泣きの内藤
〈いやいや、フォルトゥナさんの音は暗いっていうか――厳かな感じ!とってもノーブルですよぉ〉
〈それにあれっすよね、なにしろ「泣きの内藤」が吹いてるんだからどうしたって泣かせる音になりますよね〉
少し慌てた様子で私を励ます二人の声で我に返った。
一人であれやこれやと考えを巡らせ黙り込んでいたので、落ち込んでいるのだと思われたらしい。
〈ありがとうございます。あ、そろそろ合奏始まりますね。今日もよろしくお願いします〉
心配してくれる二人のために精一杯元気な声を出し、ちょうど全体の合奏練習が始まるところだったのでそこで話は切り上げになった。
ヤマハさんが言った「泣きの内藤」というのは、いつの頃からか内藤さんについた楽団内のあだ名である。
ユリノキ吹奏楽団は地域に根差した吹奏楽団として、老人ホームや福祉施設で定期的にチャリティーコンサートを開いている。お年寄りの多い施設では年代に合わせて昔懐かしい曲目を組む。特に人気があるのは往年の映画音楽で、そんな時は内藤さんがソロを受け持つことが多い。
フェデリコ・フェリーニ監督『道』の『ジェルソミーナ』、『ゴッドファーザー』の『愛のテーマ』。それらの愁いを帯びたメロディーを奏でるのが内藤さんは本当に上手くて、私の暗い音色にもマッチしてなんというか……すごくウケる。
映画にまつわる思い出も浮かび上がってくるのか、中には鼻をすすりあげ涙をこぼす人たちもいて、そんなことから「泣きの内藤」と呼ばれるようになったのだ。
自分たちの演奏で感極まってもらえるのはとても名誉なことだとは思うのだけど、物悲しい曲は内藤さんに、明るく華やかな曲は宇沢さんにという暗黙のルールができてしまっているのはちょっと複雑だ。
内藤さんだってべつに明るい曲が吹けないわけじゃない。中学・高校の吹奏楽部ではファーストを務めていたそうだし、その頃の録音を聞いたことがあるけど充分軽やかで楽しい演奏だった。
それを「泣きの内藤」に変えてしまったのは、私と……多分真弓さんなんだと思う。
真弓さんは内藤さんの大学時代の同級生で、二人は吹奏楽サークルで知り合い、付き合うようになった。
明るくて社交的な真弓さんと、大人しくて内向的な内藤さん。対照的な二人はだからこそ上手くいっていた。大学2年の終わりに真弓さんが大学を辞め、音楽の専門学校に入りプロのサックス奏者を目指すようになってからも、内藤さんはそれを応援しサポートしながら彼女に寄り添っていた。
彼氏、彼女という間柄とはまた別に、音楽的なところで彼らは深くつながっていたように思う。特に真弓さんが内藤さんに与えた影響は大きかった。
彼女はダークなサウンドの楽曲を好み、内藤さんにもそれを薦めたのだ。CDに始まりライブ、コンサート、楽譜、奏法。
そしてついに、楽器に至るまで。
「試奏くらいさせてくれたっていいじゃないですか。このお店ではお客を選ぶんですか?」
声高な女性の声がガラス越しにも響いてきて目が覚めた。
陳列ケースの中でまどろんでいた私は、はっきりしてきた意識を眼前に向けた。私のいるケースの前で、この楽器店の店長が若い女性に詰め寄られている。
「そうじゃなくてお客さん、これはほんとに、アマチュアの人にはお勧めできないんですよ。とにかく癖が強くて……」
「そんなの吹いてみないとわからないでしょう。出してください」
そう言って女性は意志の強いまなざしで店長を見据えた。まだ二十代前半だろうか。白いシャツとスリムジーンズが良く似合う。この人が私を試奏するのかな?と思っていたら、店長が渋々ケースから出した私を受け取ったのは、後ろの方にいて一言も発していなかった連れの男の人だった。
「Fortunaかあ。聞いたことないメーカーだね。この刻印のロゴ、なんだろ」
試奏室の中で、私のベルの刻印をしげしげと眺めて女性が首をかしげた。どうやら「Fortuna」を探していたわけではなく、たまたま目についたから出させただけのようだ。先行きが暗くなってきた。
「女神じゃないかな。Fortunaは女神の名前だから。たしか……『運命の女神』」
「へぇ、なんかいいね」
そうですね、名前だけは立派です。
そんな茶々を入れながら、実のところ私は緊張しまくっていた。
この楽器店に入荷されてもう1年がたつけど、そのあいだ物珍しさで試し吹きしていったお客さんには口を揃えて「吹きづらい」と評されていたから。
曰く「音程が取りづらい」「抵抗が強すぎる」「音が飛ばない」。
言いたい放題言われてきて、降ってわいたチャンスにも期待より不安の方が大きかったのである。
そんな私の気持ちを知る由もなく、男性はマウスピースを装着して3つのピストンをパラパラっと押した。ピストンバルブは滑らかに上下した。店長さんがマメにオイルを挿してくれるおかげだ。ここまではいつも問題がない。
マウスピースに唇が軽く当てられた。ベルが上に持ち上げられ、息を吸い込む音。そしてゆっくりと、音を生み出す息吹が吹き込まれた。
「……大丈夫?」
吹き始めて5分後、傍で聞いていた女性が困惑顔で男性に声をかけた。
どうしても微妙にずれる音程を合わせようと、男性はチューニングスライドを調整したりマウスピースを強めに装着したりと奮闘していた。
ああ、申し訳ない。私がこんな扱いにくい楽器なばっかりに。
でもこの人、上手い。今まで試し吹きした人たちの中で誰よりもまともな音を出してくれた。嬉しい。
「癖が強いってほんとだったみたいだね。どうする?他のやつ出してもらう?」
そう言われ、喜びはすぐにしぼんだ。やっぱり駄目か……いい夢見させてもらいました、と私はすっかり諦めモードだったのだけど。
「……もうちょっと吹かせて。だんだんわかってきた」
そう言って、彼は一度マウスピースから口を離した。私を見下ろしながら唇を揉み込むようにほぐしている。真剣なその目を見て、私の気持ちもまた高揚した。
下げられていたベルが上がり、彼が再び構えを取った。
そして一点を貫くように研ぎ澄まされた息が吹き込まれ、ぴたりと音程のあった、太い、艶のある音が響き渡った。
私は、自分からこんな音が出ることをこの時初めて知った。
長く伸ばした音を静かにゆっくりと切って、男性が少し惚けたような表情で私を見下ろした。私を支える指が、握る力をわずかに強めた。
「すっごい、いい音だったよ!これにしなよ内藤君。渋くて深みがあって、絶対いいって!」
女性が飛び上がるように喜んで、彼の腕を掴んで揺さぶった。
「わかったって。危ないから暴れるなよ真弓」
男性は困ったように笑って、私のベルの刻印を指でそっとなぞった。
これが内藤さんと私の出会い。もう5年ほど前のことになる。
私はあの時、この人はきっとジャズを吹く人なんだろうと思っていた。音の柔らかさ、深み、そういった要素を重視するのはジャズプレイヤーが多い。
だから内藤さんが吹奏楽畑の人だったことを知った時は驚いたし不安になった。吹奏楽の中でトランペットが求められるのは「華やかで高らかな音色」だ。「ダークでスモーキー」ではない。
それでも内藤さんは練習を積み苦心に苦心を重ね、吹奏楽でも通用するように私を吹きこなしてしまった。本当に努力の人なのだ。
そのことを誰より喜んで褒め称えてくれたのは真弓さんだった。思えば彼女は、ありきたりではないこと、他の人とは違うということを尊ぶ人だった。
のちにはそれが彼女が内藤さんの元を去る理由にもなったのだけど、あの頃は内藤さんも私も、心地良さそうに聞き入ってくれる真弓さんのために暗色の音楽を奏でることに夢中だった。
その色は今も褪せることなく、私たちを染め抜いている。
内藤さん。私たちはまだ、あの夢の中にいるのでしょうか?
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