第6話

 通された寝室に入ると、イェズラムはまだ布団の中にいた。

 夜着のまま身を起こしてはいたが、寝ぼけたような顔をしていた。

 それもそうだろう。まだ早暁だった。

 リューズは持ってきた巻物を、イェズラムの鼻先に差しだした。竜の涙はそれを、片方だけの目で、しばらくじっと見つめてから、リューズの顔に目を戻した。

「名前だ」

 リューズはそれだけ告げた。

 金糸で装飾された綴れ織りの巻物は豪奢なもので、部族の英雄たちに授けられる命名の儀式で使われるものだった。イェズラムも自分の名が書かれた同じものを、この部屋のどこかに持っているはずだ。

 イェズラムは何度か瞬く間、押し黙っていた。

「儀式はいいのか」

「人前を嫌うなら、無理に引き出しても哀れだからな」

 投げつけるように答えると、イェズラムは納得したのか、手をのばして巻物を受け取った。

「どうしたリューズ。そんな形(なり)で、亡霊のような顔をして」

 紐を解いて、巻物の中にある名前を見ながら、イェズラムは問いかけてきた。

 リューズはいつものような族長の衣装ではなく、簡素な藍の長衣(ジュラバ)を身につけていた。スフィルがつけた傷が擦れて痛むので、襟もはだけたまま、朱く腫れた傷痕もそのままだった。

「衣装係の女官に、華美な服はいやだと駄々をこねてみたら、案外話のわかる女だった。朝儀までの間だけという約束だがな」

「あの女はよくやっているのではないか。いつもお前は族長らしく見える」

 内実は違うが、という含みをイェズラムの言葉に感じて、リューズは力なく苦笑した。

「その傷はどうした。蔑ろにしてきた奥方たちに襲われたのか」

 治そうか、という意味合いの質問だった。イェズラムは治癒の力もいくらか持っていて、簡単な怪我なら治すこともできた。

 リューズは首を振って拒んだ。

 竜の涙たちの力を使わせるのは嫌いだった。部族を守る戦いのためなら仕方がないが、怪我は放っておいても治る。ジェレフにも同じ事を言った。多くの時間が必要でも、自分の力で治せるものは、魔法で帳消しにしないほうがいい。

「スフィルに会った。エル・ジェレフは、あの子は兄がいなくなれば死ぬのではないかと言っていた」

 お前はそれを知っていたのだろう?

 なのになぜ、スィグルを人質に遣るのを止めなかった。

 皆まで言わずとも、イェズラムは分かっているだろう。なんでもお見通しなのだからな。

 リューズが多少の悪意をこめて見つめると、考え込むように、イェズラムは眠たげな鈍い瞬きをした。

 激しい戦いのあとで、石のために片目を失ってから、イェズラムは参戦を嫌うようになった。彼の痛みは激しく、リューズはイェズラムがそのまま死を選ぶのではないかと思った。

 それでもやむをえない。それが英雄たちの生き方だからだ。

 結果として、イェズラムは生きながらえたが、次の戦が彼の最後の英雄譚(ダージ)となることは間違いがないように思われた。しかしイェズラムは参戦を拒み続け、同盟が成立し、この先のことはまるで分からない。

 即位前の自分を知る気心の知れた者が、今も生き残ってくれていることは、長らくリューズを安堵させていた。

 しかし、族長冠に屈服しないこの男を、自分はもっと早く殺しておくべきだったのではないか。反逆者としてではなく、戦場に散る英雄として。名君としての嘘を完結させるために。

「あの兄弟は、引き離しておいたほうがいい。たとえ片方が死んでも、もう片方が生き残るように」

 寝台のそばに佇んでいるリューズを見上げて、イェズラムは淡々と答えた。リューズはもう、それに何も感じなかった。

「お前にとって、どちらが死ぬ片方だ」

「そうなってもお前は耐えられる」

 どこか励ますように、イェズラムは救いのないことを言った。

「そりゃあ耐えられるだろう。俺は族長だからな。こういう時のために十七人も息子を産ませたんだ。ひとりふたりはものの数ではない」

 期待される答えを口にすると、頭の芯が重く痺れた。

 傷が痛むような気がして、リューズは目を伏せた。

「お前になにがわかる。子もいないくせに」

 耐え難くなって、リューズは小声でイェズラムをなじった。

 そして気付いた。彼が寝ている布団の中に、もうひとつ小さな体が潜り込んでいることに。

 かすかな寝息ひとつ立てず、小さな女児の指が、イェズラムの手を握っていた。

 その顔は安心しきったようだった。薄く唇を開いて、娘は死んでいた。

 リューズは虚脱して、イェズラムの眠たげな顔を見つめた。

 イェズラムはしばらく沈黙してから、与えられた巻物に目を戻した。

「エル・シャレンドラ? ご大層な名だな」

 皮肉めかせてイェズラムは感想を述べたが、気に入ったらしかった。

 竜の涙たちの名は、古い伝承に基づいた命名簿から選ばれる習わしだった。宮廷の博士たちに命じて、娘のための名を選ばせた。地下深くに眠っている宝玉を意味する名らしい。なかなか良い響きだろう、と、リューズは口に出さなかった。

「結局な……この子は力を御しきれなかったのだ。昨夜、ひどく苦しみだして、東の回廊を焼き尽くしたので、お前の侍従が俺にさんざん嫌みを言っていた。伝来の敷物や壺ぐらいが、なんだというのだリューズ。お前から取りなしてくれ」

 平素と変わらないふうに喋るイェズラムに、リューズは黙って頷いた。

「俺が薬をやったんだ。一緒に寝たいというので……」

 そこまで言って、イェズラムはなにを言いかけたのか忘れたというふうに、また沈黙した。その沈黙は、ひどく長く続いた。

 イェズラムはいつも、影のような男だった。リューズを族長に選ぶ前は、死んだ兄に仕えていた。

 かつて次代の族長位を争っていた兄は、幼かったリューズから見て、伝説の中から抜け出てきたような輝きを持った人物だった。イェズラムは神のような兄の使役に黙々と応え、石と名を肥やした。兄の不慮の死のあとに、宮廷内の派閥を受け継ぐ者として、リューズをはじめに名指したのはイェズラムだ。

 リューズが癇質の兄の不興を買うと、イェズラムはいつもかばってくれた。

 小言と皮肉ばかりが板に付いているが、面倒見のよい男だ。文句も言わずに、汚れ仕事を引き受ける。

 即位したとき、ぽっと出の王族だった自分が、曲がりなりにも族長のような顔をしていられたのは、彼をはじめとする竜の涙たちの服従を得られたからだ。

 嘘はやがて本当になり、民はリューズを名君と讃え、宮廷は命じなくても跪くようになった。

 イェズラムがリューズに膝を折らなくなったのは、そうなってからのことだ。

 いつも誰かの影の中に立って、時代を傍観している。かつては兄の、今は自分の。

「リューズ、お前の息子のな、双子の兄のほうだが」

 イェズラムは娘の手を握ったまま、訥々と話し始めた。

「あれはお前に似たようだな」

 リューズは黙って、イェズラムの話に耳を傾けた。

「派閥の勢力からいって、自分か弟が選ばれるのは、分かっていたのだろう。全ての籤に弟の名を書くこともできた。それでも、そうせずに、お前に自分を選ばせたのだ。そんな勇気を持てるのは、ものすごい馬鹿か、まことの勇者だな。もしくはその両方を兼ね備えた者だ、お前のように」

 こちらを見上げたイェズラムの顔を、リューズは眺めた。

「不正のことはな、気付かなかったふりをしていろ。お前は知らなかった、そう思わせてやれ。あの子はたまたま、運が悪かったのだ。愚かな父親だが、息子を愛している。見捨てたのではない」

「そんなものは欺瞞だ。俺はスィグルを敵の中へ二度までも投げ捨てる」

「そんなことはないさ、お前が自分の子を捨てたことなどあったか」

 イェズラムは娘の手を撫でて、布団の中に入れてやった。

「お前の息子は、俺が守ってやる」

 虜囚となって、死んだものと思われていた双子を見つけ出してきたのは、イェズラムに命じられた竜の涙の遠視者たちだった。まだ生きていると、遠視者たちは毎日リューズに告げた。その場所を制圧するため、リューズは軍を進めた。あのときの自分は、敵の目にも、味方の目にも、まさに悪鬼だっただろう。

 侵略されていた版図は回復した。しかし、それが目的だったわけではない。

「俺の私情のために、お前たちを浪費することは許されない」

 そのときと同じ事を、リューズは答えた。

 イェズラムは、淡く笑った。

「俺は部族ために戦い、最後の戦で、もう死んだ。あとは好きなように生きる」

「それがお前の英雄譚(ダージ)だというのか」

「ダージか」

 リューズがとがめるように言うと、イェズラムは皮肉めかして呟いた。

「俺には昔から、ダージなど、どうでもいいのだ。知らなかったのか」

「知らなかった」

 驚きはしなかったが、リューズには意外だった。誰よりも華々しい英雄譚(ダージ)で、これまでの生涯を飾ってきた者が、それを言うのかと。

「俺が夢見たのは、名君の時代だ。戦いもなく、俺たちが用済みになるような。俺はお前の次の星がのぼるのを見たい。この夢が一代限りの幻ではないと、見極めてから死にたいんだ」

「それはあまりに強欲ではないか。竜の涙のくせに、三君に仕えたいとは」

 彼らは族長に仕えているのではない。イェズラムがそう言うかと、リューズは思いながら、英雄の答えを待った。

「俺が仕えたのはお前だけだ」

 イェズラムは面白そうに、そう言った。

「ジェレフがお前の妻子を救うことにしたのは、戦場では悪魔のようだったお前が、双子を救い出した時、餓鬼のようにぴいぴい泣いたからだそうだ」

 その時のことを、リューズはあまり詳しく憶えていなかった。救い出された息子たちを抱いて、確かに自分は泣いたかもしれない。

 部族の家長として、そのような姿は醜かっただろう。でもその時には、どうでもよかった。ジェレフは自分のすぐ後ろにいて、弱っている双子を引き取ろうとした。自分はその手を、振り払ったような気がする。

「悪魔ではない、ありきたりのお前が、苦痛に耐え、それでも胸を張って立っている姿を見て、皆、お前を助けて、ついていこうと思うのだ。リューズ。新しい星が継ぐまで、そのまま走り続けろ」

 新しい星か。

 リューズは自分が指名しなければならない継承者のことを考えた。

 その名はまだ定められていない。息子たちはどれも皆似たように幼く、軟弱で、族長冠をかぶせられたら、その重みに耐えかね、立っていることもできないのではないかと思えた。

 とても無理だ。

 しかし、かつて即位する自分のことを、宮廷じゅうがそう危ぶんだ時にも、イェズラムは同じことを言った。お前は闇夜に放たれたばかりの新しい星、今はまだその光輝に気付かない者も、いずれはお前を眩しく振り仰ぎ、跪くことになる、と。

「お前は予知者か。もっともらしいことを言って」

 毒づいて、リューズは英雄の言葉を受け入れた。

「いいや、お前らと違って、先見の明があるだけだ」

 イェズラムはそう言って、あくびをした。

「お前は朝儀の準備だろう。俺は寝直す、エル・シャレンドラと」

 布団にもぐりこんで、イェズラムは横たわっている娘の体を抱いた。こちらに背を向けている彼が、どんな顔をしているのか、リューズには見えなかった。

 たぶん、餓鬼のようにぴいぴい泣くのだろう。

 そうであるべきだ。

 リューズは眠る英雄たちの邪魔をしないよう、静かに部屋を立ち去った。

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