内藤さんと憂鬱な女神
高部
プロローグ
「オーディション……駄目だった」
まだ口をつけていないコーヒーカップを見つめながら真弓さんが言った。
内藤さんはまばたきを止め、苦しげにうつむいた。真っすぐ伸びていた背中がしおれ、膝の上に置かれた手がジーンズを軽く握り締める。
「……残念だったな」
「はは、内藤君私より死にそうな顔してるよ」
真弓さんは無理に笑って見せて、カフェチェアの薄い背もたれに音を立てて体を預けた。
「あーあ、私の4年間なんだったんだろう」
口元は笑いの形をとったままだけど、あてどもなく店の奥の方を見ている目は赤く潤んでいる。
そんな彼女を励まそうと、内藤さんはテーブルに身を乗り出す。
「べつにこれで終わりってわけじゃないんだから。チャンスはまたくるよ」
「……これで終わりなの」
「えっ?」
予想外の返事に戸惑う内藤さん。真弓さんは早口で続ける。
「決めてたんだ。今回のオーディションが駄目だったらもうサックスはやめようって」
「なんでだよ。せっかくここまで頑張ってきたのに」
「だって私もうすぐ27だよ。ずるずる夢を追いかけてたらあっという間におばさんになっちゃう」
少し皮肉な笑みを浮かべる真弓さんに、内藤さんは何か言いかけて、でも口ごもった。
内藤さんも会社勤めで世の中の厳しさは肌で感じているから、軽々しく「慌てることない、時間はまだある」とは言えなかったのだろう。
沈黙が続き、店内に流れるBGMと周りのお客さんの話声が二人の間を素通りしていく。内藤さんが口を開くまでの時間は随分長く感じられた。
「じゃあ……これからどうするんだ」
「カナダに行こうと思って」
「カナダ!?」
「向こうに友達がいるんだけど輸入工芸品のお店やっててね、手伝ってくれないかって」
「工芸品って……真弓そういうの興味あったのか?」
「全然。ぶっちゃけなんでもいいんだ。何か新しく始めたいの」
前向きなのか投げやりなのかよくわからない決意を押し固めるように、真弓さんはテーブルの上で指を組んだ。靴紐も締めずに走り出そうとしているようで、見ていてひどく危なっかしい。
「待てよ、そんな……新しいことだったら日本でも始められるだろ。それにサックスだって、プロになれなくたって続ければいいじゃないか。真弓にその気があるなら、うちの楽団に――」
「内藤君。私、音楽は趣味ではできないよ」
その一言で、内藤さんの体が固まった。肉付きの薄い頬から血の気が失せた。
真弓さんは申し訳なさそうに唇をかんで、少し間を置いた。けれど、後戻りはしなかった。
「……ごめん、内藤君のこと馬鹿にしてるわけじゃないよ。内藤君みたいに仕事しながら趣味で音楽続けるのも全然アリだと思う。でも私は……人生賭けてたの。本気でプロになるつもりだった。だから中途半端には続けたくないんだ」
どこまでも正直に、偽りなく語られる言葉。
それらを突きつけられ、内藤さんは呆然としていた。
海の向こうの国へ行くことよりも、その言葉が二人の距離を決定的に隔てたのかもしれない。
「カナダの話ってどこまで具体的なの」
尋ねる声は力なくかすれて、引き留めようとする気迫は感じられなかった。
「夕べその友達にメールしたからビザのこととかすぐに手続き始めてくれるって。ビザが取れるまで時間がかかるからその前に観光で一回行ってみるつもり」
そうして真弓さんは冷めたコーヒーを何も入れず半分ほど飲み干し、軽く深呼吸をしてから切り出した。
「それでね、私たちのことなんだけど――」
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