決意
ガキどもにやられてから寄り道をあまりしなくなった。腫れはひいたものの顔のあちこちがまだ青黒く染まり痛みも残っている。また殴られたくはなかった。ガキどもと似た甲高い声が聞こえてくると身が縮む。
とは言っても、そろそろ限界だった。
少年は久々に学校に来ていた。
学校の建物に入る時もあとをつけられていないか何度も確認した。外で出会うのも恐ろしいが、建物の中で追い詰められるのは考えただけでたまらない。
鍵を開け、部屋に入る。扉を閉めると心が落ち着く。内側から鍵をかけると安心できる。少年はホッと胸を撫で下ろした。
が、窓が開いていることに気がついてしまった。
「どうして……」
窓は閉まっていたはずだ。一気に不安がこみ上げてくる。
どこかで物音が聞こえた。
身構えるひまも無かった。背後から足をすくわれる。思わず尻餅をつく。胸をつかれ仰向けに倒れる。誰かに乗られる。目の前に握り締めたこぶしを突きつけられる。瞬きもできない。
目の前で止められたこぶしがゆっくりと引かれた。その向こうに、長い茶色の髪の若者がいた。若者は少年の顔にかかったフードを手荒に剥がした。あらわになった少年の顔をまじまじと眺める。
若者の視線をまともに受け止めるしかなかった。
「立て」
若者が命じた。従うしかない。強く打った背中をかばいながら立ち上がる。
「ひどいな」
茶色い髪の若者は少年の顔のあちこちに残る青黒い跡を見ていた。
少年は何も返さなかった。
「おまえのか?」
若者が手に本を持っていた。見覚えがある。確か、ガキどもに殴られた日に見つけた本だ。どこかに消えてしまったと思っていた。あの日はこの本を読んで遅くなったせいでひどい目に会った。
目の前にいるのがあの時の長い茶色の髪の若者だということに少年はようやく気がついた。
「違うのか?」
若者はいらついているようだ。
「ボクのじゃない」
思わず早口で答える。
「じゃ、オレのだ」
茶色は本を自分のポケットに戻した。
別に惜しくはなかった。手間を惜しまずに居住区をまめに探せば見つかるような本だ。それでも、せっかくの本を価値を知らないこんな奴に渡してしまうことに少しだけ抵抗があった。
「読めるの?」
少年がたずねた。悪意は無かった。
一段ときつい視線が返ってきた。少年が目をそらすと、茶色の若者はなにも言わずにポケットに手を突っ込んだ。
少年は配給所でのことを思い出し身を固くした。
ポケットから取り出されたのは小さな笛だった。
少年は目の前に出された笛を見て何度か瞬きした。
「笛だね。どこで見つけたの?」
「笛?」
「笛は……、そう、楽器だよ」
「楽器?」
楽器は地下のあの場所やこの学校以外の場所にもあるのだろうか。
少年はもう笛のことで頭がいっぱいになり始めていた。
「これ、どこで見つけたの?」
「オレが聞いてる」
「え? ああ、楽器っていうのは……」
音が出せると言おうとして止めた。居住区では大きな音を立てるなとおじさんからきつく言われている。
少年が黙りこんだことを茶色は責めなかった。
「ここで何してる?」
答えていいものかどうか、少年は迷っていた。
茶色が動く。少年が身構える。笛がポケットにしまわれた。
「本を読んでるんだ」
自分の声がかすれているのが不思議だった。
「本?」
「そう、さっきのもそうだけど……」
少年は本棚から本を取り出した。
「こういうの。本って」
言ってからすぐに後悔した。余計なことを言い過ぎだ。おじさんには絶対に話せない。
茶色は少年の手から本を取り上げた。
「これが?」
「本」
「さっきのと違う」
「違わないよ。文字が書いてあるんだ」
「文字?」
「本の中には色んなことが文字で書かれてる」
茶色は手にした本をめくった。
「文字」
「そう、文字」
「文字ってなんだ」
真っ直ぐな視線だった。
「文字っていうのは……、言葉を書き表したもので……、つまり、ボクらが今話しているようなことも文字を使って書けるんだ」
「どういうことだ?」
文字は文字だ。少年は答に窮した。どうやって説明したらいいのか。つま先を見つめる。いい考えを探していた。
少年は窓に近づいた。窓枠には埃が溜まっている。その埃を集めた。
茶色が注意深く見守っていた。
少年は床にひざまずき、手に持った埃を薄く撒いた。
うまくいくかは分からない。やってみるだけだ。
埃の上で指を動かす。
どうやらうまくいきそうだ。
「何をしてる?」
少年は答えなかった。指を動かすことに集中していた。
「山羊女」
少年は指を止めた。
茶色は何も言わずに埃に描かれた形を見下ろしている。
「ボクは今、ここに山羊女と書いたんだ」
少年は埃に書いた文字をもう一度ゆっくりと指でなぞった。
「山羊女?」
目の前の若者が文字を読めるとは思っていなかった。この世界で文字を読めるのはおじさんと少年だけだ。それは、多分、間違いない。
「どういうことだ?」
茶色の声は落ち着いていた。
知ろうとしている、それが少年にも伝わっていた。
教えたい。自分の知っている文字や言葉を、目の前の若者に教えたい。でも、どうやって?
笑うつもりは無かった。けれど、文字を知ろうとしている人間と初めて出会ったことでこみ上げてくる何かを抑えられなかった。
「どういうことだ?」
茶色はもう一度聞いた。
「これが文字。山羊女と書いてある」
茶色はわからないという具合に頭を振った。
少年はもう身の危険を感じてはいなかった。むしろ、今、目の前で何かを掴もうとしている瞬間に立ち会えた、そのことに昂ぶりを感じていた。
茶色は手に持った本をもう一度開いた。
「これも、文字か?」
「そう」
理解し始めている、少年には分かった。
「これも文字か?」
ポケットから取り出した本を開いた。
「そう!」
少年は笑いを我慢できなかった。
茶色が開いた本を少年の胸に押し付けた。
一瞬怯んで後ずさりした。すぐに求められていることに気がついた。
開いた本を受け取り、ページの一部を指差しながら、そこに書かれた文字を声に出す。
真剣な目だった。茶色い髪の若者は、少年の声をひと言も聞き逃すまいと耳を傾けていた。
今この瞬間、少年は彼に文字を教えようと決意した。
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