ユリノキ吹奏楽団

 日曜日の午後3時。駅前通りはいつものように人が多かった。

 大きな買い物袋を提げて速足で歩くヒールの女性、色違いのスニーカーを履いてじゃれ合うように歩く女の子たち、フレンチブルドッグを連れて歩くスリッポンの男性。

 残り少なくなっていく休日の時間をみんな思い思いに過ごしている。

 私と内藤さんは、そんな人々を追い越しながら、繁華街を外れていく細い道へ進んだ。

 通い慣れた市民センターまでの道沿いには白とピンクのコスモスが咲き揃って、気持ち良さそうに風に揺れている。

 花がきれい。これは今日一つ目の「良かったこと」と数えていいだろう。

 

 コスモスきれいですね、内藤さん。

 無駄とはわかっていても一応呼びかけてみる。 

 内藤さんはわき目もふらず真っ直ぐ前を見て、黙々と歩き続ける。

 

 仕方がない。内藤さんは草花にあまり興味がない人だし、これから始まる合奏練習のことで頭がいっぱいなのだろう。気にしない、気にしない。

 呪文のように念じ、流れすぎてゆく白とピンクの花弁を楽しむことに専念した。



 15分ほど歩いて市民センターに到着し、音楽室のある2階へ上がる。音楽室の扉が少し開いているのが見えて、内藤さんの歩調が速くなった。今日は早めに部屋が開いたようだ。

「おー、おはよう内藤君」

 中に入ると、団長の酒井さんがバリトンサックスの大きなケースを手に振り向いた。

 酒井さんの趣味は一に音楽、二に筋トレ。トレードマークのポロシャツが張りのある筋肉に程良くフィットしていて、48歳という年齢より随分若く見える。楽器よりダンベルが似合いそうなその見た目に反して、繊細でロマンチックな演奏をする。

「こんにちは。鍵、早くもらえたんですね」

「珍しくね。どうせ空いてるんだからいつもこれくらい早めに入らせてほしいよな」


 私たちユリノキ吹奏楽団が定期練習のために音楽室を予約しているのは3時半からで、たいてい5分前くらいにならないと事務所から鍵を渡してもらえない。だから団員の人たちも、集合時間ちょうどに来るのが習いになっている。今日のように時間前に部屋が開くことは稀だ。

 それでも内藤さんは、こうやっていつも15分前には到着する。


 壁際に重ねて積まれた椅子を3脚と、棚にしまわれている譜面台を3本運んできて、トランペットパートの場所に整然と並べる。その真ん中の席に腰かけると、内藤さんはおもむろに私をケースの中から出して手に取ってくれた。

 内藤さんの長く節の目立つ指で掴まれると、いつだってぎゅっと身の引き締まる心地がする。

 金属でできているのに、変だろうか。


 私はトランペット。内藤さんのトランペット。名前はフォルトゥナ。

 私を作った楽器メーカーの社名が「Fortuna」なので楽器仲間からはそう呼ばれている。オランダの小さな楽器メーカーだったその会社はもう廃業してしまっていて、私は自分以外のFortuna製の楽器に会ったことがない。

 フォルトゥナは「幸運」とか「運命の女神」という意味。

 私はこの名前が嫌いだ。

 ――ああ、またネガティブな言葉を使ってしまった。

 

 

 3時半を過ぎて団員の人たちが続々と集まってきた。いろいろな楽器の音が入り交じり始めて音楽室が活気づく。

「ああ~内藤さんすいません!また椅子出しやらせちゃって」

 トランペットケースをショルダーベルトで担いだ女性が慌てた様子で駆け寄ってきた。ケースに付けられたいくつものキーホルダーが賑やかに音を鳴らす。

 彼女はサードトランペットの緒川桜さん。半年ほど前に入団したトランペットパートでは一番の新人さんだ。今年大学を卒業して社会人になったばかりで、ふっくらとした頬にあどけなさが残る。本人はそれを気にしているのか、セミロングの髪を下して顔にかかるようにしている。


「俺が好きで早めに来てるだけだから」

 内藤さんはそれだけ言って、すぐに音出しを再開してしまった。もう少し何か言い足した方がいいと思うのだけど、内藤さんは基本最低限のことしか口にしない。だから人に誤解されることも多くて、聞いていることしかできない私はハラハラしてしまう。

 でも桜さんは素っ気ない返事にもめげず、「次は絶対早く来ます!」と宣言して張り切ってケースから楽器を取り出した。さすが桜さん。

 彼女が入団初日の挨拶で「緒川桜22歳トランペット歴6年ブランク4年です、未熟者でご迷惑かけると思いますがよろしくお願いします!『桜』って呼んでください!」と言い放ったのを聞いて、なんてオープンマインドな人だろうと私は感動したものである。


〈そりゃ買いかぶり過ぎですよフォルトゥナさん。こいつはただ何も考えてないだけです〉 

 そう言って笑うのは桜さんのトランペットのヤマハさんだ。

 ヤマハさんは言わずと知れた国内ナンバー1の楽器メーカーYAMAHAのカスタムモデルで、バランスが良く明るい音色。初心者から上級者まで幅広い奏者に対応できる楽器だ。銀メッキ仕様で涼やかな外見だけど、持ち主の桜さんに似て朗らかな性格である。


〈だいたい初対面の相手をいきなり名前呼びとか抵抗ある人もいるでしょう?欧米じゃねえんだから〉

〈そ、そうですね。苦手な人も、いますよね……〉

 他ならぬ内藤さんがまさにそうなので、私の声は尻すぼみに小さくなる。同じパートで年もわりと近いのに、知り合って半年たった今も「緒川さん」と呼んでいるのだ。

 それでも桜さんはさっきみたいに少しもめげず、屈託なく内藤さんに接している。

 「何も考えてない」とヤマハさんは嘆かわしそうに言うけれど、考えすぎないというのは心理学的にも大事なことらしいので(TVとか電車の吊り広告で見た)、私は密かに彼女のことを心の師と仰いでいる。


〈あれ、宇沢が来ないっすね。今日休みでしたっけ?〉

 そう言われてみれば、練習が始まって20分ほどたつのにファーストトランペットの宇沢さんがまだ姿を見せない。

〈午前中お友達の結婚式に出てから来るんだってこの前バックさんが言ってました。遅れるとは聞いてなかったんですけど……〉

〈ふーん、1日くらい休めばいいのに〉

〈で、でもパートリーダーですしファーストですから来ていただかないと〉

 現在ユリノキ吹奏楽団にはトランペットが3人しかいなくて、これは市民吹奏楽団としてはかなり少ない。本当はサードにもう一人大学生の男の子と、ファーストに60代の男性がいるのだけど、それぞれ海外留学と腰痛治療のために休団中だ。

 ちなみにセカンドは以前から内藤さんがほとんど一人で担当している。ファーストほどには目立たないけれど、ファーストを支え美しいハーモニーを作る要となるポジションだ。

〈内藤さんがファースト吹けばいいじゃないですか。宇沢より上手いんだし〉

 うっ……本当は喜んじゃいけないところだけど嬉しいかも。こっそり今日二つ目の「良かったこと」に数えよう。

 でも本当に、宇沢さんが来なかったら今日はファーストかも……とよからぬことを考えていた時、入り口に近いフルートパートの方から歓声が上がった。


「わー!宇沢さんそのかっこで来ちゃったんですかぁ」

 テンションの高い声に、みんなの視線がそちらに集まる。視線の先に、革のトランペットケースと光沢のある大きな白い紙袋を抱えた背の高い男性が立っていた。

 ロング丈のテーラードジャケットに、スカイブルーのベストとエンジのアスコットタイを合わせたカジュアルな礼装姿。細身のスラックスが高い腰位置と足の長さを際立たせている。

 彼がファーストトランペットの宇沢光也さん。ユリノキ吹奏楽団の「顔」でもある。


「まーた目立ちたがりが」

「違いますよー倫子さん。楽器もあるから着替え持ってくるのが面倒だっただけですって」

 譜面台の垣根を避けながらトランペットパートのこちらに進んでくる宇沢さんを、女性団員が次々と呼び止める。

「やだ似合うー。写真撮っていいですか?」

「いいよー。1ショット100円ね」 

 さえずるような笑い声がわき、数人の女性が本当にスマホを取り出して宇沢さんにカメラを向け始めた。

 宇沢さんは肩をすくめて(日本人男性でこれだけこの仕草が様になる人も珍しい)足を止め、力みのない笑顔を浮かべた。

 大半の人はその様子を笑って見ているけれど、何人かの人たちはうんざりと渋い顔をしている。特に若い男性陣は。お隣りのトロンボーンの前島さんなどはかなり大きい音で舌打ちをしていて怖い。


「リーダー!いつまで遊んでるんですか!?」

 しびれを切らした桜さんが立ち上がって良く通る声を張り上げた。

「やば、うちの姫がご立腹なんで行きますわ」

 宇沢さんはすぐさまこちらにやってきて、仁王立ちしている桜さんに引き出物の紙袋を差し出した。

「はい、桜ちゃん。千輪堂のバウムクーヘン貰ったからあげる」

「えっ」

 桜さんは長いまつ毛をぱちぱちと瞬かせて、受け取った紙袋の中をそっと覗き込んだ。千輪堂のバウムクーヘンは雑誌やテレビのスィーツ特集でよく取り上げられる名菓である。

 無邪気に口元を緩めていた桜さんだったけれど、まわりの視線を気にするように「あ、あとでみんなで分けますから」と神妙な面持ちで紙袋を椅子の後ろに置き席についた。


「内藤君もお待たせ。もうチューニングやっちゃった?」

「いや、これからです」

「OK、んじゃ始めよっか」

 演奏の邪魔になるジャケットを脱ぎ、ネクタイの結び目に指を差し入れて緩める宇沢さんの姿に、どこからかまた小さな歓声が上がった。

 宇沢さんは内藤さんと同い年の27歳。ファッション雑誌から抜け出てきたのかと思うくらいスタイルが良くて顔立ちも整っていて、演奏会のチラシなどにはこの人の写真がよく使われる。

 セミフォーマルな装いの宇沢さんが隣に座ると、紺地のネルシャツにジーンズ姿の内藤さんはより一層地味に見えてしまう。

 内藤さんだってよく見るとかっこいい――と私は思っているんだけど、誰がどう見てもかっこいい宇沢さんの陰に霞んでしまっていることは認めざるを得ない。



〈遅くなってごめんねフォルトゥナさん、ヤマハと二人じゃ心細かったでしょう。僕が来たからもう大丈夫だよ!〉

 ファスナーが開いた革ケースの中から快活な声がして、輝く黄金色のベルが姿をのぞかせた。

 宇沢さんのトランペットのバックさん。Vincent Bachという世界的に有名なメーカーの、その中でもハイクラスモデルの楽器だ。軽やかで伸びのある音色とどこまでも響き渡る豊かな音量はまさに「金管楽器の華」という感じで、王者の風格が漂う。


〈お、お疲れ様です、バックさん。結婚式、どうでした?〉

〈それはもう僕と光也の祝福のファンファーレで大盛り上がりでしたよぉ。二次会にも来いってしつこく誘われてたんですけどねー、振り切ってきました。僕らがいないと楽団の灯が消えたようになってしまいますからね!〉

 テンポよく一息で言い切って、バックさんはえへんとベルを輝かせた。

 自分でここまで言えてしまうのがバックさんのすごいところだ。私もこれくらい自分に自信が欲しい。心のノートに「自信を持つべし」と書きつけておこう。

 

〈別に無理して来ることなかったんだけどな。ま、お疲れさん、ウザバック〉

〈……なにその呼び方〉

〈宇沢のBachだからウザバック。合ってるだろ〉

〈明確な悪意を感じるんだけどなーあ。陰口は品がないよヤマハ君〉

〈面と向かって言ってるんだから陰口じゃねーだろ〉

〈ははーん、悪口だってことは認めるわけね。ふっ、語るに落ちたりだねえ〉

〈お前ウザくなる修行でも積んでんの?〉


 ヤマハさんとバックさんが挨拶代わりの応酬をしている間にも、宇沢さんは譜面を出し膝の上にタオルをかけ、ケースからマウスピースを取り出し着々と準備を進めている。その様子を横目で見ていた内藤さんが、意を決したように話しかけた。

「何吹いてきたんですか?」

 内藤さんが自分から雑談を!やっぱり演奏に関することは気になるんだな。

「お約束の『結婚行進曲』」

「メンデルスゾーンですか?ワーグナー?」

「メンデルスゾーン。パパパパーンってね。俺もう飽きたわ」 

 だるそうに長い足を投げ出す宇沢さん。そうは言っても、きっと式ではちゃんと吹いてきたのだろう。吹奏楽団の演奏会でも本番になると張り切る人だから。

「結婚式とかさー、楽器やってると必ず『なんかやってくれ』って言われるから困るよなぁ。内藤君もよく頼まれるでしょ」

「俺はそんなに。今まで2回くらいしか」

「あー、内藤君は結婚式より葬式の方が似合いそうか」

 ひどい。でも当たってる……。

「ちょっと宇沢さん!失礼ですよ」

 何も言い返さないどころか「なるほど」と納得している内藤さんに代わって目くじらを立てたのは桜さんだった。

「あれ、悪い意味じゃないんだけどな」

「いい意味でも言いませんよ普通!」

「うん、そうかも、そうだね。内藤君、ごめん !」

 桜さんに睨まれて苦笑しつつ謝る宇沢さんに、内藤さんはむしろ恐縮している。

「いや、全然なんにも。あ、よかったら俺宇沢さんの葬式で吹きましょうか?」 


 な、内藤さん……それ宇沢さんが内藤さんより先に亡くなるのが前提になってます……。

 内藤さんはまったく悪気なしで言ってるんだけど、それこそ普通言わないし怒って嫌味を返しているようにも聞こえる。桜さんもフォローのしようがわからず口をパクパクさせている。

 どうしよう、宇沢さん気を悪く――

「マジか。ならアレやってよ、アメイジング・グレイス」

 ――していなかった。上機嫌で内藤さんの肩を叩いている。


〈あっはっは。内藤さんサイコー〉

〈あ、あのっバックさん、今のはけして嫌味じゃなくてですねっ〉

〈わかってますよ、僕も光也も〉

〈つーか先に暴言吐いたの宇沢でしょ。気にすることないっすよフォルトゥナさん〉

〈光也だって悪気はないもんねーだ〉

〈そうですよね。それに結婚式よりお葬式の方が似合うっていうのは……本当ですから。私の音、暗いので……〉


 そう、私の音色は暗い。

 同じトランペットという楽器でも、材質やパーツの種類、形などでその音色は千差万別に変わる。一つのメーカーの中でも、ラインナップによって音の方向性はまちまちだ。

 例えば、ヤマハさんはストレートで癖のない音色。安定性が高く奏者に優しい。

 バックさんは華やかで輝かしい音色。低い音から高い音、ピアニッシモからフォルティッシモまでどんな時でも音が埋もれることがない。

 そして私はというと……不安定で、重く、暗い。


 正直私はFortuna社と私を作った職人に文句が言いたい。

 仮にも「幸運」とか「幸運の女神」という意味の社名を掲げていたのだから、もう少し晴れやかな感じにできなかったのかと。

 しかし文句を言おうにもFortuna社はもうなくなっているし(そこからして既に運がない)第一こちらは楽器の身だ。訴えるすべがない。虚しい。

 

 ――とはいえど。

 嘆いてばかりでは始まらない。不幸の数を数えるより幸せの数を数えよう。

 花に嵐の例えもあるさ さよならだけが人生――間違えた、これはまずい。

 ええと……とにかく前向き思考でいこう!そうすれば音も明るくなる!……はず。


 なんでそんなことを考えているかというと、私なりの仮説があって。

 

 ヤマハさんもバックさんも、性格が明るくて音も明るい。

 私は性格が暗くて音も暗い。

 それならば、私も明るい性格になれば音が明るくなるのではないだろうか?

 これが私の仮説、名付けて「性音一致説」。

 

 というわけで私は明るい性格になるべく、日々「良かったこと」を数えたり、すぐ落ち込む「心のクセ」を直す方法を模索したりしている。

 効果のほどは今のところよくわからないけど、「成功とは成功するまでやり続けること」だそうだからあきらめないで続けていこうと思っている。

 


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