壁の影

 ベッドの中の炎は隣の部屋の明かりに背中を向け、寝たふりをしながらぼんやりと照らされた壁をじっと見つめていた。

 気配を無視しているのか、それとも本当に気付いていないのか。隣の部屋で少年が淡々とテーブルの上に並べた道具をカバンの中に戻していく音が聞こえる。

 炎は身じろぎもせずに聞き耳を立てていた。

 カバンのふたが閉められた。静かに立ち上がり、カバンの紐に首を通している。椅子を引いた。衣服の音が聞こえる。すぐにほとんど聞こえなくなった。マントを羽織ったことが分かった。

 炎は音を立てずに爪を噛んだ。

 どこに行くのか、聞いたところで答えてくれないことを、炎はよく知っていた。おじさんと一緒だと、思っていた。おじさんも教えてくれなかった。

 悔しかった。

 炎の見つめる壁の明かりが揺らいだ。輪郭のはっきりとしない少年の影だった。

 このまま何も言わずに出て行くのは分かっていた。炎は何度もこうして出かけていく少年を見送っていた。

 おじさんもそうだった。何も告げずにおじさんは出かけていく。何日も帰ってこない。その間、ずっとひとりで過ごしていた。部屋の本は読めなかった。配給所に行っても誰とも話せなかった。

 配給所で少年に声をかけられた時、飛び上がるほど驚いたことを覚えている。知らない男に話しかけられるのは怖かった。少年の優しそうな顔立ちがかえって不安だった。おじさんとふたりだけの世界に割り込まれた気がした。

 そんな不安は少年が語り出した話に耳を傾けるうちに消えていた。自分と同じようにおじさんと一緒に過ごしていた少年。そこを飛び出してひとりで暮らしながら大勢の仲間と助け合っている少年。おじさんの話も聞いた。面白おかしい話ぶりに思わず笑ってしまった。笑い過ぎて苦しくなった。

 気がつくと少年を信用していた。

 配給所にひとりで行く度に少年と会うのが楽しみになった。少年の仲間にも会った。学校で過ごす時間は楽しかった。読むだけで教えてくれなかったおじさんと違って少年はちゃんと文字を教えてくれた。本の面白さを知った。学校での時間がずっと続けばいいのにと思った。

 気がついたおじさんに怒られた。

 飛び出して来いと少年には言われていた。その言葉通りにおじさんのところを飛び出した。迷いは無かった。少年と一緒に仲間たちと楽しい時間を過ごすつもりだった。

 少年のために働くことは喜びだった。少年が地上を目指していると言い出した時も何も疑わなかった。そのために出来ることが何か、一所懸命に考えた。本も読んだ。堀を埋めるために赤い堀に協力した。少年が男たちをまとめるために必要な儀式も始めた。少年とふたりだけで儀式のためのアルコールを用意した。炭の作り方を本で見つけた時は寝られないぐらい興奮した。炭を作るためにパンを使うことを思いついた。できあがった炭を使って鉄を鍛えた。

 少年の思い描いた地上への夢は炎の夢でもあった。少年がいなくとも、少年に信用されていなくとも、地上へ至る日を実現すること、そのためには仲間を使うことにも、必要であれば裏切ることも、ためらいは無いはずだった。

 少年が自分を信用していないことを知ったのはいつだっただろうか。

 少年もおじさんと同じように何も告げずに出かけていった。何日も帰ってこなかった。どこへ行っているのか、聞いても答えてはくれない。仲間たちに聞いても誰も知らない。 おじさんと少年ふたりだけが知っている秘密、その存在を考えると頭がおかしくなりそうになる。おじさんとふたりだけの生活に少年が割り込んできたのではなく、元々おじさんと少年ふたりだけの世界に自分が割り込んだだけなのか、炎は悶えるほど苦しんだ。

 答は出なかった。

 部屋の扉が静かに開かれる音が聞こえた。必死で聞き耳を立てている炎に、その音は途轍もなく大きく聞こえた。部屋を出て行くかすかな音が聞こえた。マントを着ていても、わずかな足音は聞こえる。

 少し時間を置いて、扉が閉まる音がした。

 もっと集中するために目を閉じた。

 扉の向こうで遠ざかっていく足音は、もう聞こえなかった。

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