第5話

 荒れ果てた部屋を片付けようとしていた女官たちが、現れたリューズの姿を見て、凍り付いたようにその場で静止した。

 宮廷内では、族長の来臨は先触れによってあらかじめ知らされることになっている。ふさわしい儀礼をとるために必要だからだ。

 リューズが知っている末の双子の居室は、いつも居心地良く整頓されており、王族が住まうにふさわしい場所に見えていた。

 床に散乱している無数の紙切れを、リューズは開いた扉に手をかけたまま、じっと見つめた。その一枚一枚には、黒い筆跡(ふであと)も緻密な、黒一色の絵ばかりが描かれていた。

 女官たちが拾い集めようとしていたそれを、リューズは一枚拾い上げた。

 隅から隅まで隙間無く描かれてある絵には、なにかしらの呪詛が籠められているように思える。そこに描かれてあるものが何なのか、リューズは良く知っていた。

「守護生物(トゥラシェ)……」

 自分のうめく声を、リューズは聞いた。

 暗黒の洞穴のなかで、巨大な地虫のような姿をしたものが、人を食らっている絵だった。それは絵というより、一瞬目にうつった光景を、そのまま写し取ったように精密で、それ故に冷淡な恐ろしさがあった。

 スィグルが描いた絵に違いなかった。

 足元を見渡すと、ほぼ同じような絵が、何枚もまき散らされている。わずかに異なるだけの絵は、瞬きごとの一瞬一瞬を、漏らさず描いたように見えた。

 スィグルはもう、絵を描くことに興味がなくなったのだと思っていた。のんきに薬缶の絵を描いてまわっていた子が、今では人を食う怪物ばかり描いている。

 あの子はどこで、守護生物(トゥラシェ)を見たのか。

 リューズはスィグルが、実際に見たことがあるものしか描けない事を知っていた。他の子供がするように、頭の中で空想したありもしないものを、楽しげに描いてみせることが、ついぞなかった。

 闇の中から救い出したとき、双子は痩せさらばえ、錯乱していた。敵は虜囚に食料を与えなかった。それは一種の拷問なのだと、リューズは憎しみとともに理解していた。

 だがそれは考え違いだった。

 やつらは息子たちを飢えさせたのではなく、この怪物たちの生き餌にしたのだ。

 リューズの手から、絵が舞い落ちた。見回した部屋には、墨の香りが立つほどの、数知れない黒い絵が散らばっていた。

「族長……」

 あとを追ってきたエル・ジェレフが、こちらの顔を見て、困り果てたような表情をした。

「これは、いつから描いているのだ」

「健康を回復してからです」

 ジェレフは曖昧なことを言った。リューズには、このような絵を日がな一日描き続けている子供が、健康とはとても思えなかった。

「なぜ俺に知らせなかった」

「知らせるなと」

 ジェレフはそれだけ言って、口をつぐんだ。リューズはまっすぐにこちらを見つめている若い目を見つめ返した。

 イェズラムか。

 まっすぐ立っている若者は、正しいことをしたという顔をしていた。その姿を一言で現すなら、忠節だった。父に従う息子の顔だ。

 イェズラム。リューズは内心で、長年苦楽をともにした友に呼びかけた。

 それで俺を、操ったつもりか。英雄ぶった兄貴面をして、族長である俺を虚仮にしている。竜の涙たちを支配して、この宮廷に、もうひとつの玉座を作りあげ、今ではそれのあるじ気取りか。

 はらわたが煮えくりかえるようで、リューズは言葉もなかった。

「なぜだ……」

 それだけやっと、絞り出すように問うと、若い竜の涙は暗い表情を浮かべた。

「閣下が逆上なさるからと。それに……」

 言いかけて、ジェレフは舌が痺れたように押し黙った。

「言ってみろ」

 リューズは、自分はもう、族長の顔はしていないだろうと思った。体面や儀礼など、もはやどうでもいいことだ。十も年下の、なんの責任もない者を相手に、凄んでみせるとは。

「閣下は王族としての義務を強いるので、治ったふりをさせたほうがましだと」

 リューズは目を細め、首をかしげた。なんともいえない疲労感が、頭の芯から押し寄せてきた。

 弱い者が、この宮廷で生きていけるのか。この大陸で。蛇蝎のごとき敵と相対して、戦う力がなければ、この部族はふたたび隷属することになる。それを目前にした時代の弱さから、這い上がってきたのではないのか。血と骨を踏み越えて。

 その物語の続きを押しつけられる子供らを、虚弱なまま遺していけというのか。

「どこにいる」

 リューズは目を伏せて、深い息とともに問いただした。

「どこ、とは……」

「スフィル・リルナムだ。顔を見る。眠っているなら叩き起こせ」

 ジェレフは険しい顔で寝室への扉を見やった。立ちふさがっているふうな彼の肩を押しのけて、リューズは大股に部屋を横切り、双子の寝ている部屋の扉を開いた。

 中は暗闇だった。

 予想もせず、暗視に切り替わった視界に、リューズは戸惑った。

 双子は闇を恐れ、リューズが訪れた時にはいつも、煌々と明かりを灯させていた。

 真っ暗な寝室のすみに、うずくまるようにして丸く座り込んでいる息子の体を、リューズは見つけた。

 寝息を立てていないスフィルを見るのは、彼らを救い出して以来、はじめてのような気がした。

 スフィルは追いつめられた獣の子のように、目を見開いてこちらを睨んでいた。薄青い目は母親ゆずりで、なにを考えているのか量りかねる透明さだ。壁の中に逃げ込もうとしているかのように、スフィルはぴったりと体を漆喰壁に押しつけている。

「兄上……兄上……」

 助けを求めるような小声で、スフィルは呟いていた。その声の震えに、リューズは顔を曇らせた。

「お前の兄は、晩餐のために広間にいる。スフィル、お前も来るといい。腹が減っているだろう」

 手を差し伸べて、リューズは出てくるように促した。

 眠っている姿も、震えている今でさえ、スフィルの姿はもう健康なように見えた。いくぶん痩せすぎではあるが、宮廷を平気で歩き回っているスィグルと、その瞳の色のほかには、なんの違いもない。

「助けて、父上」

 か細い声で、スフィルは譫言のように言った。その言葉はリューズの胸を深く抉った。

「助けて」

 同じ言葉を、呪文のように繰り返しているスフィルに、リューズはゆっくりと歩み寄った。スフィルは闇の中の凝視する瞳で、恐怖におののきながら、じっとリューズの顔を見上げている。

「どうした。俺はここにいる」

 震えている息子をなだめようと、リューズはスフィルの体に手を伸ばした。スフィルはまるで小さな子供のようで、そうすれば自分の手に甘えてくるのではないかという気がした。

 しかし指が痩せた肩に触れた刹那、スフィルは人の声とは思えないような激しい絶叫をあげた。めちゃくちゃに暴れ、殴りかかってくる息子に呆然とし、リューズは飛びかかってきたスフィルに押されるまま床に倒れ込んだ。

「族長」

 鋭く呼びかけるジェレフの声が戸口で聞こえたが、リューズは自分の着衣を引きちぎる勢いで、喉もとに強ばった指を伸ばしてくるスフィルの顔を見つめるのに精一杯で、なにも答えを返さなかった。

 息子がなにをしようとしているのか、リューズにはまるで分からなかった。スフィルは、十三才の華奢な子供とは思えない力で、リューズの顎を押し上げ、仰け反らせた首に噛みついてきた。

 歯が食い込み、血があふれるのが分かった。

 その痛みに、リューズはやっと我に返り、スフィルを引き剥がそうとした。

 必死で抵抗するスフィルの両肩を掴んで抱き上げようと試みてから、リューズはふと気付いて、痛みを忘れた。

 スフィルが噛み傷からあふれた血を、舐めていたからだ。赤い舌を出して、スフィルはいかにも美味そうに、リューズの血を啜っていた。乾きを癒やそうとする猫のような、その無我夢中の仕草に、リューズは争う気が失せた。

 するとスフィルは、殴りかかるのをやめ、どこか縋り付くように、刺繍で飾りたてられた族長の衣装を握りしめた。

「お前は日頃、なにを食っているのだ」

 哀れになって話しかけると、スフィルは低く呻いた。なにを言っているのか、良く分からなかった。

「父上」

 傷口を貪りながら、どこか遠くにいる者に呼びかけるような、茫洋とした呼び声で、スフィルは時折囁いた。

「助けて」

 救いを求める息子の体を、リューズは抱きしめた。甘酸っぱいような、幼い汗の臭いがした。

「助けて……」

 飢えて喘ぐ小さな舌が、血に染まった唇を舐めた。

 すでに救い出したつもりだった息子は、まだ闇の中にいた。

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