インタールード

「くそっ」

 30回以上繰り返し吹き続けているパッセージでまたつまづいて、内藤さんが小さく悪態をついた。

 もう夜の9時を過ぎているのに夕飯も取らず飲み物だけを口にして、レンタルスタジオにこもりっきりだ。曲としては短いけれどかなり体力を消耗する『日曜日のスケルツォ』を、もう何度吹き通したか数えきれない。それでもまだ、納得のいく仕上がりには程遠い。

 指は回っているし譜面もほとんど頭に入っている。問題はイメージ通りの音で吹ききれないということだった。

 メロディーを聞かせる部分では情感を出そうと思うとどうしても普段の音色に戻ってしまい、曲がダブルタンギングの嵐に突入する終盤では正確に吹くことで精一杯になってしまう。

 それでも、1週間前に練習を始めた頃よりはだいぶ音が軽快になってきたと思う。


 オーディションが決まってからというもの、内藤さんは毎日猛練習を続けている。昼は会社の敷地にある倉庫の裏で、夜はこうしてスタジオを借りて。

 もともと練習熱心な人だけど、今は鬼気迫るものすらある。

 本音を言えば、私も長時間吹き続けられて少し疲れてきてはいる。でもそんなことはどうでもいい。内藤さんがここまで本気でソロを獲りにいこうとしているのだから、何としてでもこの曲に相応しい軽やかな音を出さなくては。バックさんのように。

 できると信じて、成功をイメージして、内藤さんと心を合わせて。

 ああ、だけど。


 あと1週間。あと1週間で、みんなの前で宇沢さん、バックさんと競うことになる。

 そう思うと内藤さんの息で熱せられた体が一気に凍りつくような心地がした。

 演奏会やイベントでは、きちんと演奏さえすればお客さんも仲間たちも拍手で称えねぎらってくれる。アンケートや講評で感想を言われることはあっても、内藤さんの技量に文句をつける人はいない。

 でも今度のオーディションは――是か非かだ。どちらかが必ず落とされる。

 逃げ出したくなるような重圧。緊張。

 あの楽器店で売れ残っていた頃は、選ばれないことに慣れていた。失うものなど何もなかった。でも今は。

 私の出す音が、内藤さんの音として評価される。それが恐ろしくてたまらない。

 

 そういえば、真弓さんは学生の頃からいろいろなコンクールやオーデションに挑戦していたっけ。入賞したり受かることもあったけど、落ちることの方が多かった。それでも、プロへの狭き門を叩き続け何度も挑戦していた。彼女もやはり、こんな不安と戦い続けていたのだろうか。こんな、身を削られるような思いで。

 


 ピピピー、ピピピー。

 部屋のスピーカーから甲高い電子音が流れて、天井の隅についている赤色灯が点滅した。退室時間が10分後に迫っていることの合図だ。30分刻みで予約が埋まっているレンタルスタジオは、市民センター以上に時間に厳しい。

 内藤さんは深く息を吐くと、ミネラルウォーターを一口あおってからクールダウンの低音ロングトーンを始めた。低音の響きを生む緩やかで大きな振動に包まれて、私もホッと息をつく。


 そういえば今日はまだ「良かったこと」を数えていないな。……何か、探さないと。

 渦巻く不安を誤魔化すように、そんなことをぼんやりと思った。


 

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