右手から来た自転車が、紅を掠めそうな距離で走り抜けていった。


 危なっ。


 手を引かれていなければ、今頃自転車に轢かれていたことだろう。心拍数が全力疾走後のように忙しく動いている。


「紅、お怪我はありませんでしたか?」

「だ、大丈夫……。助かりました」


 解放され彼と向き合うと、紅は懸命に微笑んだ。

 平均的な身長の紅と比較すると、彼は二十センチ以上背が高い。すらりとしており、清潔感と人が良さそうな雰囲気を持つ好青年といった外見の彼は、星章せいしょう蒼衣あおいだ。紅の幼馴染みであり、今見えている屋敷の住人――理事長の孫である。

 蒼衣は紅に対し、眼鏡の奥の瞳に不安げな色を載せて提案した。


「この辺りも物騒になったものですね。家まで送りましょう」

「え? でも、星章先輩、生徒会の仕事は良いんですか?」


 呼び出された遊輝が急いで生徒会室に戻ったところを見ている。生徒会長である蒼衣が呼び戻したものだと思っていたのだが。


「貴女が事故に巻き込まれたと聞いて、仕事は任せてきました」


 紅の問いに彼は寂しそうな表情を一瞬浮かべ、笑顔を作る。


 任せるというか、押し付けてきたんじゃ……。


 遊輝たちが不憫だなと紅は同情した。蒼衣は苦手なことはないんじゃないかと感じさせるハイスペック男子だが、時々暴君とも感じさせる言動をする。その思い切った言動は当事者側からすればいい迷惑だが、結果はしっかり残すので誰も文句は言えない。


「あたしのために、わざわざ?」


 そんな大袈裟な、と思って苦笑しながら紅は問う。心配してくれたことは素直に嬉しかったが、最近は彼と距離をおいているのでまさかと思ったのだ。

 彼の凄さを理解し始めた頃から、話し掛けにくくなっていた。どこか、彼が雲の上の存在のような気がして。家族ぐるみでの付き合いで顔を合わせて話すことは確かにあったが、こんなふうに二人きりで話すのは久しぶりだ。


「それ以外にどんな理由が?」


 心外そうな表情をして問いで返される。紅がよくわからないと首を傾げると、彼は咳払いをした。


「とにかく、すぐに追いかけて正解でした。怪我がなくて本当に良かった。屋敷に寄ってください。車を出します」


 車を出すと言っているが、蒼衣が運転するわけではない。使用人に頼むということだ。


「う……じゃあ、お願いします」


 どうせ自分では断り切ることはできないだろう。早々に諦めた紅は渋々頷く。笑顔を見せた蒼衣に誘導されて、星章家の屋敷に向かうのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る