第2話

「不正は許しがたい」

 怒鳴りたいのをこらえ、リューズが押し殺した声でうったえると、エル・イェズラムは長煙管をあげて、ぷかりと煙を吐き出した。その気のない態度に、リューズはますます腹を立てた。

 非公式とはいえ、族長の来訪に立ち上がる気配もなく、億劫げに座しているのも気にくわなかったが、それは生憎いつものことだった。

 エル・イェズラムはリューズとは同じ乳母の乳で養われた間柄だ。ただの気安い乳兄弟であれば良かったが、イェズラムは今や竜の涙の長老のひとりで、彼の頭部を覆う深い紫色の石も、英雄然としてこれ見よがしだった。

 石に奪われなかった左目だけで、イェズラムはあきれたふうに、こちらを見上げてきた。

「座ったらどうだ」

「いいや、座るまでもない。話し込んでいる時間はないのだ」

「では立っていろ」

 兄の口調で、イェズラムは命じた。リューズは自分の目元が苛立ちで痙攣するのを感じ、気を落ち着かせようと深い息を吸った。

「ちょうど俺も話があったところだ。お前が来たので、正装する手間が省けた」

 脇息にもたれて煙管を吸っているイェズラムは、彼が言うように、ごく質素な平服を身につけていた。

 リューズに会うには、正装して広間に行かねばならないし、本題に入る前に、宮廷儀礼に従った口上を述べなければならない。イェズラムはいつもそれを億劫がって、用があれば、竜の涙の若い者を使いに寄越して代弁させ、リューズのほうに用があって、広間に呼びつけようとすると、もはや竜の涙による病状が深刻で、自力では立ち上がることもできないと嘘の返事を寄越した。

 その癖、気が向けばいつまでも、広い王宮のなかをぶらぶら散歩している。

 即位間もないリューズを助け、緒戦でめざましい活躍を見せた彼は、押しも押されぬ部族の英雄だった。いつも若い魔法戦士たちを取り巻きとして連れており、リューズとすれ違っても、挨拶もしようとしなかった。そんな彼の尊大を許さねばならぬのは、リューズにとっては癪だったが、竜の涙たちに強権を与えるのは先祖代々の伝統であり、民は彼らの奔放さを愛している。

「それで、リューズ。お前が先に話してもいい。どうせ他人の話をおとなしく聞けるような気分ではないのだろう」

 その通りだった。リューズは目元を揉んで、長いため息をついた。

 イェズラムの居室の外には、予定を管理している侍従を待たせてあった。いらいらと足踏みをしている姿が、ありありと想像できる。

「座ったらどうだ」

 煙管をくわえて、イェズラムが薄く笑いながら言った。

 あきらめて、リューズは客のための円座にどかりと腰をおろした。

 イェズラムの部屋は、昔、乳母にあやされて遊んだ頃と同じだ。宮廷での権力に見合った居室に移ることもできるのに、イェズラムは面倒がって、いつまでもこの部屋で寝起きしているのだった。

「籤の話か」

「そうだ。籤にはスィグルの名が本人の筆跡で書かれていた。箱を管理していた官吏を内々に詮議させたら、俺の妻たちに脅されて籤を次々入れ替えたというのだ」

「そうか、ありそうな話だ」

「そのような不忠者は処刑しなければならない」

 リューズが断言すると、イェズラムは、やれやれという声が聞こえてきそうな仕草で、煙管の灰を盆に打ち落とした。

「それでまた籤引きか。そしてまた不正。そして処刑。そしてまた籤。不正。処刑。籤。お前も暇だな」

 イェズラムはのんびりとそう言って、しどけなく脇息にもたれかかり、あくびをした。

「籤引きで人質を決めるなど馬鹿げたことだ。お前が自分で選べば済む話だった」

「どうやって選べというのだ。どの子を生け贄にするか、俺に選べというのか」

 リューズの声を聞きながら、イェズラムはうなだれて顔をこすった。

 彼の右反面を紫色の石が覆っており、イェズラムは隻眼だった。表情のない石の反面を向けられると、リューズはなにか薄ら寒い気持ちに襲われた。

「族長ともあろう者が、ずいぶん甘っちょろいことを言うじゃないか。黒い悪魔が聞いてあきれる」

 疲労したふうなイェズラムの声は、こぢんまりとした部屋にくぐもって響いた。

「とにかく……」

 リューズは口ごもった。

 イェズラムが族長の呼び出しを蹴るのは、面倒だからだと思っていたが、どうも本当に具合が悪いようだった。忙しさにかまけて、しばらく見舞っていなかった。

「人質選びは、やりなおさなければ」

 力ない小声で、リューズは話を閉じた。

「その話のどこに、俺への相談事があるのだ。愚痴じゃないか」

 小言のように、イェズラムが指摘した。リューズは面目なかった。

「何度やっても同じだ。本人が行くというのだから、行かせてやったらどうだ」

 投げ遣りに、イェズラムは言った。リューズは顔をしかめた。

「スィグル本人が行くと言ったわけではない」

「すっとぼけるな。お前の息子は、わざわざ不正をしてまで、籤に自分の名前を書くほど馬鹿なのか。俺なら自分がいちばん憎いやつの名を書いてやる。死んでも惜しくないようなやつの名をな。お前ら王族が仲良し兄弟か? 継承争いの敵だろうが」

 リューズは沈黙した。

 スィグルは昔から、利発な子だった。どこか奇矯なところがあったが、それは自分に似たのだとリューズは思っていた。母親がしたお伽話をいつまでも本当の話だと信じていたり、博士たちの講義をさぼって、宮廷の扉の絵を山のように描いてまわったりと、年齢にふさわしくない自由奔放さはあっても、博士たちは口をそろえてスィグルを利発だと言った。

 一度、皆の前で絵をほめてやったら、毎日なにか描いて届けてきた。子供にしてはひどく上手いような気がしたが、それも親馬鹿だったのか。

 今となってはもう、昔の話にすぎなかった。スィグルはもう絵を寄越してこなくなったからだ。

「薬缶(やかん)の絵の子だろう」

 新しい薬を煙管に詰めながら、イェズラムがぼんやりと訊ねてきた。リューズは回想に沈みかけていた自分から、我に返った。

「……ああ、そうだ」

 昔イェズラムに見せたスィグルの描いた絵は、薬缶の絵だったのだ。スィグルは何かの気の向きで、決まったものばかりを描き続ける癖があるようで、一時期届く絵は全て薬缶ばかりだった。毎日違う薬缶が描かれてあるのを見て、リューズは宮廷にはこれほど様々な薬缶があるのかと呆れたものだった。

「人懐こい子だったがな」

 過去形で言って、イェズラムは煙管に火を入れた。

 スィグルは薬缶に飽きると、宮廷にいる者を片端から描くようになった。その絵はどれも驚くほど似ていた。おそらく見たものを憶えて、そのとおりに描く才があるのだろう。

 かつてイェズラムは、昼寝しているところをスィグルに描かれたことがあった。彼は案外その絵が気に入ったようで、大人になったら絵師になればリューズが喜ぶだろうと、スィグルに感想を述べたそうだ。それでスィグルは王宮の壁に壮大な落書きをして、母親を消沈させ、リューズを笑わせた。

「籤引きというのは、案外、賢明だったのではないか。不正も含めて。兄弟たちが争った結果、この宮廷で、もっとも力のない者が選ばれたのだ。誰も文句を言うまい」

 イェズラムの言うとおりだった。リューズは重くなった頭を支えようと、額に手をやり、そこにある族長冠に触れた。

「官吏を殺すなよ。不正はその者の責任ではない。お前が優柔不断だからいけないのだ」

 煙管をふかすイェズラムの顔を、リューズはうつむきがちに眺めた。

 昔は指図がましいこの男の口ぶりが嫌でたまらないこともあったが、誰一人として自分に命じる権利のなくなった今となっては、その尊大さが有り難かった。

「そちらの話はなんだったのだ、イェズ」

 鬱陶しくなり、リューズは族長冠を引き剥がした。

 眠たげな顔をしたイェズラムが、ごろりと身を横たえた。

「今度にしよう。今話したところで、どうせお前は失念する。俺は寝る」

 紫煙を吐きながら、寝心地の良い場所をごそごそと探している英雄を、リューズは背をまるめて見下ろした。

「吸いながら寝ると焼け死ぬぞ」

「それはそれで何かの報いだろう」 

 ぼんやりと眠りに落ちる声で応え、イェズラムは腕を枕にした。

 彼は火炎を使う魔法戦士で、戦場では幾多の敵兵を焼き殺してきた。戦場に踊る火炎は、いつもリューズを勇気づけた。そこでイェズラムが戦っていたからだ。

 だが近頃の戦場では、それを見ることもなくなった。イェズラムはすでに蓄えた英雄譚(ダージ)にすっかり満足して、参戦もせず、宮廷で昼寝しているほうを選んでばかりいるからだ。臆病者の誹りなど、イェズラムにはどこ吹く風だった。彼が臆病でないことは、幾多のダージが証明している。

 かつて心強く支えてくれたものが、永遠にそうであるとは限らない。なにもかも過ぎ去っていく。イェズラムは戦わなくなり、スィグルは絵を描かなくなった。

 息子が永遠に薬缶の絵を描いていればよかったのだが。

 リューズは手をのばして、もう寝息をたてているイェズラムの指から煙管をとりあげ、盆の上に移してやった。

 扉の外では、今ごろ侍従が泣いているだろう。

 玉座に戻って、待たされた者たちの激怒をなだめてやる頃合いだった。

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