医者

 頭がふらついていた。膝に力が入らない。立ち上がるのもひと苦労だった。土気色の顔をした茶色とは何も言わずに別れた。何か言えばまた吐きそうだ。次にいつ会うかの約束もしなかった。いや、できなかった。

 結局、別れてすぐにまた吐いた。血が混じっていた。

 もう会わないほうがいいのかと、そんなことを考えた。会えば思い出してしまう、音の壁のあの苦しさを。考えたくも無かった。茶色の顔を思い浮かべたくも無かった。

 言い訳も考えずに部屋に戻り、おじさんに何も告げずに寝床にもぐりこんだ。何も聞かれなかった。おじさんの顔をまともに見ることはできなかった。

 二人で地下に降りたこと、音の壁を越えようとしたこと、おじさんとの秘密を守れなかったこと、何もかも後悔していた。枕に顔を押し付けながら声を出さぬようにして泣いた。




 次の日の朝、おじさんが用意してくれたとっておきの美味しいスープには口を付けられなかった。身体の中に何かを入れることが怖かった。あの音で掻き回され裏返されてしまった自分の身体が気持ち悪くてたまらなかった。

 あの部屋のことを音の壁と呼ぶ理由を尋ねてみた。あんな恐ろしい場所がなぜ存在しているのか。滅亡した地上にもあんな場所があったのか、そもそも何のためにあんな場所があるのか。理由が知りたいわけではない。けれど、聞かずにいられなかった。

 おじさんは頭痛をこらえながら必死で思い出そうとしてくれた。あの苦しさを経た今となっては、おじさんの頭痛が音の壁のあの苦痛より苦しいものだとは思えなかった。

 音の壁は何者かの侵入を防ぐためのものだとおじさんは言った。

「でも、誰が何のために?」

「衛兵や剣士達が宮殿を守るのと同じように宮殿を守っていると考えるなら不思議はない」

「そうじゃなくてさ、誰が誰から何を守るのってこと」

 おじさんは答えなかった。ただ苦痛に目を閉じ頭を押さえるだけだ。

 やがてそれも落ち着いた。おじさんはもう思い出していない。

「医者がいたらな」

 おじさんは少年のことを心配していた。

「でも、医者はいないんでしょ」

 少年の心には響かなかった。

「そうだ。この世界に医者はいない」

「じゃ、しょうがないよ」

 少年はおじさんに背を向けるように身体の向きを変え、そのまま目を閉じた。

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