道訓

 真夏の蒸し暑い日差しの中、望は防具一式を身に纏い、彦七郎の攻撃を躱していた。

「おい望、危ねーぞ! いいか、練習だと当たっても痛いで済むがな、本番だったら取り返しの付かないことになるぞ」

 彦七郎が注意する。

「大体、攻撃躱してるだけじゃなくて、ちゃんと反撃しろ! 押されてるだけじゃねーか。次は突くのか蹴るのか、どっちにするのか瞬時に判断して行動しろ! そんなんじゃ、体力尽きて、途中でくたばっちまうぞ」

「は、はい!」

「ほら、もっと気合い入れて突け!」

 二年前、修行を始めた時はまだ基本の練習ばかりで、決まった動き――【型】を覚えて体を動かすだけであったが、あれから二年経った今は違う。望の経験値も上がり、今ではより実践的な修行をしている。今まで習った型や、自分の瞬時の判断力に基づいて、来た攻撃を躱し、反撃を与える、というものだ。ハードなものである為、望はまだ出来ない。反応速度も遅く、躱しきれなかったり、躱しても反撃した手や足が届かなかったり、と。

 そんな望は、早速今日も彦七郎の蹴りを躱しきれず、吹き飛ばされた。いや、突き飛ばされた、という表現が正しいだろう。彦七郎の蹴りは、ズンという重みが有り、望のような細くて軽い体では簡単に押し出され、およそ三メートルの後ろ歩きをした後、足を滑らせて転んでしまう。しかしこれでも二年前よりは逞しくなっているのだ。

「ほら、早く立て」

 言いはしても、彦七郎が手を差し伸ばすようなことはしない。

「休憩にするぞ」

 二人は、修行前に設置した、折り畳み式の椅子と机があるところまで行き、そこで汗を拭き、スポーツドリンクを飲みながら、体を癒やす。

「なぁ望、休みの日に突然仕事が来たらどうする?」

 突然の問いかけだったが、即座に、

「自分にしか出来ないことなら、仕事を優先します」

 と返した。

「なら、家族や知人、それと仕事だったらどっちを優先する?」

 即座に返そうとしたが、それを押さえた。

「それって・・・・・・、どういうことですか?」

「どっちの時間が大切か。どっちが人間らしいか。どっちが人として正しい姿か。」

「難しいですね・・・・・・。僕にはまだ、判らないです」

「そうか、お前にもまだ判らないか・・・・・・」

「彦七郎さんも判らないんですか? そりゃ僕にも判らないですよ」

「決め付けるな! 何事も決め付けるなと普段から言ってるだろ!」

 鋭い目つきとともに、叱責が飛ぶ。

「お前みたいな、若い奴の方が良い事を言う時もある。現にお前は、俺が考えもしないようなことを考えてるじゃないか」

「え?」

「お前が鎮魂隊に入る時に言った、英雄の話だよ」

 確かに、と望みは思った。

「でも、仕事とかはまだしたことないですし、若すぎて判んないです」

「そうかもな」

 と一息吐き、

「じゃ、そろそろ再開しますか」

 と立ち上がった。


      卍


 八月も終わる頃、いよいよ二学期が始まった。一年生の時と違い、教室に一番最初に入るのは望だ。彦七郎と出会ってから、生活リズムも良くなった。そしてそれが今では、普段の望の姿である。

 しかし、周りの人間はそうではなかった。後から入ってきたクラスメイトの様子がおかしい。それも一人や二人ではなく、時間が経つとともに、その異常さは膨れ上がっていた。望を囲む全方位から、好からぬ視線を感じる。普段からよく話をする友達の勝也に声を掛けようとするが、望を拒絶しているのか、近づこうとしただけで、そっぽを向いてどこかへ行ってしまった。

 何か悪いことをしただろうか?

 勝也がどこかへ行ってしまったので、別の友達に「何かあったの?」と尋ねてみた。

「え? まぁ、色々あったでしょ。ところでさ、楽しかった?」

 友達がニヤニヤしながら言う。

「え?」

 望が小さく発する。

「毎日一緒に和菓子食べたり、色んな場所に連れまわしちゃったりしてさ」

「え、だから何のはな・・・・・・」

「一年の頃は、物凄く弱々しくて消極的だったのにさぁ。今ではすっかり遣り手になっちゃって・・・・・・」

 すると別の友達が、

「聞いた話によると、箱根に一泊しちゃったらしいじゃん」

 と、二人の会話に割り込んでくる。

「マジで?」

「それはヤバいわ」

「お前、流石にそれはまずいだろ」

「望に先越されちまったな」

 気付くと、教室中の男子がそこに集まっていた。廊下では、他クラスの生徒が見ている気配がする。ところで、みんなは何の話をしているのだろうか。全くもって身に覚えが・・・・・・、いや、ある。【箱根に一泊】という言葉にピンと来た。九尾桐子だ。夏休み、僕は修行の一環で箱根での合宿に行っていた。そこに、桐子もいた。

「あ、あれは・・・・・・その・・・・・・」

 望は咄嗟に説明しようとする。

「何だ何だ? 言い訳か?」

 と、誰か言ったとき、勝也がその話に割り込んで来た。

「おい、望。やっぱりその話本当なんだな。見損なったよ。アイツだって、お前のこと・・・・・・」

 と、勝也が持永いくみの方へ目線を動かす。望がそちらを向くと、持永は目線を逸らした。

「いや、ちょっと、言いづらいんだけど、実は・・・・・・」

 朝のホームルーム開始を知らせるチャイムが鳴り、会話はそこで遮られた。

 結局その日は、みんなから変な目で見られ、攻められ続けた。いや、その日だけでなく、次の日も、また次の日も。言い出せるわけなかった。鎮魂隊に入っているなんて。何度か、言い出そうとしてはみたものの、そんなことを言ったら、それはそれで批難されるかも知れない。メディアは普段から鎮魂隊を叩いているし、その存在を良しと思っている人は少ない。いや、そもそも何をしている組織なのか、公式には一切不明なのだから仕方ない。いっその事、鎮魂隊のことも全て言ってしまおうかとも思ったが、妖怪退治をしてます、などと言っても信じてもらえるはずない。でたらめを言ってると馬鹿にされるだけだ。写真を撮っても合成扱いされるだけだろう。

 望は、もうどうして良いか判らなくなっていた。


      卍


(ごめん。桐子とは、別にそういう仲じゃないんだ)

(今度、持永にはちゃんと話すから、長崎屋に来てくれない?)

(そしたら、箱根でもどこでも行きたいとこ行こうよ)


 メッセージを送ってから、一週間は経つ。未だに既読が付かないその画面を、ベットの上で寝転がりながら、飛鳥望は眺めていた。

「あー、全然返信来ない。学校では話しかけようとしても、すぐどっか行っちゃうし、周りでみんなが自分を見てる感じがして、どうも声を掛けられるような雰囲気じゃないし・・・・・・。僕はどうすれば・・・・・・」

 と、そんな時、携帯に電話が掛かってきた。

「お、持永?」

 と思ったが、発信主は彦七郎であった。望は溜息を吐く。話の内容は分かっていた。だから電話に出るか出ないか迷った。

「はい、もしもし」

 流石に、無視するわけにはいかなかった。

「どうした? 声が暗いな。修行の時間、もう過ぎてるぞ」

「はい。すみません。すぐ行きます」

 そう言って、望はゆっくりと家を出て行った。


      卍


 同じ頃、LINEの返信を待っている女子高生がいた。

「返信・・・・・・、来るわけないかぁ」

 持永いくみは呟いた。持永の持つスマフォの液晶画面の一番上には【コタロー】とある。

「ねぇ虎太郎。私はこれからどうすれば良いの?」

 言いながら、今度は写真のアプリを開く。四年程前から存在する、彼や彼との写真を眺める。泣きながら、こうなったのも望のせいなんだ、などという思考が頭の中を巡る。

「望が・・・・・・、はっきりしないで、うじうじしてるから・・・・・・」

 最初はそれでも良いと思ってた。頼りがいがなくても可愛いと思ってた。でも、流石に鈍感すぎるし、いつになってもうじうじしてるのを見てると、イライラしてくる。どうしようもなく・・・・・・。だからちょっと、気分転換をしてみたくなった。そんな時、優しくて、明るくて、しっかりしてて・・・・・・、そんな人が私の目の前に現れた。それが虎太郎だ。

 私は別に悪くない。だって、望は私を友達としてしか見てくれない。だったら私が虎太郎と仲良くしてても何とも思わないだろう。実際、たった一ヶ月だったが、望が何か言ってきたこともなかったし、焼き餅を焼いているような様子もなかった。

「望の・・・・・・、ばか・・・・・・」

 持永はスマフォをベットの脇に置き、そのままベットに倒れ込んで、瞼を閉じた。


      卍


「おい、望! どうした? ぼうっとするな」

「あ、はい」

「今日はおかしいじゃねーか。何か悩み事でもあるのか?」

 彦七郎は練習を一時中断し、望に問う。

「それが・・・・・・、その・・・・・・、学校と鎮魂隊、どっちを優先すべきなのかなって、思っちゃって・・・・・・」

「どっちもやると決めたんじゃなかったのか?」

「正直、両立させるのが厳しくなってきてて」

「ま、そりゃ高校三年生にもなりゃ、厳しいか」

「いえ・・・・・・、高校三年生というのはそこまで関係ないんです。というよりも、友達関係の話で・・・・・・」

「友達関係?」

「鎮魂隊に入っているせいで、色々と誤解が生じてしまっているんです」

「どういうことだ?」

「箱根合宿していたことが、何故か学校中のみんなに知れ渡ってて、僕が桐子と遊び歩いてると思われてるんです。桐子には勝也というボーイフレンドがいるのに。僕には持田がいるのいに・・・・・・って」

「なるほどな」

「元々僕は、虎太郎が死んで、元気を失ってしまった持永や勝也、みんなの笑顔を取り戻す為に強くなろうって思って鎮魂隊に入ったのに・・・・・・、僕のせいで、またみんなを悲しませちゃったら意味ないじゃないか・・・・・・って。だったらいっその事、鎮魂隊を辞めちゃった方が良いのかなって。そうすれば桐子ともこれ以上関わることもなくなるわけだし・・・・・・」

「望、もう帰れ」

 彦七郎が、鋭い眼光で望を見つめる。

「え?」

「聞こえなかったのか?」

「あ、いえ・・・・・・」

 望も彦七郎の目を見つめ返す。

「今のお前はこのまま修行を続けられる精神状態にない。そんな奴は、こんな事とっとと辞めた方が良い。どっちにしようか、なんて言ってる奴には務まらないんだよ!」

 叱責も喰らうことは普段からよくあるが、ここまで強く言われたのは初めてである。

「す、すみません。僕は・・・・・・」

「いい! 今日はこれで終わり。今後も一時休止だ!」

 望は俯き、黙って帰る支度をし終えると、いつも通り彦七郎に向かって合掌をし、

「ありがとうございました」

 と言った。しかしその声は、いつもと違ってかなり小さく、少し震えているようだった。

 望は自転車にまたがり、その場を去って行った。


      卍


 遠くから見ていたのか、彦七郎の目の前に、榎澤みかりがひょっこりと姿を見せる。

「いつになっても、はっきりしないんだね」

 彦七朗にへそを向ける。

「望が、か?」

「ううん、違う違う。彦七郎くんの事だよ」

 榎澤は首を振って言う。

「どういう事だ?」

「なんて言うか・・・・・・、ああいう言い方しなくてもなって。もっと素直に言えば良いのに・・・・・・。悩んでることがあるなら、今日は休みにしてやるからじっくり考えて来いって。そう言えば良いのに・・・・・・」

「あれくらいで良いんだよ。鎮魂隊は、命を扱う仕事はそう甘くはない。どうせ辞めるなら、早めに辞めてもらった方が、俺としても、アイツとしても、良いことなんだ。それに、たまには師匠としてビシッと言ってやらないとな」

「そうかもね。私には一生解らない世界だわ」

 言って、榎澤はその場を後にした。


      卍


 月曜日。二学期の通常授業開始とともに、望の過去最高に気分の悪い日々が始まった。周りからは、未だに桐子とのことを聞かれ、学校の授業は、大学受験に向けてよりいっそう難しくなり、持永からは未だに既読が付かず、彦七郎さんには怒られてしまっていて会うことが出来ず・・・・・・、そんなことで頭がいっぱいだった。そう言えば大学も、どこを受験するか決めてはいるが、どうも行ける気がしない。それは、学力の面でもだし、第一、大学に行けても鎮魂隊なんてやってられないのではないか。いや、そもそも鎮魂隊で修行をしながらで、受験対策など出来るだろうか。今は一時休止となってしまったが・・・・・・。やはり、鎮魂隊が私生活に支障を来している。鎮魂隊は辞めるしかないのか。そんなことを考えて一日を過ごし、俯きながら家へ帰っていた。

 そんな日が何日続いただろうか。二学期の中間試験が終わった翌日の土曜日、望は久し振りにお茶でも、と思い、長崎屋へ足を向けた。


      卍


 一ヶ月振り、いや、もっとだろうか。ここに来るのは。ここの人とも長いこと会ってない。持永から未だに既読・返信が来ていない事を確認し、一息吐いてドアを開けた。


      卍


「望くんじゃないか」

 と、懐かしいおやっさんの声とともに、お茶と和菓子が出された。

 暫くすると、店の奥から、彦七郎さんの学生時代の友達である、榎澤みかりが顔を出し、手招きされた。後を付いていき、望は今、長崎屋の地下――鎮魂隊山梨県本部にいる。

「どう、調子は? 最近は彦七郎くんとも会ってないみたいじゃない?」

 座って。と、榎澤さんに言われるがまま座ると、榎澤は座りながら望に尋ねる。

「それが・・・・・・、僕が、色々と情けないことで悩んでるから、もう帰れ、って。そんな奴は辞めた方が良いって怒られちゃって・・・・・・」

「それで」

「どっちにしようか、なんて言ってる奴には務まらないんだって。修行も一時休止だ、なんて言われちゃって・・・・・・。ただでさえ、心の整理が付かないことが色々あるのに・・・・・・」

「なるほどねぇ」

 榎澤は言った。

「望くんはさ、何か勘違いしてない?」

 予期していなかった返しに、思わず「え?」となる。

「彦七郎くんは、何も望くんが悩んでることに対して怒ったわけじゃないと思うんだよね」

「どういう事ですか?」

「逆なんだよね。彦七郎くんは、望くんに、もっと悩んで欲しいんだよ。もっと、もっと、もっともっともっともっと。悩んでなんとかなるのは若者の特権だから・・・・・・。だから、もっと悩めって意味で、帰れっていったんじゃないかな? だって、本当にダメだったら、修行は一時休止じゃなくて、とっくに辞めさせてるって。ああいう厳しい態度も、望くんの為。まだ見込みがあるからこそ言ったんだよ」

「でも・・・・・・」

「彦七郎くんはね、ああいう言い方しか出来ないんだよ。だって、四十過ぎにもなって車の免許も持ってないんだよ」

 榎澤は口元に手をやり、クスクスと笑う。

「だから、彦七郎くんは、本当に鎮魂隊の道に進むなら、どっちにしようか、なんて選択肢は無いって言いたいんじゃないのかな? その気があるなら両方やれ、そうじゃないとこの先務まらないぞって教えてあげてるんだと思うよ。勿論、鎮魂隊はもう辞めますって言うんだったら、どっちにしようかな、で良いんだけどね」

 榎澤は望の方を向き、微笑みかける。

「本当に厳しい世界だから・・・・・・。どっちにすべきか、常に選択が求められる。迷ってる暇なんて無い。場合によっては両方選択しなければならない。そんな事、日常だから・・・・・・」

「そういう、ことだったんですか・・・・・・」

 望が納得する。

「そう。彦七郎くんはね、今でも悔やんでるの。迷ってるだけで何も出来なかった自分を・・・・・・」

「どういう、意味ですか」

「彦七郎くんは・・・・・・、大切な人を二度も失ってるの」

「え?」

「一度目は、家族で山にキャンプに行ったある日、突然現れたコウモリの妖怪に、奥さんと息子を殺された。すぐ助けに行ける距離にいたのに、尻餅突いて、何も出来なかったって・・・・・・。当時三十になったばかりの彦七郎くんは、単なる生物学者の卵だったから」

「彦七郎さんにも、そんなことが・・・・・・」

「それから、高校時代からの仲である私が既に所属していた、鎮魂隊の研究・開発部門に所属してもらうことになったの。その時、私と彦七郎くんと同じ大学に通っていた彦七郎くんの親友、指宿いぶすきくんと再会したの。指宿くんも、私と一緒に大学卒業後すぐに、鎮魂隊に入っていたから・・・・・・」

「確か、その指宿さんって、未だに行方不明なんですよね?」

「そう、それが二度目。その時の彦七郎くんは、もしかしたら自分のせいなんじゃないかって、在りもしない罪を自ら被って、責任を背負おうとしてた。それから少し経ってからかな? 修行して、鎮魂隊の妖怪退治部門に入ってやる、なんて言い出したのは・・・・・・。ビックリしたよね、本当に妖怪を退治しちゃった、なんて聞いた時は・・・・・・」

 榎澤は、当時の資料を望の前に差し出す。いつ、どこで、誰が、何の妖怪を倒したのかが少し大雑把に記録されている横書きの表だ。もっと詳しいものは別にある。


[2005/01/30 大月にて、トビクラ発生。響尾おとお彦七郎(見習い)がこれを退治。それに伴い、長崎宗一が引退]


 と、榎澤が人差し指で指し示した場所には記されてあった。

「響尾彦七郎? 響尾さんって言うんですか!?」

「あ、そうそう。やっぱりまだ知らなかったか」

 榎澤が言う。

「彦七郎くんって、今でこそ強くて逞しいけど、結構望くんに似てるんだよね」

 しかし、榎澤の言葉は望には聞こえていないようだった。

「響尾・・・・・・、さん・・・・・・」

 丁度そこへ、誰かが走ってくる足音が聞こえ、次の瞬間、ドアが開く音とともに、

「大変です! 彦七郎さんが・・・・・・」

 おやっさんの娘、沙駒美の妹が地下室に一報を知らせにやって来た。

「どうしたの? 彦七郎くんがピンチって」

 榎澤が問う。彦七郎は今では、山梨一、いや関東一、いやいや日本一の鎮魂隊の戦士だ。大変だ、などという知らせは、今までに一度も耳にしたことがない。

「それが、姉上曰く、今までに前例がない大きさで・・・・・・。かなり苦戦しているようです。只今、山梨県中の隊員に応援を要請中です! その事を、一応お二人にも伝えておこうかな、と思いまして」

「分かったわ。望くん、行くよ!」

 言って、榎澤は望の手首を捕まえる。

「えぇ、あ、はい!」

 二人は、階段がある方へ向かって駆け出した。


      卍


 彦七郎は湖の中で戦っていた。その相手は、巨大なナマズだ。普段、彦七郎たちにはオオナマズと呼ばれている妖怪だ。名前の通り、普通のナマズよりも大きい妖怪なのだが、今回のオオナマズはそれより更に大きい。今までにない異常な大きさで、彦七郎の身長を軽々と上回っている。もはや山奥によくありそうな小屋と同じ位の大きさか。するとナマズは、突然イルカのショーの如く空中に飛び跳ねた。そして、陸上に着地する。ナマズにしがみついていた彦七郎も、陸上へ打ち上げられた。更に、ナマズの体が大きい為、地に落ちた時、大地が揺れた。彦七郎は、相当なダメージを受けたが、起き上がり、ナマズに対する攻撃を再開する。が、彦七郎の攻撃力は確実に弱まっていた。

 その光景を、少し離れた場所から見物している影がある。

「遂に、遂に更なる巨大化に成功した! 素晴らしい! これだけの大きさがあれば、これだけの大きさがあれば・・・・・・」

 声を荒げながら笑っている。その影が笑っているのを、後ろから来た影が制止させる。

「おい、何をやっている。勝手な行動は・・・・・・」

 後から来た影が息を呑む。その目に、異常なほどに成長したアリが映ったからだ。

「貴様、まさか・・・・・・」

「どうです? 素晴らしいでしょう? 言うなれば新たなる生命の誕生ですよ」

「馬鹿野郎!」

 後から来た影が、最初からいた影を殴る。

「何をするのですか!?」

「流石に超えてはいけないラインがあるだろう!」

「馬鹿なのですか? 私はあなた、あなたは私。私はあなたによって生み出された、あなたなのです。即ち、これはあなたがやりたかったことでもあるのですよ。あなたも心の底ではこの光景に感激しているはずですが?」

「違う!」

「そもそも超えてはいけないラインとは何ですか? あるとすれば、もうとっくに超えているのではないですか? 私にはあなたが、いえ自分が理解できません」

「ああ、もう。取り敢えずその杖を返せ!」

「これを返したら、あなたはどうなさるのですか? どうせ中止するのでしょう? 馬鹿はあなたです。実験を途中で放棄するなど、科学者としてあるまじき行為です」

「科学者としてではなく、まずは人として・・・・・・」

「あなたも私も、もはや人間では無いと思うのですが?」

「一緒にするな。お前たちの処分なんか、いつでも簡単に行えることを忘れるな」

「私が杖を持っていることも忘れないで下さい。人数も、私は多いですからね。あなたのおかげで・・・・・・」

 後から来た影は、唇を噛んだ。

 暫くすると、何台かの車やバイクが到着したのが見えた。

「まさかこんなに来るとは思っていませんでした。流石に厳しいですね」

 最初からいた影は、その場から去って行く。後から来た影もその後に続く。


      卍


 現地にはおやっさんの娘――沙駒美がいて、彦七郎を見守っている。沙駒美の妹から、榎澤と望へ一報を伝えられ、現地に向かうと、長崎屋から近い場所だった為か、望を乗せた榎澤の車が一番乗りだったようで、まだ応援は到着していなかった。沙駒美に「あっち」と誘導され、そちらに向かうと、まず目に飛び込んできたのは、巨大なナマズである。しかしそれは、今までの妖怪とは訳が違う。確か、江戸時代からある妖怪の資料にも、こんなに大きなものが発生したという記録はなかったはずだ。しかも、ナマズは水中ではなく陸上にいた。辺りには水が飛び散ったような跡がある。恐らく、ナマズが彦七郎ごと地上へ飛び出したのだろう。そんな巨大ナマズの腹を見てみると、響尾彦七郎の姿があった。その姿は、予期せぬ初めての相手に、疲れ切っているように見えた。動きにキレがない、望はそう感じた。

 すると、遠くから車やバイクの音が聞こえた。いよいよ応援が来たらしい。が、その時だった。巨大なナマズは自分の体にいつまでも纏わり付く響尾彦七郎を、まるで虫ケラのようにひれね飛ばした。

「響尾さん!」

 地面に転がった響尾彦七郎は、起き上がろうとしながら、望と顔を合わせた。すると彦七郎を大きな影が覆う。巨大なナマズの影だ。今、ナマズはそり立っている。そして、重力に従い、落ちていく。その下には・・・・・・。

「響尾さん! 響尾さん!」

 響尾彦七郎は、巨大なナマズの下敷きとなった。彦七郎がピクリとも動かなくなったのを確認した巨大なナマズは、こちら側には【背】・・・・・・ではなく【尾鰭】を向ける。と、両サイドに生えた大きな胸鰭を羽ばたき始めると、有ろう事か、空へ飛び去ってしまった。

「待て!」

 たった今、やっと到着した応援部隊の隊員達は、急いで追い掛けようと走ってきた。が、空へ飛んでしまっては、追いつけるはずがない。

「何か手は無いのか!?」

 隊員達は口々にそうぼやく。

 一方望は、響尾彦七郎の下へ駆け寄り、叫んでいた。

「響尾さん! 響尾さん! 響尾さーん!」

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