協議

「それじゃあ二人とも、20分後に来てくれるかな」

 二人の演奏が終わり、審査員たちでの話し合いが始まることになった。酒井団長に促され、内藤さんも宇沢さんも黙々と荷物をまとめる。

「俺ちょっと外に出てくるんで、なんかあったら携帯鳴らしてください」

 宇沢さんはそう言って、さっといなくなってしまった。取り残された内藤さんは、審査員の人たちにお辞儀をしてから扉を閉め出ようとした。でも、廊下の向こうにふと目をやって手を止めた。

 市民センターの職員の女性が、一抱えもある重そうな花瓶を持ってよろつきながらこちらへ歩いてくる。2階の休憩スペースに飾られている生け花を交換するみたいだけど、なぜかエレベーターではなく階段で下りていこうとしていた。

「大丈夫ですか?エレベーター使った方が」

 内藤さんが心配そうに声をかけると、女性は足を止めてよいしょと花瓶を抱え直した。

「今ねえ、エレベーター点検中なんですよ。いつ終わるかわからないから待ってられなくて」

 平気平気、と言いながらまた危うい足取りで歩いていくのを見かねたのか、内藤さんは私の入ったケースを音楽室の入り口際の床に下ろした。

「すいません、すぐ戻って来るんでちょっと楽器置かせといてもらっていいですか」

 そう言い残し女性を追いかけて行ってしまった。「手伝います」「あら、すいませんねぇ」という遣り取りが聞こえてきて、酒井さんが笑みをこぼしながら防音扉を閉めた。 


「……いい奴だよな、内藤君」

「そうですよね!それに比べて宇沢はさあ、調子に乗り過ぎなんだよあいつ。パートリーダーのくせに面倒なことはすぐ内藤に押しつけてさ」

 前島さんが我が意を得たりとばかりに鼻息を荒くした。

「押しつけるってほどじゃないけど……内藤さんも断れない性格ですしね」

 木管セクションリーダーの児玉さんは考え込むように首元に手を当てている。児玉さんは八反田さんと同年代で、普段はおっとりとしているけど意見ははっきり言う人だ。

「今までも目立つソロはずっと宇沢さんがやってたじゃないですか。実力はあるのに、内藤さんはあんまり自己主張しないから……今回はいい機会だと思うんですけど」

 そう言って、他の5人を見回した。打楽器セクションリーダーの御堂さんがしきりに頷いている。と言っても御堂さんのこれは合いの手みたいなもので、必ずしも賛意を示しているわけではない。

「確かに彼は楽団によく尽くしてくれてますからね。それに報いるのも我々の義務ではないでしょうか」

 堅苦しい物言いで意見したのは副団長の吉岡さん。会社では総務課長をしているそうで、楽団の運営面でその力を発揮している。


 成り行きで審査の場に居合わせることになってしまった私は、居た堪れなさと後ろめたさで身が縮む思いだった。聞いてはいけないと思うのに聞いてしまう。見てはいけないと思うのに見てしまう。

 言外に何かの同意を図ろうとする彼らの言い回しを、お互いに見交わす視線を。

 それらはこう言っている。とにかく今回は内藤さんにソロを、と。

 でもはっきりと大手を振ってそれを言わないのは、やっぱりみんなわかってるんだ。完ぺきではなくても粗削りでも、宇沢さんの演奏の方が魅力的だったということが。


「さっきの二人の演奏はどう思われました?」

 思惑飛び交う空気を払拭するように八反田さんが切り込んだ。その一言で、場に緊張が走る。

「どっちもよかったねえ。特に内藤君はこの短期間でほとんど仕上がってて」

 まず年長の御堂さんが小刻みに頷きながら感想を言った。

「ミツ……宇沢君も、かなり練習してきたみたいですね。雰囲気作りは……あれは天性だなあ」

 宇沢さんとは年の離れた友人のようなところがある酒井さんは、内藤さんを推す空気の中で複雑な表情だ。団長としての公平性を保ちながら自分の意見を言うのは大変だろう。

「はったりかましてるだけじゃないんですかあ」

 前島さんが不平を漏らすと、八反田さんは淡々と指摘した。

「はったりでもなんでも、聴衆を惹きつけられるかどうかは重要でしょう」

 筋の通った正論に、皆うつむいて考え込む。無言の合意がだんだんと薄れていくのを感じた。

 けれど、児玉さんが思い切った様子で口を開くとまた形勢が変わった。

「でも私たちプロじゃないわけですし、演奏の質だけを追求していたら成り立っていかないと思うんです」

 おずおずと、それでもしっかり目線を合わせてくる児玉さんを見返して、今度は八反田さんが一瞬言葉に詰まって腕を組んだ。

「……児玉さんの仰ることはわかります」

 音楽室が重い沈黙に包まれ――そこへ、微かなノックの音が響いた。内藤さんが戻ってきたんだ。

 よかった、早く私をここから出してください。聞いてはいけないことを聞かされる前に。

「ご苦労様」

 酒井さんが扉を開け、私のケースを取って内藤さんに手渡す。内藤さんはなるべく戸口から離れるようにして私を受け取り、「時間になったらまた来ます」と足早にその場を離れた。

 駆け降りるように1階に下りてロビーを見回し、団員が誰もいないことを確かめてから窓際のベンチに座り込んだ。


 思いつめたように足元を見ている内藤さんの横で、私はさっき聞いた会話をぐるぐると思い出し煩悶していた。

 内藤さんの肩を持っていた人たちも、口に出して内藤さんの演奏の方が良かった、とは言わなかった。それがすべてだ。もし私たちの演奏が宇沢さんたちに少しでも勝っていたら、ああはならなかっただろう。

 悔しくて、悲しくて。それ以上に怖かった。

 もしも審査結果が内藤さんを選ぶものだったら、内藤さんはどんな思いでそれを聞くだろうか。

 優しく過分な、その「配慮」を。

 

 審査が終わる時間が近づき、外から宇沢さんが帰ってきた。ベンチに座っている内藤さんを見つけ、「そろそろ行く?」と2階を指さした。自然にしようと気を遣っているのがわかる、少しぎこちない笑顔で。

 内藤さんは私のケースの取っ手をぐっと握り、心持ち力を入れて立ち上がった。

「行きましょう」


 2階に上がった二人は、防音扉の細いガラス窓から中の様子を窺ってノックしていいかどうか迷っていた。審査員の人たちはまだ話し合いを続けている様子でこちらに気づかない。しばらくして団長がこちらに気づき、片手を上げた。少し待つようにとの合図だろう。それからほどなく扉が開き、中に招き入れられた。

 審査員の面々は、興奮と疲労の色が残る緊張した様子で私たちを迎えた。内藤さんとも宇沢さんとも目を合わせないようにしていて、結果がどうなったのかはまるでわからない。

「待たせたね。それじゃ……まず結果から言います」

 酒井さんは皆を代表して内藤さんと宇沢さんの前に立ち、心構えの時間を与えるように少し間を置いてから厳かに口を開こうとした。

 緊張の一瞬。審判の時。

 そうなるはずだったけれど。

「すいません」 

 滑り込むような勢いで内藤さんがそれを遮った。酒井さんも他の人たちも驚き戸惑う中、内藤さんは口早に続けた。

「結果は聞くまでもないです。ソロは宇沢さんが吹くべきだと思います」

「え、いや、ちょっと待ってよ内藤君」

「わがまま言ってご迷惑をおかけしました。本当に、すいませんでした」

 内藤さんは困惑する皆に深々と頭を下げて、長くそのままの姿勢を保ってからぱっと顔を上げ「失礼します」と音楽室を飛び出した。

 急き立てられるように、逃げ出すように。


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