第3話 白浪遊輝1

 保健室のドアには「必要があれば職員室まで」と書いてある。遊輝は気にせずにドアを開け、長椅子に紅を運んだ。慎重に降ろされると、紅は座り直す。


「誰もいないみたい。二人っきりだね」


 ベッドも全て空で、養護教諭もいない今なら確かに二人きりだ。


「あ、あの、白浪先輩。あたし、怪我なんてしてなくって――」

「うん、知ってたよ」


 やっと本当のことを言えると思い、勇気を振り絞って告げる。しかし、謝罪の言葉を遮る遊輝の台詞に紅は目を丸くした。

 遊輝は頷くと、紅の頬に手を添えて顔を覗き込むようにする。距離が近い。


「でも、顔色が悪そうに見えたから、場所を変えた方が良いかと思って。まぁ、あんなことが遭ったばかりだしね。気が紛れそうな話でもしよっか」


 優しく頭を撫でると、遊輝は紅の右隣に腰を下ろす。身体が近くて、少し動くと触れてしまいそうだ。


「い、いえ、もう心配いりませんから」


 彼を拘束してしまうことが申し訳なくて断ると、遊輝は不安そうな表情で唇を動かす。


「そう? 朝も事故に巻き込まれそうになっていたし、僕は紅ちゃんのことが心配だよ」

「え? 朝、見て? ってか、あたしの名前……」


 短い台詞の中に驚く要素がありすぎて、思考が追い付かない。登校途中に遭遇した人身事故で見られていたことは勿論驚いた。が、同じ美術部所属とはいえ幽霊部員のようになかなか現れない遊輝が、その他大勢に含まれるだろう自分を覚えていることに一番驚いていた。

 うまく台詞を紡げない紅に、遊輝は爽やかな笑顔を作る。


「火群紅ちゃんでしょ? 可愛い後輩ちゃんたちの名前はちゃんと把握しているよ。当然じゃん」


 自分以外の名前も把握しているのだろうけど、学院内のアイドルに知ってもらえているとわかってちょっぴり嬉しい。


「それに朝の事故は僕も巻き込まれていてね。たまたまあの電車に乗っていたから」

「そうだったんですか……。じゃあ、バスで?」


 あの時間に別のルートを使って登校したのであれば、同じバスに乗っていたはずだ。こんなに目立つ人と一緒であれば気付いたはずなのにと思って問うと、遊輝は苦笑した。


「気分が削がれちゃったから、一限はサボっちゃった」

「そ、そんなんで良いんですか? 特待生なのに」


 宝杖学院の美術科クラスに所属する彼は、すでに画家としての活動をしている。それ故に特待生として在籍しているはずなのだが。


「あんまりやりすぎると良くないだろうけどねー。まぁ、今日はそんなに怒られなかったよ」


 やっぱり怒られているんじゃん。


 紅は遊輝の悪びれない喋りっぷりが面白くって、ついクスクスと笑ってしまう。畏れ多くて話し掛けたことなどなかったが、なかなかに気さくな人のようだと感じられた。


「――もう大丈夫そうだね。僕は生徒会の活動が残っているから戻るけど、紅ちゃんはどうする? 待っていてくれるなら、家まで送るよ」

「そこまでしてもらったら、ファンの人に刺されちゃいますよ! 一人で帰れますから、心配しないでください」


 冗談めかして返すと、遊輝は少し残念そうな表情を浮かべた後に微笑んだ。


「そっか。じゃあ、気が変わったり、ピンチに陥ったらここに連絡して」


 ズボンから名刺入れを取り出すと、そこから一枚のカードを取り出して紅に差し出す。

 受け取ったカードは、とてもお洒落なデザインの名刺。油絵が得意なだけあって、それとわかる意匠がさりげなく施されている。


「僕の連絡先。相談にものるから、気軽に連絡してね」

「は、はい」


 紅が呆気に取られたままに頷くと、ちょうど遊輝の持っていたスマートフォンが鳴り響いた。彼は慌てて電話に出る。


「あ、はい。白浪です。――今、保健室です。すぐに戻りますね」


 通話を切って、遊輝はにっこりと微笑んだ。


「じゃあ、僕はこれで。気を付けて帰ってね」


 急ぎの用事らしい。手をひらひらと振ると、足早に保健室を出て行ってしまった。


 夢みたい……。


 学院内のアイドルとこんなに話せるなんて、今日は散々な一日というだけではないのかも知れない。彼から受け取った名刺をしっかり握ると、帰宅のために一度教室に戻ることに決めたのだった。

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