世界

 おじさんはふたりが一緒にやってきたことに驚いてはいないようだった。

「治して欲しい」

 少年はなんの説明もしなかった。

 おじさんは椅子に座った茶色の手首を持ち上げた。

「弱ってるな。熱い」

 おじさんが離した茶色の手が、ぶらんと下がった。

 少年は期待して待っていた。茶色がおじさんに救われる、それを信じようとしていた。おじさんなら何とかしてくれる、そうであって欲しかった。

「私には治せない」

 おじさんは首を振った。

 少年は待った。おじさんの次の言葉を。

 おじさんは何も言わずに開いたままの本に戻ろうとした。

「どうしてだよ、おじさんは医者の話をしていたじゃないか」

 少年は椅子を倒す勢いで立ち上がった。

「私は医者じゃない」

「そんなの知ってるよ。だけど、だけど、だけど、だけど、世界が、世界が本の中に書いてあるって言ってたじゃないか。この世界が本の中にあるって言ってたじゃないか」

「世界は本の中にある」

「その世界はどこだよ、本の中には何でも書いてあるんじゃないの。世界はどこだよ」

「地上の世界には医者がいた、医者は病気を治すっておじさんは言ってた。病気を治す方法も書いてあるんだろ、読んだんだろ。

「じゃあ、どうして治してくれないんだよ。どうして、どうして、どうして、医者の代わりになってくれないんだよ」

「本の中の知識は、本の中の知識だ」

「わかんないよ。じゃあ本に書いてあることってなんなんだよ。世界が書いてあっても、知識が書いてあっても、使えないんじゃ何のためだよ。何のために、そんなものがあるんだよ」

「おじさんの言ってる『薬』はどこだよ」

「おじさんの言ってる『病院』はどこにあるんだよ」

「おじさんの言ってる『医者』はどこにいるんだよ」

 少年の目から涙が溢れ出た。

 言葉がもつれてつながらなくなる。それでも言葉がこみあげる。止まらなかった。

「『薬』なんてなにもない。『病院』なんてどこにもない。『医者』なんてどこにもいない。ここには何もない。地上の世界にあったって、そんなの知ったことか。ここにはないんだよ。なんにもない」

「おじさんは本の中に世界があるって言う。けど、ここは本の中の世界じゃない。本の中の世界なんてどこにもない。おじさんの言ってる世界なんて、どこにもない。何の役にも立たない」

 少年は椅子を思い切り蹴り飛ばした。吹っ飛んだ椅子が壁際に積まれた本の山に当たる。積まれた本がガラガラと崩れ落ちた。

「本なんて、なんの役にも立たない」

 少年の肩が大きく上下していた。涙は止まっていた。

「帰ろう」

 少年は茶色の耳元に口を寄せ、はっきりと分かるよう大きな声で言った。

 茶色は何も言わずうなずいた。

 茶色はまた少年の肩を借りて立ち上がった。足が震えていた。

「ちょっと待って」

 少年は茶色を支えながら、服の内側のポケットから地下の小屋で見つけたずっしりと重い精巧なあの道具を取り出した。

「これ、なんだか知ってる?」

 少年は握ったその道具の先をおじさんにまっすぐ突きつけた。

「それは……」

 おじさんは答を探すかのように遠くを見た。すぐに顔をしかめ手を頭に当てる。

 何かを思い出そうとして頭痛が始まっている、それは少年にも分かった。

「うう……」

 小さく唸り声を上げたのは少年の隣の茶色だった。茶色は顔をゆがめ、白目を剥いて、大きく息を吐き出していた。

「大丈夫?」

 少年は慌てて道具をしまい、両手で茶色を抱きかかえた。茶色の目が戻った。

「それは……、ヒトを殺す道具だ」

 机に片手をついたおじさんが苦しそうに言った。

「その筒先をヒトに向け引金を引く。それだけでその先にいるヒトを殺す」

 おじさんは身体を起こしながら言った。

「どこで見つけた?」

 おじさんは少年を見た。

「おじさんの知らない『世界』さ」

 少年はそう言い放ち、顎を上げ、嘲るように見下ろした。

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