第2話

 それから一週間は何事もなく過ぎた。ブラットは今までより早く出勤し、カイルは新しい学校へスクールバスで通い、メリッサは引っ越しの荷物の整理の毎日を過ごした。

 住宅地から少し外れた場所だったので親しい隣人はいなかった。

 「ただいま」

 カイルが学校から帰ってきた。カイルはいつもの通り2階の部屋に入りカバンを置いてベッドで横になりながら携帯ゲーム機で遊び始めた。

 近くで物音がした。カイルは起きてドアを見ると閉めた筈なのに開いていた。立ち上がってドアを閉めて振り向くと棚に飾ってあった筈のぬいぐるみがベッドの上に並んでいた。

 犬や猫やピエロの顔がカイルを見上げていた。

 不思議そうにカイルはぬいぐるみを手に取り棚に並べていると名前を呼ばれた気がしたので振り向いた。

 そこには白い服の少女が立っていた。少女は悲しい表情をしていた。

 「誰?」

 カイルは少女に訊くと少女はゆっくり歩いてドアをすり抜けた。

 「カイル、帰っていたの」

 メリッサがドアを開けるとカイルが床に倒れていた。

 「カイル!」

 メリッサは慌ててカイルを抱きかかえて叫んだ。

 「あっ、ママ」

 カイルは目を覚ました。

 「どうしたの。びっくりするじゃない」

 メリッサは動揺を隠してカイルに話し掛けた。カイルは辺りを見回した。棚にはぬいぐるみがいつも通りに並んでいた。

 「ううん、何でもない。トイレ」

 カイルは起き上がって部屋を出た。メリッサも立ち上がって部屋を出ようとした時

 『ジェフは良かったか?』

 壁に書かれた赤い文字が目に入った。

 メリッサは息を呑み目を閉じた。再び開けた時には壁に文字はなかった。


 この家に来てからメリッサは時々視線を感じていた。引っ越したばかりでストレスが溜まっているからだと思っていたが何か違和感を抱いていた。その晩メリッサは夢を見た。

 両親と庭で遊んでいた。白い壁に大きな窓の家、それは子供の頃に住んでいた家だった。

 両親の眩しい程に輝いた笑顔を遮る様に水の波紋が広がり、メリッサは深い水の底に沈んだ。

 メリッサは声を上げて起き上がった。寝室は静寂の空気が流れていた。

 「私、どうしたのかしら」

 メリッサは頭を抱えた。


 翌朝、朝食の準備を終えたメリッサはカイルを起こしに部屋に行った。

 「カイル、食事よ」

 メリッサはドアを開けるとハッと息を呑んだ。部屋の中は嵐が来たかの様に本やおもちゃが辺り一面に散らかりベッドのそばでカイルが横たわっていた。

 「カイル!」

メリッサはカイルを抱きかかえた。カイルはゆっくり目を開けて眠そうな表情でメリッサを見た。

 「これはどうしたの?」

 メリッサが怒って訊くとカイルはぼんやりした表情のまま答えた。

 「夕べソフィと遊んだんだ」

 「ソフィ?」

 「うん、いつも夜になると女の子が遊びに来るんだ。その子がソフィ」

 「おい、どうしたんだ。大きな声で」

 ブラットが部屋に入って来た。

 「ああ、こりゃ派手にやったな。どうすればこんな風に散らかるんだ」

 「ソフィと遊んだんだ」

 カイルの答えにブラットの驚きの表情が少し曇った。

 「誰なんだ。その子?」

 「その子?誰も子供なんて言っていないわ。どういう事?」

 「いや、この有り様から思った事さ」

 メリッサの勘ぐる様な眼差しにブラットはたじろきながら答えた。

 「わかったわ。とにかく食事にしましょう」

 メリッサは不機嫌な表情で立ち上がって部屋を出た。

 朝食を終え、カイルは学校へ行った。メリッサはカイルに学校から帰ってきたら部屋を片付けるようにきつく言った。

 「さっきの言い方、少しきつくないか」

 ブラットはネクタイを整えながらメリッサに言った。

 「どうして?あんな風に散らかしたらきつく言うのは当然よ。あなた、親からそんな風に言われた事ないの?」

 「何を苛立っているんだ」

 「私はただ注意しただけなのに、何で悪く言うの」

 メリッサの怒りが込み上げてくるのをブラットは感じた。

 「すまない。慣れない生活で疲れているんだよな」

 「いえ、ごめんなさい。私もどうかしていたわ」

 ブラットの優しい口調にメリッサは我に返り、ブラットの背中に手を回した。

 「明日は三人で街へ出かけよう」

 「ええ、そうね」

 「じゃ、行ってくるよ」

 ブラットはメリッサの額にキスをするとカバンを持ってリビングを出た。


 メリッサはブラットの車が出る音を聞きながら台所で洗い物をした。そして掃除機を持ってカイルの部屋に入った。カイルには片づけるように言ったが一人では無理だろうと少しだけ手伝う事にした。

 本を重ねているとまた視線を感じた。何か背後にいる気配がしたがメリッサは振り向くのが怖かった。冷たい気配が背中に伝わって来た。メリッサは震える手で本を重ねた。その気配がゆっくり近づいてくるのを感じた。メリッサは恐怖に耐えて本をまとめた。背後の気配が消えた。メリッサの緊張がふっと緩んだ。

 「ジェフのセックスが忘れられないのだろう?」

 メリッサの耳に男の囁き声が入ってきた。メリッサは表情がこわばり思わず振り向いた。

部屋には誰もいなかった。メリッサは震える両手で顔を覆った。なぜか涙が溢れだした。

 メリッサは部屋の掃除をやめてリビングのソファで横になって天井を眺めた。

 少しすすけた白い壁の天井はこの家の歴史を物語っている様な崇高さが漂っていた。

 その天井にまた赤い文字が浮き出てきた。

 『ジェフを愛していたのか?』

 「ジェフ…そうね。昔の事だけどね」

 メリッサは何も考えず答えた。不思議と恐怖は感じなかった。メリッサの声に反応して文字が崩れながら変わった。

 『ジェフが死んだからブラットを好きになったのか?』

 「違うわ。ブラットはブラット、彼じゃないわ」

 『もしジェフが生き返ったらまた愛するか?』

 「そんなありもしない事を考えても仕方ないでしょう」

 メリッサが答えると文字が粒子状に崩れてジェフの顔になった。唇の部分が動いた。

 「メリッサ、愛しているよ。キャンパスの隅でいつも一緒に食事したね」

 唇は動いているが声はしない。だがメリッサはそう聞こえた。

 「ジェフはいつもチーズ入りのサンドが好きだったわね」

 虚ろな眼差しでメリッサが言うとジェフの顔が崩れて全身の姿に変わり、粒子状の体がゆっくりメリッサに近づいた。メリッサは何も驚かず、ただぼんやりと天井を見ていた。

 ジェフの顔がメリッサの耳元で止まって唇が動いた。

 「俺が死んでどう思った?」

 「悲しかった。本当よ。ただ悲しかった」

 メリッサのぼんやりした目に涙が溢れた。

 「またやり直せる。そう思わないか」

 「どうやって?あなたは死んだじゃない」

 メリッサは少し微笑んで答えた。

 「この家の中で会えるじゃないか」

 「これは夢よ。あなたの夢を見ているの」

 「そうだな。でもいつでも会える。それだけは覚えておいて」

 ジェフの体が砂塵の様に消えた。

 「ジェフ…本当は忘れていたわ。ごめんなさい」

 メリッサはゆっくり目を閉じてソファで眠りについた。

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