オーディション
オーディションの日曜日はあっという間にやってきた。
練習は通常の流れで進んでいったけれど、皆どこか落ち着かずそわそわとした空気だった。ちらり、ちらりとトランペットパートの方に視線を送ってくる人が多い。噂話が伝わっているのだ。
当の内藤さんと宇沢さんは気にした様子もなく合奏をこなしていた。二人の隣で吹いている桜さんの方が、よほど緊張しているようだった。
「すいません、今日はちょっとやることがあるので、皆さん早めに片付けて出てください」
練習が終わり、ミーティングの最後に酒井団長が告げると少しざわつきながらも慌ただしく片付けが始まった。忙しく動き回る人の流れの中で、トランペットパートの一角だけが川の中州のように動かない。
「桜ちゃんも先に帰っていいよ」
続々と部屋を出ていく団員たちを見送りながら、去り難そうにその場に留まっている桜さんに宇沢さんが声をかけた。
「あの、下で待っててもいいですか」
「駄目。俺も内藤君もカッコ悪いところ桜ちゃんに見られたくないの。な、内藤君」
どちらが選ばれても、桜さんには気を遣わせることになってしまうだろう。内藤さんもぎこちなく笑って桜さんに頷いて見せた。
「……わかりました。お二人とも頑張ってください!」
勢いよく体を二つに折ってお辞儀をして、音楽室を出ていく桜さん。一緒に連れていかれるヤマハさんが慌てて叫んだ。
〈頑張ってくださいフォルトゥナさん!……あとウザバック、お前もせいぜいしっかりやれよ〉
〈ふん。ヤマハの応援じゃありがたみがないね〉
〈応援してねえよバーカ。今のは義理だ〉
そこで扉が閉まって、中に残されたのは内藤さんと宇沢さん、団長以下審査員の人たち。
そして私とバックさんになった。
〈フォルトゥナさん〉
〈はっ、はい〉
今日初めてバックさんに話しかけられて声が上擦った。オーディションをやることになってから、バックさんとはほとんど話をしていない。練習の間も沈黙を保っていたバックさんに、私から話しかけることはできなかった。
バックさんはまず長いため息をついて、そして踏ん切りをつけるように言った。
〈あなたとこんな風に争うのは僕の本意ではないんですけど……でも僕は光也の相棒なので〉
〈……はい〉
〈全力でいきますから〉
誰にも負けはしないという自負と、宇沢さんへの信頼の念がこもった強い言葉だった。
私は――自信はない。自信はないけれど。
内藤さんのことを、信じている。
〈はい。私もそうします〉
精一杯、気合を込めて答えた。
審査をするのは団長の酒井さん副団長の吉岡さん、金管・木管・打楽器各セクションのリーダー。そしてコンサートマスターの八反田さんの計6人だ。
八反田さんはオーボエ奏者で、音楽全般への造詣が深く他の楽器へのアドバイスや指示も的確なので、楽団員からの信頼が厚い。団長の酒井さんとツートップで楽団を牽引している。
彫りの深い端正な面立ちには気品と威厳が備わっていて、一回り年上の酒井さんも彼女の顔色は窺わずにはいられない。
「すいません八反田さん。コンマスに断りなくこういうことにしちゃって」
「彼らが納得しないならこうするしかないでしょう。団長の判断は適切です」
八反田さんはバインダーに挟んだ譜面に目を落としながら淡々と答えた。ロングカーディガンのポケットに片手を突っ込んでいるのは不機嫌なわけではなく彼女の癖だ。そのことは酒井さんもわかっているので、軽く頭を下げて謝意を示してから音楽室に残った面々を見回した。
「えー、じゃあ、始めようか。順番は……どうするかな、コイントスでいいか。表だったら内藤君、裏だったら宇沢君が先に吹いてくれ」
酒井さんは財布から100円玉を出し、親指で弾いて左手の甲で受け右手で押さえた。みんなによく見えるように高い位置に両手を上げて、コインの上に被せていた右手を外す。
表面が上――私たちが先行だ。
一本だけ残された譜面台の前に、内藤さんが立つ。審査する人たちと宇沢さんは、少し距離をとった場所に扇形に広がって演奏が始まるのを待ち構えている。
普段はさらりと乾いている内藤さんの掌が、少し汗で湿っているのを感じた。演奏会の本番でもこんな風になることは滅多にない。緊張しているんだ。
内藤さん、大丈夫です。いきましょう。
届かぬ声で呼びかけると、内藤さんは短く息を吐いてから私を口元へ持ち上げた。
『日曜日のスケルツォ』は冒頭、吹き抜ける一陣の風のような上行フレーズで始まる。淀みないフィンガリングでスムーズにスタートできるかで曲の印象が決まる。
よし、滑り出しは上手くいった。続いて弾みをつけて駆け出すようなスタッカートの連続。歯切れ良く、でも硬くならないように。
音符は奏者を翻弄するかのように譜面上を目まぐるしく上り下りし飛び跳ねる。内藤さんはそれらを取り零さぬよう、糸で繋いでいくように丁寧に正確に吹き奏でていく。
中盤の緩やかで情感豊かなメロディー。一音一音の美しさを保ちながら音程に気を付けて、甘くし過ぎず。
やがて曲はだんだんとアップテンポして難易度を増していく。蛇行する山道を高速で走り続けるような緊張感。遠心力で振り落とされそうだけど、内藤さんはハンドルをしっかり握ってカーブを曲がり続ける。――そして最後に一層加速し、駆け抜けていくようなフィナーレ。やった、最後まで見事に吹き切った。
一瞬の空白のあと、皆が一斉に手を叩いた。
「すげえな内藤、ほとんどノーミスじゃん」
トロンボーンの前島さんが興奮気味に褒めてくれる。金管セクションリーダーの前島さんは、実は宇沢さんと折り合いがあまり良くない。その反動か、内藤さんのことを買ってくれているのだ。
「前島さん、次の人がいるんだから程々に。宇沢君、準備して」
一人だけ手を叩いていなかった八反田さんが冷静に諭すと、前島さんも他の審査員も、バツが悪そうに下を向いた。みんなオーディションというものに慣れていないのだ。
「ひー、ヤバイ。すっげえプレッシャーだわ」
おどけた口調でぼやきながら、譜面台に歩み寄る宇沢さん。落ち着いているようではあるけど、表情が少し硬い。譜面台の前に立ち皆に対面すると、軽く肩を上げ下げしてから深呼吸した。
「なんだ光也、お前でも緊張とかするのか」
酒井さんがからかうように声をかけた。リラックスさせてあげようという親心だろう。八反田さんは柳眉を少し上げて何か言いたげだけど。
宇沢さんは「するに決まってるでしょ」と照れ臭そうに笑ってから、もう一度深呼吸して背筋を伸ばし、前を向いた。真剣な面持ち。でも、バックさんを構えたその時――ふっ、と微笑んだ。
あっ、と思った次の瞬間には、最初のフレーズで持っていかれていた。
青空へ向かってどこまでも続く階段を羽の付いた靴で駆け上がっていくような、そんな音色。外はもう日も落ちて暗くなっているというのに、朝日を浴びたような心地がした。
音の一つ一つが楽しそうに踊っている。無邪気に羽ばたいている。
技術的なことを言えば、音の取りこぼしや躓きが所々にある。でもそんなことはお構いなしに宇沢さんとバックさんは軽快に、愉しげに走り続ける。
後半の難所も、危なっかしくも悪戯っぽく、スピンアウトしそうな勢いですり抜けていく。スリルを楽しむように。その痛快な疾走感。私たちの演奏には無かったもの。
そしてあの突き抜けていくフィナーレが高らかに奏でられ――束の間の静寂が訪れた。
最初に拍手を始めたのは内藤さんだった。
何かに突き動かされるように手を叩く内藤さんを遠慮がちに見ながら、やはり八反田さんを除く皆が惜しみない拍手を送った。前島さんでさえも。
宇沢さんはぺこりとお辞儀をしてそれに応えた。上気した顔には、やりきった、という達成感が溢れている。
私はいつか聞いたあのウィンド・オーケストラの演奏を思い出していた。
ああ、そうだ。この曲はこういう曲だった、と。
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