少女

 少年は宮殿の図書館の目も眩むような高さの本棚に挟まれた通路の谷間にいた。

 儀式を見た後は、なぜだか宮殿の図書館に来たくなる。地上の世界の本を、なるべくわけの分からない、読むのではなく何も考えずに眺めていられる綺麗な本を次から次へとめくりながら、ただひたすらにページに没頭したくなる。

 そう思ってやってきたはずなのに、宮殿の図書館の前のガラスの壁まで来ると、崖に立つ度に考えながら崖を離れると簡単に忘れてしまう疑問を改めて思い出してしまう。ここは宮殿のどこなのか、崖から見る宮殿のどの部分なのか、ということを。

 そして、本の背表紙しか目に飛び込んでこない静かな通路を歩き回っていると、思い出したはずの疑問をすぐにまた忘れてしまう。乾いた匂いと動かない空気の中を彷徨い続けるうち、どれだけ読んでも尽きることの無い膨大な文字の量に圧倒されてしまう。自分の考えていること何もかもが小さく思える。

 図書館でおじさんと出会うことは無かった。少年はおじさんの動きは常に気にかけていた。おじさんが図書館に出かけるとしばらくは間を置くことはよく知っている。その機会をいつも確認してから来るようにしていた。

 ひとりきりの図書館で少年は手に取った本の中に吸い込まれるように読み耽っていた。見たことのない世界。地上の世界。どれだけ本を読んでもその世界に近づくことは無い。地上の世界のことを読めば読むほど、居住区やこの地下の世界とのあまりの隔たりに言葉を失う。

 地上の世界が既に滅亡したとおじさんは言った。少年はそれを強く否定した。けれど、地上の世界が滅亡していないということにそれほど強い確信があるわけではない。

 おじさんの言うことが信じられない、それが先だった。おじさんの言うように本の中に全てが書いてあるとはどうしても思えなかった。自分で考えてみた。地上のこと。この世界のこと。そのうち、おじさんの言っていることに何の証拠も無いことに気がついた。食料のことも、儀式のことも、この世界を保ち続けている秩序のことも、何もかも、この世界がこの世界だけで完結しているわけではないということを示していた。

 それに、と少年は思う。この世界以外の世界が存在しないのだとしたら、それは何か途轍もなく恐ろしいことのように思えた。自分ひとりの他にこの世界に誰もいない、そんなことを少年は想像する。それは、あまりに悲し過ぎた。誰かがいなければ、怖くて生きていけない。例え言葉を交わしたことがない相手でも、誰かがいれば怖くはない。この世界にたったひとり、そんなことがあるはずがない。

 自分がどこまで本気で地上をめざしているのか、少年はたまに分からなくなる。茶色の憧れた山羊女とその宮殿には、自分とおじさんはこうしてやってくることが出来る。その道を茶色に教えなかったことはまだ後悔していた。あの時、迷わずに教えていたら、一緒に宮殿に来ていたら、茶色は死なずに済んだのかも知れない。そして自分も鋭い目を殺さずに済んだのかも知れない。

 湧き上がる考えが止まらなくなれば本を閉じ、通路を進んで別の本を探す。夢中になって余計なことを考えなくなればひたすら読み進める。そうしていると、何も食べなくても平気な気がする。気がつくと数日間を図書館で過ごしていることがよくあった。一緒に暮らしている頃におじさんが数日帰ってこないことがあった。図書館でこうして時間を忘れているからだということを、少年は今になってようやく理解していた。自分とおじさんとの共通点も。全く違う点も。

 椅子の無い図書館の中では時に、床に座り本棚に背中を預けて本を読む。重たい本を持つのに疲れてしまうと、床に本を置き、うつぶせになって読む。そのまま寝てしまうこともある。本の中に描かれた地上の世界が夢に出てくる。細部はぼやけている。何か大事なことがすっぽりと抜け落ちている。

 寝返りを打つと首にぶら下げた笛、茶色からもらった笛がカラカラと小さく音を立てる。そっと触れると、茶色のことを思い出す。茶色と一緒に宮殿に、この図書館に来れなかったことへの後悔とともに。そして、茶色が見つけたこの笛への驚きとともに。

 笛はおじさんが使っている音叉と同じ高さの音を出す。気がついたのは随分たってからのことだった。宮殿への鍵のひとつ、一定の高さの音によって開けられる鍵は、音叉の高さに合わせた声ではなく、この笛で簡単に開いた。

 茶色がその事実を知っていたとは思えない。その事実を知っていたのなら、宮殿に行くために必要な鍵について少年に聞いたはずだった。茶色は一度も鍵のことを聞かずに死んだ。鍵のこと、形の無い鍵のことは知らなかったに違いない。

 なのに、なぜ、茶色はこの笛を見つけたのか。

 おじさんが何かを思い出すように、茶色も何か、過去の記憶を思い出すことがあった。文字の時は驚くほどだった。知らないのではなく、覚えている。忘れたのではなく思い出せない記憶が、何かの拍子にあふれ出すようによみがえる。おじさんと茶色には共通するものがあった。

 それも、今となっては失われてしまった。茶色が思い出せないまま抱えていた記憶は、茶色の死とともに世界の果ての溝の中に消えていった。もう二度と取り戻すことはできない。

 少年が本から顔を上げると、そこに誰かがいた。

「あら、ここにヒトがいるのは久しぶりね」

 子どものように高く透き通った声だった。

 見たことのない灰色の服の誰かが、床の少年を見下ろしていた。

 大きな黒い瞳と小さな紅い唇。柔らかく滑らかな頬。細くしなやかな腕。真っ直ぐ床に伸びた二本の足。

 信じられなかった。

 山羊女が立っていた。

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