第3話

 のろのろ歩いているイェズラムを見かけたのは、夕刻だった。

 侍従が、晩餐にそなえて族長を着替えさせるというので、足早に居室に戻るところだった。

 広間へ向かう道すじを、数人の竜の涙たちが連れだって歩いていた。宮廷を行くにしては簡素で、武人然とした彼らの着衣は、この場にゆるされるぎりきりのものだった。どうもそれが当世の流行らしく、リューズは彼らの中心にいるイェズラムに目をやった。

 いつも飾り気のない格好をしている。イェズラムがそうなのは、ただ面倒なだけだろうが、他の者は、そういう彼の真似をしているのだろう。

 イェズラムは珍しく立ち止まり、他の者たちは行き過ぎようとしているリューズに黙礼をした。

 侍従がリューズも立ち止まらぬよう、殺気だって無言のうちに急かすので、軽く答礼するだけでそのまま行こうとしたが、リューズはイェズラムが手をひいて連れている小柄な姿が目につき、思わず足を止めていた。

 赤い服を着た、十かそこらの女児を、イェズラムは連れていた。女児の痩せた顔には、どこかぼんやりした表情が浮かんでおり、怯えてじっと疑わしげにこちらを見る目つきには、リューズになにかを思い出させるものがあった。

 あの双子も、戻ってすぐには、こういう目をしていた。飢えて、人を恐れる目だ。

「エル・イェズラム。それはお前の隠し子か」

 挨拶代わりに軽く問いかけると、イェズラムの取り巻きの者たちが楽しげに笑った。リューズに服従して付き従っている、こちらの列の侍従たちと違って、彼らはどれも頭が高かった。

「いいや、これは俺たちの一番新しい仲間だ」

 リューズが女児の頭部にあるはずの竜の涙を見ようと、彼女の顔に目を向けると、女児はぱっとイェズラムの帯を掴んで彼の背後に隠れようとした。

 そうして見る限り、女児はどこにも石を持っていないように見えた。

「新しい英雄(エル)は、なんという名だ」

 竜の涙に新入りがあったという話を、リューズは聞いていなかった。それに、王宮にやってくる新たな竜の涙は、赤ん坊か、少なくとももっと幼い子供で、自分の足で立って歩き回っているようなのを見ることは、ついぞない。

 身分のある者とも思えず、その女児は市井にいる平民の子が、なにかの間違いでここに連れてこられたように見えた。

「そのことで話があったのだ」

 イェズラムは自分に取り付いている女児をやんわり引き離して、帯の煙草入れから煙管を取り出した。膝を折って、女児と視線の高さを合わせ、イェズラムは煙管をくわえた。

「カナ、俺に火をくれ」

 宮廷で用いられる大陸公用語ではなく、部族の言葉で、イェズラムは女児に話しかけた。

 女児は澄んだ青い目で、イェズラムの片方だけの金眼を見つめ返し、長煙管の先に人差し指を触れさせた。ぼうっと小さな音を立てて、煙管に火を入れるにしては大きな炎が現れた。

「熱い」

 自分の鼻に触れて、イェズラムが笑った。

 それを間近に見つめていた女児は、にこりともしなかった。火炎の魔法を使うようだ。

 カナと呼ばれた娘は、煙管をふかしながら立ち上がったイェズラムの指を慌てたふうに探し、自分と手をつなぐように促した。

「まだ名前がない。英雄(エル)としての名を、この子にやってくれ」

 煙を吐き、こちらに向き直るイェズラムの両脇に、若い竜の涙たちが守るように立っている。序列のない彼らは、お互いを兄弟として認識しているようだが、魔法戦士たちをまとめる役割を果たす最年長者のひとりであるイェズラムは、彼らにとって兄であると同時に、父親のようなものらしい。傍らに立つ若者たちは、彼のそばにいれば安心だという顔つきだった。

「習わし通り朝儀で謁見しろ」

 身も世もなく焦れ始めている侍従の怨念を背後に感じながら、リューズは話をいったん引き取ろうとした。

「それは無理だ」

 さも当然のごとく呟いたイェズラムに、歩き出しかけていたリューズは、むっとして足を止めた。

「なんだと。お前はいつから朝儀に出ていない。俺への反逆か」

 族長の不機嫌に、侍従たちは身をすくめ、竜の涙たちは一様に困った顔をした。しかしイェズラムは痛くも痒くもないように、また、ぷかりと煙を吐き出した。

「俺ではない。この子は朝儀には出られない。異例とは理解しているが、儀式は抜きで名前だけやってくれ」

 そんなことは通らない。竜の涙は、部族の代表者である族長によって宮廷に迎えられ、部族に身を捧げる証として、皆の見ている前で英雄(エル)の名を与えられねばならない。彼らは膨大な俸禄を食んでいたし、それは部族民から徴収された血税で賄われている。いいかげんなことは許されないのだ。

「借りは返す、リューズ」

「話にならん。後で顔を出せ」

 広間に、というつもりだった。族長の晩餐には、竜の涙なら誰でも列席できる。彼らは王族にとって家族の扱いで、家族は家長とともに食事をするのが礼儀だからだ。

 しかしイェズラムはそこにも顔を出さない。礼服を着るのが面倒だからだろう。

 そんなことはリューズにしても面倒には違いなかった。なんでわざわざ飯を食うためだけに着替えに戻らねばならないのか。戦場の略礼に慣れきったリューズには、宮廷での暮らしは窮屈だった。

 日頃はイェズラムの欠席を咎めはしない。自分も竜の涙の長としてのイェズラムに、相応の敬意を見せているのだから、お前も族長に、それ相応の儀礼を尽くすべきだと、リューズは言ってやったつもりだった。

 リューズが再び歩き出すと、侍従は哀れなほど安堵したため息をもらした。

 行き過ぎるリューズの背に、イェズラムも長いため息を送ってよこす。腹が立ったがリューズは無視した。

「エル・ジェレフ」

 取り巻きにいた一人に、イェズラムが小声で話しているのが聞こえた。

「族長についていけ」

 それに返事をして、こちらの行列についてくる若者を、リューズは振り返るとなく認めた。イェズラムは、また別の者に話をさせるつもりらしかった。

 お前がついてこいと、リューズは内心で毒づいた。

 しかしイェズラムは、のんびりと女児の手をひいて、散歩の続きと決め込む様子だった。

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