土曜日と日曜日

 合奏練習が終わると、窓の外はもう日も落ちて暗くなっていた。

 簡単なミーティングと片付けを済ませ解散になり、音楽室からは徐々に人がいなくなっていく。

 トランペットの3人も、引き出物のバウムクーヘンを分け合ったりしながら帰り支度をし、宇沢さんを先頭に階段を下りていった。

「あれ、団長」

 1階ロビーのテーブル席で缶コーヒーを片手に書類を睨んでいる酒井さんを見つけて、宇沢さんがそちらに足を向ける。内藤さんと桜さんもあとに続いた。

「お疲れーっす酒井さん。難しい顔して何見てるんですか?」

「こんどの定期演奏会の曲目候補だよ。そろそろ決めないとな」

 テーブルに置いたリストの紙と宇沢さんの顔を見比べて、酒井さんがニヤッと笑った。見せようかどうしようか、という表情で頬杖をつく。

 宇沢さんは軽く笑い返すと、酒井さんの不意をついてテーブルに置かれた紙をするりと手繰り寄せ攫ってしまった。

「あ、こら!」

「もったいぶらないで見せてくださいよ。……お、『マンハッタン』!土曜ですか日曜ですか?」

「忘れちゃったんですか?次の定期演奏会は日曜日ですよ、宇沢さん」

「はは、違うんだよ桜ちゃん。この曲『マンハッタン』っていってトランペットのための曲なんだけどね、『土曜日のセレナーデ』と『日曜日のスケルツォ』っていう二つの楽章があるんだ。本当は通しでやりたいけど、他のパートから苦情が出そうだしなあ」

「じゃあ『日曜日』やりましょうよ。俺そっちの方が好きなんで」

 少しも悪びれず爽やかに笑う宇沢さんを見て、酒井さんは呆れながらも苦笑してリストを取り返した。

「しょうがねえ、入れてやろう」

 『マンハッタン』の文字の上にボールペンで丸が書き込まれるのを見て、宇沢さんは「やーりぃ」とガッツポーズで喜んだ。当然自分がソロを取るつもりなのだろう。

 『日曜日のスケルツォ』は曲の大半をトランペットソロが占め、高度なテクニックを要する疾走感あふれる曲である。見せ場が多い分失敗すれば目立ってしまうんだけど……失敗することなんて考えてないんだろうなあ。

 私が感心と羨望のため息をついていると、

「あのっ」

 無言だった内藤さんがつんのめるような声を上げた。

「ん、なに?内藤君。おい光也、邪魔」

 テーブルに張り付いている宇沢さんを横にどけて、内藤さんにしっかり目を合わせる酒井さん。それに励まされるように、内藤さんは声に熱を込めた。

「その曲、俺にソロやらせてもらえませんか」

 その場にいた全員が驚いた。私を含めて。

「――めっずらしいなあ!内藤君が自分から手を挙げるなんて。いいねぇ!よし、今回は内藤君がソリストだ。いいだろ光也」

 酒井さんは大きく吸った息を一気に吐き出すように快哉を叫び、タン、とテーブルを叩いて宇沢さんを見上げた。

 宇沢さんは――驚きと、戸惑いの表情を浮かべて口をつぐんでいた。目線だけで団長と内藤さんを交互に見て、困った風に口元に手をやった。

「うーん、それはどうかなあ」

「なにぃ?お前なあ、いい大人がわがまま言うなよ」

「いやだって、この曲明るくて軽い感じの曲でしょ。自分で言うのもなんですけど……俺の方が曲想に合ってると思うんですよね」

 真面目な顔でそう返され、乗り気だった団長も「う、そりゃ」と言い淀む。悔しいけど、宇沢さんの主張はもっともだ。

「お、そうだ、『土曜日のセレナーデ』の方を吹けばいい。あっちなら内藤君でばっちりだろ」

「まあ、確かに『土曜日』だったら内藤君ですね」

 宇沢さんも、これには納得するしかないといった様子で同意する。

 『土曜日のセレナーデ』はゆったりと美しく、伸びやかだけど少し哀愁のあるメロディー。内藤さんの得意領域である。

 落としどころが見つかり、みんながホッと空気を和ませた。それなのに。

「いえ、あの俺、『日曜日のスケルツォ』の方を吹きたいんです。曲想に合った明るい音で吹けるように練習しますから……お願いします」

 内藤さんは頑なにそう言って深く頭を下げた。

 その必死な姿にたじろぎながら、酒井さんと桜さんが宇沢さんの顔色を窺う。折れてくれることを期待するように。

「それってさ、練習すれば俺よりもいい感じに吹けるってこと?」

 普段あまり物事にこだわらない宇沢さんが、唇から笑みを消してズバリと切り込んだ。顔立ちが整っているだけに、真剣味を帯びた表情には迫力がある。

 内藤さんは気圧されそうになりながら、ぐっと堪えて答えた。

「負けない、くらいには……」

「――そこまで言われたら俺も引き下がれないなあ。酒井さん、オーディションやってくれませんか。俺と内藤君、どっちがいいか聞き比べて決めてくださいよ。そうだなあ、次の練習日に」

「お前らちょっと落ち着けって。次の練習日って、再来週だぞ?」

 酒井さんが慌てて椅子から立ち上がり、格闘技のレフェリーのように二人の間に入る。それでも宇沢さんと内藤さんは、静かにお互いを見て一歩も引かない様子で即答した。

「それだけあれば十分ですよ」

「俺も大丈夫です」

 酒井さんは口を曲げて絶句し、困り切った顔をしていたけれど、最後には「しょうがねえな」と頭を掻いた。

「わかった、譜面は今夜メールで二人に送る。オーディションは練習のあとでやるけど練習も手を抜くなよ。俺だけで決めるわけにはいかないから他の人も呼ぶからな」

 楽団をまとめるトップらしく威厳をもって采配をとり、腕組みをする。

「それでいいです」

「ありがとうございます」

 ほぼ同時に答えて、また顔を見合わせる内藤さんと宇沢さん。さすがに少し気まずそうに目線をそらした。

 

「さてと、俺ちょっとそこのコンビニ寄ってくから。じゃあね 」

 市民センターの正面玄関を出ると、宇沢さんは軽い調子でそう言って足早に立ち去ろうとした。駅までは3人連れ立って帰るのがいつもの習慣なので、桜さんが慌てて引き留めた。

「え、でも、ちょっとくらいなら待ってますよ」

「いーからいーから。内藤君、桜ちゃんよろしくね」

 桜さんにはにっこりと有無を言わせぬ微笑みを、内藤さんには無言の合図を送って、宇沢さんは行ってしまった。

 駅までの15分間、桜さんを気まずい状況の二人の間で歩かせるのが忍びなかったのだろう。内藤さんもその意図を汲んで「行こうか」と桜さんを促した。  


「あのぅ、こういうことってよくあるんですか?」

 無言で歩き続ける内藤さんに、恐る恐る桜さんが話しかける。

「いや、初めて。あっ……ごめん緒川さん。緒川さんのこと無視するみたいになって」

「え?」

「もしかして緒川さんもソロやりたかった?」

 心配そうに尋ねる内藤さんに、桜さんはブンブンともげそうな勢いで首を振った。

「まっさかあ!!無理ですよ私がソロなんて!」

「でも七夕の時のロビーコンサートでやったでしょ」

「あれはほんの一瞬だったし、度胸試しの洗礼みたいなもんですもん」

 無理無理無理、とかぶりを振る桜さんを見て、内藤さんは安心した様子で「そっか」と納得した。そしてまた前を向き無言で歩く。

 話好きな桜さんも今日は言葉少なくそのあとを追う。速足の内藤さんに合わせて懸命に歩きながら、遠慮がちにこう言ってくれた。

「えっと……立場上内藤さんだけを応援するわけにはいかないんですけど……オーディション、頑張ってください」

「うん。ありがとう」


〈内藤さんすごいやる気っすね!〉

 内藤さんと桜さんがぽつりぽつりと話す横で、私とヤマハさんも話をしていた。

 ヤマハさんは少し興奮気味に、意気込み熱く励ましてくれた。

〈桜はどっちつかずですけど俺はフォルトゥナさんと内藤さんの応援してますから!お二人ならバックと宇沢なんか目じゃないっすよ!〉

〈あ、ありがとうございます。でも、あの曲は……難しいです〉

〈『日曜日のスケルツォ』でしたっけ。すいません俺どういう曲か知らないんですけど、フォルトゥナさんは知ってるんですね〉

〈前にコンサートで聞いたことがあるんです。それに、内藤さんはCDも持ってて〉

〈そっかあ。思い入れがある曲なんすね〉

 思い入れ。そう、確かに内藤さんにとっては意味のある曲だったのだ。つい先ほどまで私もそうとは気づかずにいた。

 内藤さんがずっとあの時のことを気にしていたなんて。 


 

 内藤さんと私が初めて『マンハッタン』という曲を聞いたのは、数年前、アメリカのある有名なウィンド・オーケストラの来日公演でのことだった。

 あの日は公演の前に練習があったので、私も一緒に連れて行ってもらえたのだ。もちろん真弓さんも一緒だった。

 圧巻の演奏に酔いしれた帰り道、内藤さんと真弓さんは興奮冷めやらぬ様子で感想を話していた。

「ねえ、内藤君はどの曲がよかった?」

「4曲目の『マンハッタン』」

「あ、あれも良かったね!最初の方の、なんだっけ、土曜日の……」

「『土曜日のセレナーデ』。でも俺はあとの方の『日曜日のスケルツォ』が好きかな」

「えー」

「……なんで『えー』なんだよ」

「だって内藤君の雰囲気に合わなくない?ああいう底抜けに明るい曲」

 疑問形だけど断定のニュアンス。内藤さんは少しムッとして、やや強い口調で反論した。

「俺だってああいう曲嫌いじゃないし、吹こうと思えば吹けるよ」

「そりゃ吹けるだろうけどさ。似合うか似合わないかって話だよ」

 軽く受け流して笑う真弓さんに、内藤さんは物言いたげに黙り込んだ。口ではどうやっても彼女に勝てないから、黙る方が効果的だということを長い付き合いで知っているのだ。でも、相手の機嫌をコントロールすることにかけては真弓さんの方が二枚も三枚も上手で。

「ねえ、けなしたんじゃないよ?私はただ内藤君のダークな音が好きって言いたかったの」

 言うより早く、真弓さんは内藤さんの左腕に抱きつくように腕を絡ませた。

 内藤さんは人目を気にして照れながら「うん」とうつむいた。


 二人の間ではその話題はそれきりになったのだけど、内藤さんはあのあとすぐ、『マンハッタン』が収録されたCDを探して買っていた。繰り返し聞いていたのは、やっぱり『日曜日のスケルツォ』の方だった。

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