第9話 ー千客万来の章 1- 忘れたころにやってくる

 中秋の名月が稲刈りの終わった田畑を煌々と照らしていた。今宵は満月。人間たちの奥深くに眠る遺伝子を呼び覚ますには頃合いだったのかもしれない。その満月の下、男と女のふたりは、田畑のあぜ道を駆けていた


「こっちだ!急げ!」


 男のほうが荒げた声で叫ぶ。対して女は


「む、むり!も、もう走れない!」


「お前、こんなところで捕まっていいのか?運命に抗うって言ってたろ!」


「で、でも、もう足が」


 ちっと短く男は舌打ちし、腰を落とし身をかがめ


「乗れ!おぶさってやる!」


「え、え、ええ!?い、いいの?」


「こっちは毎日、俵かついで走ってんだ、女のひとり、どうってことはないぜ。ほら、急げ」


 女はおずおずと、男の背中に体重を預ける。頬の温度が少しあがり紅潮してくる。


「あ、ありがと。なんか色々、世話になっちゃって。でも、お前、いいのか?」


 男は、へっとこぼし


「俺の心配より、自分の心配してな。それじゃ、いくぜ!」


 男と女は先の見えない道を進んでいくのだった。



 時はここより遡り、一か月前の1560年8月初旬。清州きよす城にてとある会合が行われていた。


「現在、ここ、尾張おわり領内で、やや困ったことがおきてます」


 信長が右手にもった扇子で頭をかきながら


「兵士たちからの不満の声が、ここ最近、急に上がってきています」


「給金、上げろってか?」


 信盛のぶもりはあごを右手でさすりながら、面倒くさそうに言う


「うっほん!ちゃんと役割に見合って支払っておるのじゃ。そこが不満と言われてもこちらが困るのじゃ」


 机を前に正座し、そろばんを片手に何やら帳面に記帳しながら、役人風の体をした村井貞勝むらいさだかつがそう答える


「2か月前に大戦をおえたばかりじゃ。城の修復やら亡くなった兵士の家族への補償などなど、とてもではないが、給金上昇には応えられないのじゃ」


「村井殿。拙者が調べたところ、どうやら、給金の話ではないようでござる」


 貞勝さだかつと同じく、役人畑の前田玄以まえだげんいである。


「では、日頃の鍛錬が厳しいともうすのか?」


 20キログラムはあるであろう、米俵をダンベルがわりに右腕で上下させながら柴田勝家しばたかついえは言う


「織田家の訓練、きびしいからねー。朝起きたら、まずは米俵かついで5キロマラソンだからなー」


 織田家歴代武将といえども、もれなく、この訓練は欠かさずやっている。農民上がりの兵は、馬を扱えること者などほぼいないと言っても過言ではない。そのため、織田家では、行軍速度を上げるためにも、毎朝のマラソンを日課づけているのである。

 桶狭間の奇襲が成功したのも、日頃、鍛えた健脚が支えになったことは想像にかたくない。


「うっほん。役人もやらされるのは、ほんと酷なのじゃ。是非、訓練内容の見直しをお願いしたいのじゃ」


 貞勝さだかつが、殿とのに泣きつく


「駄目ですよ。最低限、これができなくなったら強制引退してもらいますからね」


 あふんと声を漏らしながら、貞勝さだかつは、再び帳面との格闘を始めた。


「じゃあ、勝家かついえ殿は生涯現役か。うらやましいねぇ」


 信盛のぶもりは夏本番の蒸しつく室温のなか、団扇をぱたぱたと仰いでいる。


「なにをもうすか。お主は織田家の支柱のひとつ。早々に引退など、させはせぬぞ」


 勝家かついえはじと目で信盛のぶもりをにらむ。へいへいと信盛のぶもりは答えつつ


「まあ織田家は厳しい訓練のおかげで成り立ってる部分があるんだし、それにお給金もらっている以上は、見合った働きをしてほしいよね」


「勝って兜の緒をしめろとももうす。訓練の量は増えども、減ることはそうそうない」


 勝家かついえがうんうんとうなづきながら、話をしめる


「く、訓練も、だ、大事ですが、きゅ、休息も大切です」


 下座から木下秀吉きのしたひでよしが進言する


「な、南蛮渡来の書には、き、筋肉というのは、訓練だけではなく、きゅ、休息をはさむことによって、よ、より成長しやすくなる、と、のことです」


 秀吉が続ける


「と、特に勝家かついえさまは、趣味までが筋肉鍛錬。それでは、筋肉が、な、泣いてしまします!」


 勝家かついえがほほうと感心している。まさか猿と筋肉談話できるとは


「では、そちになにか案があるともうすか?」


「は、はい!き、筋肉鍛錬を終えた後は、よくもみほぐすことにより、き、筋肉にたまった疲れをすばやく抜くことが、で、出来るらしいです」


 ふむふむと勝家かついえはうなづきながら、先をうながした


「そ、それと柔軟運動が、だ、大事になってきます!」


「柔軟運動と筋肉訓練に関連があるともうすか」


「は、はい!身体の柔らかさは、け、怪我をしにくくなること関連し、します」


 秀吉はだんだん顔を紅潮させながら続ける


「堅い筋肉だと、訓練中に肉ばなれなどの怪我を誘発し、します。しかし、や、柔らかいき、筋肉は、そういったことは起こりにくくな、なるそうです」


「か、勝家かついえさまは、まず、柔軟運動を、と、取り入れてみてはいかがでしょう、か」


 勝家かついえは、うむと言い


「そちの進言、ありがたく承ろう。さすれば、どのようにすればよかろうか?」


「こ、こちらに【ふたりでおこなう夜の柔軟運動byザビエル】の写本があ、あります。こ、これをいまなら1貫でお譲りします」


 信盛のぶもりはふっかけたなーと思った。戦国時代の1貫とは現代日本で換算すれば約10万円である。洋書の原本は大名クラスでもなければ買えない。世に出まわっているものはその写しか、さらにその写しである。されどさすがは洋書、値が張る。


「ううむ、致し方なし。買った!金はあとで部下にでも家に届けさせる」


 うっきーと秀吉は喜ぶ。商談成立である。勝家かついえは写本をうけとり、さっそく表紙をめくって2、3頁見たところ


「ひ、秀吉、き、きさま、これは!!」


 勝家かついえと秀吉は固く握手をした。勝家かついえは写本を閉じ、いそいそとふところにしまったのであった。


「おもしろそうですね、先生も1冊、もらえませんか?」


 秀吉は、おそるおそる、信長に写本を手渡す。信長はどれどれと、中身をみると、突然


「ぶふーーーーーー!」


 盛大に口に含んだお茶をふきだした。


「ひ、秀吉、あ、あなた、なんていうものを!!」


 おびえる秀吉に、信長は手を差し伸べた。おそるおそる、秀吉がその手をとると、ガシッと両手で握られ


「先生、3冊買います。お金はあとで近習きんじゅうのものに、家へ届けさせます」


 おっほん、と、前田玄以まえだげんいが咳払いをした


「えー、話が脱線していますので本題に戻っていいでしょうか」


「ああ、すみません。つい先生としたことが、みっともないところを」


 信長は襟を正し、一つ咳払いをし


「筋肉、もとい、どうやら訓練のことでもないようです」


「じゃあ、いくさがしたいのか?」


 信盛のぶもりは聞く


「大戦がおわったあとで、織田家うちには余力がないはずだ。勲功ほしさに青田刈りでもさせろってか?」


 隣国の国力を削ぐ目的で、収穫前に国境近くの村を襲い、田畑を荒らすのは、戦国時代ではめずらしくはない。だがしかし、信長の代になってからは、信長自身で積極的にこの策を用いることはしてこなかった。


「北は美濃を治める斉藤義龍さいとうよしたつ。東は代替わりした今川氏真いまがわうじざね。代替わりしたとはいえ、いまだその軍は精強だ。それなら西か?」


「攻め先はここでは置いておいて、先生、他国といえども、あまり民が困ることはしたくないのですよね」


「だが、兵が強く求めるなら断りきれなくなるものだ」


「そのときは、先生。見せしめにその兵、2、3人、斬り殺しましょうか」


 殿とのなら本当にやりそうで怖い。


「そうか。そういうことなら、じゃあ、いくさがしたいってことでもないわけか。ならなんだ?」


 前田玄以まえだげんいが、では、と続く


殿とのが兵たちとした約束をいまだ果たしてないからでござる」


「約束?なんかあったっけ」


 殿とのがあらぬ方向に見ながら口笛を吹いている。この馬鹿、またなんかやりやがったな!

 信長は皆のほうを向き直し、困り顔で


「先生、ちょっと波に乗ってたといいますか…、調子に乗ってたといいますか…」


 信長はめずらしく歯切れが悪い。


「うっほん!身から出た錆なのじゃ!」


 逆にめずらしく貞勝さだかつが強気である


「桶狭間に出陣の際、殿とのが兵士たちに約束した件のことじゃ!」


金子きんす3枚の件か?それをけちったらだめだろう」


「それはしっかり払ったのじゃ。問題は他にもある。むしろ、大問題じゃ」


 あれ?なんかあったっけ


「合同婚姻会。略して合婚ごうこんの件じゃ」


 あああああと信盛のぶもりは宙を見上げたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る